英国ギルドホール音楽院ピアノ科での講演の報告:金塚彩
更新日 2018.7.9
2018年5月23日、英国ギルドホール音楽院(Guildhall School of Music and Drama)ピアノ科にて「ピアニストの手のけが − 上肢の解剖、疾患とその予防 −」の講演を行いました。ギルドホール音楽院は1880年に設立された英国ロンドン市立の名門学校で、世界中から留学生を集め、数多くの素晴らしい演奏家や声楽家を輩出し続けています。下記のような内容で、ピアノ科の学生を対象に90分の英語による講演を行いました。
【講演内容】
1.自分で出来る、けがや病気の簡便な診断法の紹介
(1)A1プーリーの圧痛
(2)Tinel sign
(3)Finkelstein’s test
(4)手掌の皮膚のひきつれ、軟部腫瘤
2.ピアノ演奏の特徴
(1)演奏時の姿勢(座位)と基本的な肢位(前腕が回内)
(2)ピアノ演奏に求められる身体的資質
・手の圧倒的器用さ、訓練により高度に発達した触覚と固有感覚
両手各指の独立性、高速でも正確な打鍵、音色を弾き分ける表現力
ピアニストはなぜ目を閉じてもピアノが弾ける?
・柔軟な手、手の大きさ
・研ぎ澄まされた聴覚
(3)演奏と脳の活動性
・複雑な演奏動作の制御、暗譜、感情表現に伴う脳の活性化
3.上肢の解剖
(1)正中神経、尺骨神経、橈骨神経の走行
・頚(→胸郭出口)→肩→肘→手→指
(2)屈筋群、伸筋群とその腱、支配神経(運動神経と感覚神経)
・練習後、首や腕、手が痛くなるのはなぜ?
4.ピアニストのPerformance Related Musculoskeletal Disorders (PRMDs)
(1)総論
(ⅰ) 定義
(ⅱ) 疫学
(ⅲ) リスク因子
(2) 具体的な疾患の紹介
(ⅰ) 腱鞘炎、腱周囲炎
(ⅱ) 手根管症候群、肘部管症候群
(ⅲ) ガングリオン
(ⅳ) デュピュイトラン拘縮
(ⅴ) フォーカルジストニア
5.手のけがの予防と対応
(1) 健康、生活習慣
(2) ウォームアップとクールダウンエクササイズの実演(全員参加)
・肩回し→首のストレッチ→体幹のストレッチ(前後側屈、ひねり)
→手を振り緊張をほぐす→前腕の屈筋と伸筋のストレッチ→指のスト
レッチ→深呼吸
(3) 姿勢
・適切な椅子の高さと位置
・不要な緊張をなくしリラックスし、効果的にエネルギーを使う
(4) 休憩の大切さ
(5) 過負荷を避けた練習プラン
(6) 助けを求めるタイミングと相談するべき相手
・休んでも痛みがとれない、または徐々に症状が悪化してきた場合
・まずは身近なご両親や先生に相談してみよう。
・より詳しい相談は、GP (英国の家庭医)またはPerforming Arts
Medicineのスペシャリストの診療予約をとろう。
http://www.bapam.org.uk/practitionerdb/london.php
6.音楽家を支援するさまざまな組織
(1) British Association for Performing Arts Medicine (BAPAM)
http://www.bapam.org.uk/index.html
(2) BAPAM Free Health-assessment Clinic
http://www.bapam.org.uk/perf_clinics.html
(3) Love Music Help Musicians
https://www.helpmusicians.org.uk
(4) Musicians Union (MU)
https://www.musiciansunion.org.uk
(5) Performing Arts Medicine MSc, University College London
https://www.ucl.ac.uk/surgery/graduate-taught-study/performing-arts-medicine-msc
7.PAM day 2018 (2018年7月21日UCLにて開催)の告知
・British Association for Performing Arts Medicine (BAPAM)にて認定された
Performing Arts Medicine (PAM)の専門家による教育講演
・今回の講演テーマは、PAM無料クリニック、音楽家の手のけが、パフォーマン
スとアイデンティティ、ダンサーの身体の柔軟性、
ハムストリング損傷のリハビリテーション
