守屋秀繁名誉教授の独り言
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名誉教授の独り言 (194) オランダ倶楽部 - 近況報告
平成30年12月 5日

 私は横綱審議委員を10年満期で終了してもうすぐ2年になります。横審の委員の方たちとすっかりお会いしなくな りました。年に6回、計60回(正確には朝青龍に引退勧告書を書いた臨時委員会も含めると61回)会っていると委員 を辞めても会って話をしたくなり、内館牧子女史(以後内館さん)が発案し、私もその会に入れて頂きました。第1回は内館さん、山田洋次監督、澤村田之助さん、と私の4人で銀座の中華料理屋さんで始まりました。もし側に相撲記者さんがいたら十分に記事になるような話で盛り上がりました。
 第1回の終了直前に内館さんが今後も続けたいがこの会の名前をなんとするかという話になり、色々と案が出されました。私はこの宴席を自分が払うと言い出したら皆さんそれも可能だと思ったのですが、この会を長続きさせる為にはワリカンが良いのではないか考え、ワリカンを英語でDutch accountというので「オランダ倶楽部」ではどうでしょうか、と提案しましたら、皆様から相撲と関係なさそうで良い、というご賛同を頂き決まりました。その後この4人に元委員の方が加わったり加わらなかったりして年に1~2回楽しく開催してきました。
 なぜ山田監督が映画監督になられたのかとか、内館さんが何故相撲を好きになったのかかとかいろいろと楽しい話が続きました。山田監督は満州から帰り東大法学部の授業料が一番安かったのでそこへ進んだが法学部の授業は性に合ってなかった、結果として松竹に入社し、助監督、監督となってしまった、と言っていました。内館さんは秋田の大旅館のお嬢様で小さい時から身の回りの事を面倒見てくれていた人がいたので幼稚園に通いだしても着替えとかも一人では出来ず、同級生にいじめられたのを、太った体の大きい子に助けられ、以後そういう男の子が好きになり、それが力士やプロレス、ボクシング好きに繋がったと言っていました。私がどうして医者になったか聞かれたので「小学校4年の時に母親にあなたは医者に向いていそうだから頑張って医学部に行って医者になったらどうでしょう」と言われたのでそのまま医者になりました。でも中学2年の時に噺家の方が楽かなと思い、当時NHKのジェスチャークイズの男性軍キャップテンだった柳家金語楼さんに弟子にしてくれるかという手紙を書いたら、これからの噺家は教養が必要なので大学に行きなさい、大学を卒業してもまだ噺家になりたかったら、もう一度手紙を下さい、というお葉書を頂きました、でも私は大学卒業後に医者でしたし、金語楼さんはお亡くなりになっていたので、そのまま医者をしています、という話をしました。
 最近も山田監督は相変わらずご多忙のようですし、田之助さんは体調を崩しているようですし、内館さんは執筆に多忙のようで、私はすっかり出不精になってしまい、オランダ倶楽部は暫し休会になっています。最近は内館さんともっぱらメルトモとして楽しんでいます。内館さんとはいつの間にかメール上はガールフレンド、ボーイフレンドの間柄になってしまい、相撲の事などをメールして楽しんでいます。9月場所ではガールフレンド様が大ファンである稀勢の里がそれなりの成績を上げたのでガールフレンド様は大変盛り上がっていました。でも、11月場所で4連敗後に休場となってしまいましたので、意気消沈でした。今は私も稀勢の里の復活を願っています。


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名誉教授の独り言 (193) 関節鏡
平成30年11月 9日