・医療従事者、医療系学生、ステージパフォーマー(音楽家、ダンサーな
ど)、音大やダンススクールの学生と指導者などが参加し意見交換を行う
http://www.ucl.ac.uk/lifelearning/courses/performing-arts-medicine
8.フリーディスカッション
・疑問点について自由に質問してもらった
講演当日は、ピアノ科副科長のPamela Lidiardさん、そして小川典子さんの宣伝活動のおかげで多くの学生が集まってくれました。彼らはとても熱心で、ウォームアップエクササイズの実演にも積極的に参加してくれました。楽しく和やかな雰囲気の中で90分があっと言う間に過ぎていき、特に最後のフリーディスカッションの時間は盛り上がりました。例えば手首のできものが何か、指や肩を回すとポキポキ言うのはなぜか、練習を数日休むと手のひらの肉の厚みが減る気がするのはなぜか、指が他の友達よりすごく曲がるが大丈夫か、両小指 を伸ばしていくと引っかかりを自覚するが放置していてよいか(両小指MP関節伸展に伴う弾発現象)、指の骨折時のあとから左右の手指長に1.5cm差がある学生がピアノの演奏活動を継続する上で気をつけるべきことは何か、など、簡単に答えられるものから、クリニックで診察して長期予後を知りたいケースまで、たくさん出ました。学生たちが自分の悩みや疑問を共有してくれたので、出席者のみならず私にとっても大変勉強になる時間となりました。競争が激しく厳しい音楽の世界にあって、学生たちが自由でのびのびと過ごせるギルドホール音楽院の校風にも深い感銘を受けました。
講演の始めに手や腕に痛みやけがの経験について尋ねたところ、ほぼ全員がYesと答えました。問題意識が高いか実際に痛みに悩まされたことのある学生が聴講に来てくれていたのだとしても、相当数の学生が上肢の痛みを経験し助言を求めているということは、音大でのPerforming Arts Medicineの教育の必要性を示していると言えます。ピアニストはソロ演奏が中心のため個人で練習する時間が多く、痛みやしびれ、違和感を自覚したとしても相談する機会は少ないのではないでしょうか。 若いのでOveruse(使いすぎ)やMisuse(誤用)による症状が大半だと思いますが、ガングリオンもよく見られます。手のガングリオンはピアニストにとってはたいへん厄介に感じられることがあります。思わぬ事故やけがは誰にでも起こり得ますし、年を重ねれば変性性疾患にかかる可能性も増えます。基本的な解剖や病気の知識を学生時代に学んでおけば、のちに役立つはずです。今回の講演は、若いピアニストが抱える身体的問題の現状を把握し、具体的な対策を模索するための貴重な第一歩であったと感じています。今後も学生のみなさん、そして指導者の先生方とより良い関係を築き、相互の理解を深めて行きたいと思います。
なお本講演は、東京とロンドンを拠点に世界で活躍中のピアニスト小川典子さんとの出会いにより実現いたしました。典子さんは国内外の演奏活動はもちろん、国際的なコンクールの審査、教育活動や執筆業など幅広い分野で活躍されており、世界中を飛び回り大変お忙しくされています。2018年3月、まだ寒いロンドンで初めてお目にかかった際、私がUniversity College Londonで演奏家のけがやその予防について学んでいることや、日本のPerforming Arts Medicineを今後発展充実させたいという夢をお伝えしたところ、典子さんが教授を務める英国ギルドホール音楽院のピアノ科で講演をぜひやってみないかという提案をして下さいました。出会って間もない私に、このような大きな舞台を与えて下さり本当に感謝しております。この経験を活かして今後も活動を続けたいと思います。
また講演の準備にあたりましては、手外科グループの徳永進先生、國吉一樹先生、鈴木崇根先生、岩倉菜穂子先生、松浦佑介先生より、ご助言と温かい応援の言葉を遠方日本より戴きました。留学先の指導医であるDr. Hara Trouliも、スライドのチェックをして下さいました。英語の読み原稿およびスライド中の文法については、英語の家庭教師、Mr. Matthew Smithに細かく添削して戴きました。またいつも支えてくれる家族にも、感謝しています。皆様ありがとうございました。間もなく帰国致しますが、今後は日本のPerforming Arts Medicineの発展と充実を目指し、さまざまな分野の専門家の方々と協力して診療研究に取り組んで行きたいと思います。