 最近、横綱白鵬が関節鏡で関節ネズミの除去手術を受けたという報道を目にしました。力士が必要に応じ関節鏡視下手術を受ける時代になったことを感慨深く受け止めています。
 私は昭和42年(1967年)3月に千葉大学医学部を卒業しインターン生活に入りましたが、その頃は学園紛争真っ盛りで、突然規則が変わり、最後のインターン生となってしまいました。翌年1月に、鈴木次郎教授が東京駅で心筋梗塞で急逝しており、千葉大学医学部整形外科は教授不在でした。当時、国立千葉病院の病院長だった鈴木五郎先生のところへ相談に上ったら「君は整形外科をやりたいんだろう。教授なんて誰だって同じだよ」と言って下さり、そのまま千葉大学医学部整形外科教室に入局しました。
 翌年4月に川鉄病院に出張に出て、8か月後に上都賀病院に転勤になった時に当時の上都賀病院整形外科部長の大井利夫先生から「何か特別に用意してもらいたいものはあるか?」と聞かれたので「関節鏡を買ってください」とお願いしました。それから1年半、主に関節鏡をやっていました。
 帰局し主に膝の研究、勉強をしていたら井上教授から東京逓信病院へ行くように命じられました。当時、関節の内視鏡検査は膝がほとんどでした。関節の内視鏡器具は日本で初めて作られていましたが、その後は外国製の方が使い良い関節鏡になっしまいました。関節鏡の対象関節はほとんど膝だけであり、それも検査だけがほとんどでした。ごく稀に足関節などにも行われていました。鏡視下手術は盲目的な滑膜切除術ぐらいで現在のように半月板切除術や前十字靱帯再建術などは一般的には行われていませんでした。関節鏡を開発した渡辺正毅先生に1年半ご指導を頂き、自分の我儘で帰局しました。その後、LondonのRoyal National Orthopaedic Hospitalに留学しました。そこでは私の指導医であったMr.Lordon Tricky先生から親切にして頂き、特に関節鏡の時には「私は更衣室でコーヒーを飲んでるから関節鏡をして結果を教えてくれ」と言ってくれており、大変嬉しかったことを覚えています。イギリス留学中は整形外科はあまり学ばず、英会話だけ学んだような気がしています。留学から帰ってからは英語は全く不自由なくなり、井上教授から「自分も留学していれば君ぐらいになったのに」と言われてしまったことを覚えています。帰国後間も無くに開催されたSICOT KYOTOでは渡辺先生から共同座長にご指名頂き、無事勤めました。その後、関節鏡は益々進歩し、多くの関節で鏡視下手術が当たり前になり、私も教授にさせていただいた事もあり、関節鏡部門で国内だけではなく国際的にも色々と活躍させて頂きました。72歳の時にゴルフが大変下手になったので、関節鏡を含め一切の手術も下手になったと思い、辞めました。
 力士が躊躇なく受けてくれるようになった関節鏡視下手術が更に多くの患者さんが受けてくれるようになることを願っています。


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名誉教授の独り言 (192) 目標はエージシュート
平成30年10月23日

 先日、京都大学特別教授の本庶佑先生がノーベル賞を受賞なされました。偶然ですが本庶先生と私は同い年です。私はノーベル賞とは程遠い存在ですが、本庶先生がノーベル賞を受賞した時の記者会見で「これからの目標はエージシュート」と言っているのを見て、私もこれからの人生の目標をエージシュートと公言しようかな、と思いました。目標なので許していただけるかと思っています。
 こんな大それたことを目標にしたのはそれなりの経験を覚えていたからです。およそ20年前、平成10年 9月15日に私は人生最高のスコアーで回りました。38,37でした。その日はINスタートでしたが、出だしのパー5でドライバー、スプーン共にナイスショット、第3打120ヤードを左からの風を読んで旗竿より左2ヤードを目掛けて8番アイアンでショット。飛んで行ったボールが多少スライスしながら旗竿を直撃。そのまますとんと入ってしまいイーグル。ホールからボールを拾ったら、ボールに旗竿の青い塗料がついていました、それから暫くは膝ががくがくしたのを今でも覚えています。2番ホールのティーグランドでも膝ががくがくしてしっかりとは打てず、かなりショートし、結果はボギーでした。結局、INは1イーグル、5パー、2ボギー、1ダブルボギーの38でした。昼食にビールで乾杯しましたが、午後に入っても緊張は続いていたものの、心地よい緊張と受け止めていました。午後はパー、ボギーと続いてパー5でバーディー、ついでパー、ボギー、パー、第8ホールでまたバーディーを取ってしまいました。最後をパーで絞めて37、何と前半より 1打良いスコアーでした。この日以外でも前半30台もありましたが、後半は気負ってしまい、40を超えてしまう事ばかりでした。  これは20年も前の話です。でもやったことは事実です。現在、時間はいくらでもありますし、ゴルフをするぐらいのお金もありますが、いかんせん体力、筋力、感が伴っていません。でも目標とさせていただきます。
 7月のTIA以来、車の運転を辞め車も売ってしまい、大変不便をしています。特にゴルフの練習、ゴルフ場に行くのが不便です。2回ほど後輩の先生のお世話でゴルフ場に行きましたが、最近、袖ケ浦カンツリー俱楽部にロッカーを借りることが出来、バスでの往復の方法も判り、自宅からゴルフ場まで30分ぐらいで行けることも判りました。練習だけで行っても良いし、お風呂の後にビールを一杯飲めるし、今週の日曜日から頑張ります。
 本庶先生は京都ゴルフ倶楽部の理事をなさっているようですが私も昨年まで袖ケ浦カンツリー俱楽部の理事をしていましたし、更に私は日本ゴルフツアー機構(JGTO)の医事委員長を10年ぐらいしていました。私も京都大学整形外科の山室隆夫名誉教授にお誘い頂き京都ゴルフ倶楽部で 3~4回ラウンドをさせていただいたことがあります。京都ゴルフ倶楽部は、戦後アメリカ軍が上賀茂神社の裏庭を接収し作ったようで袖ケ浦カンツリー俱楽部より距離は多少短いものの大変美しく戦略性に富んだ素晴らしいコースです。本庶先生が京都ゴルフ倶楽部で頑張るのであれば私は袖ケ浦カンツリー俱楽部で勝手に頑張ります。
 本庶先生はノーベル賞の賞金を全て京都大学に寄付すると言っていました。大したものだと思っています。私がエージシュートをしても1銭にもなりませんし、アルバイト医師としてゴルフ代稼ぎぐらいしかしていませんが、その気概だけは学びたいと思っています。


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名誉教授の独り言 (191) 高齢者を甘やかすな
平成30年10月 1日

 先日、NHKの特番で、中村裕先生のドキュメント「太陽を愛した男」が放映されました。恩師井上駿一教授が大変尊敬していた先生で、わざわざ大分まで「太陽の家」を見学に行きました。当時、私は中村先生の事を存じ上げず、井上教授はいつも超多忙なのに何でそんなことをするのか理解できませんでした。その後、世の中でリハビリテーションやパラスポーツの重要性が論じられるようになり、その中で中村先生のことを少しずつ知ることになりました。今回「太陽を愛した男」はビデオを撮って2回見ました。2回ともどういう訳か恩師井上教授と中村先生がダブって涙が出てきてしまいました。中村先生のメッセージの中で最も印象的だったのが「身体障害者を甘やかすな」でした。自分の整形外科医人生でも確かにそのようなこともあったように思います。
 そして現在自分自身も77歳になり後期高齢者です。1日に2つの仕事は無理になってきました。午前中にスポーツクラブに行って、午後国技館へ行くと疲労困憊になってしまいます。そのような生活の中で自分を含めた高齢者の我儘が気になって来ています。
 特にスポーツクラブは老人天国です。高齢者会員の中にかなり我儘な会員がいます。先日もプール内歩行の後にストレッチングコーナーでちょっとストレッチングをしようと思い、男性高齢者の先客がいたのですが空いているところでやろうとしたら、「邪魔だからあっちに行ってくれ」と言われてしまいました。手を伸ばしても脚を伸ばしても絶対に当たらない所なのに、です。揉め事になるのは面倒なので「すみません」と言ってプールを出てしまいました。この男性には以前にも文句を言われた事があります。
 NHKの「チコちゃんに叱られる」でプールで目が赤くなるのはプールの中でおしっこをする人のアンモニアが原因との放映があり、その後に古手の会員に「そんなことがあるんですか」と聞きましたら「ありますよ、お風呂の中でもありますよ」と当然のように言われました。スポーツクラブの風呂でシャワーを浴びていたら「お湯がこっちに飛んできた」と文句を言われたことが3回あります。背中合わせに洗い場にいた時なので少しはあるだろうと思いますが、このような人は余程不幸な人生を歩んできて、心に余裕が無い人なのかと思ってしまいました。
 先日、歩道を散歩中に後ろから自転車で来たジジーに「邪魔だ!どけー」と言われたので、「歩道を自転車で走るのは道交法違反だ!車道を走れ!」「俺はいつもここを走っているんだ」「じゃー警察へ行こう」とやりあっていたら、ふらふらと車道に行きました。高齢者の我儘は挙げれば限りがありません。
 このような人の中には多少認知症が入っている人もいるのではないかと思いますが、多くは高齢者の我儘でしているように思います。私は小心なので揉め事になるのが嫌で多くは「すみません」と言って引き下がりますが、本当はそのような人に間違えを指摘し、直してもらうように言うべきと考えています。多分、言っても直らないと思いますが、勇気をもって言うべきだと思います.高齢者を甘やかさない方が結局は高齢者のためになると思っていますので。
 高齢者になったら「金持ちのような振りをすべき」、「健康そうな振りをすべき」と言われたことがあります。本当は金持ちで健康で心に余裕を持った人生の方が良いでしょうが、いつかはそうでもない時が来るでしょう。まー、自戒の念を込めながら、金持ちの振りをし、健康そうな振りをし、心に余裕がありそうな振りをしながら余生を送りたいと思っています。


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名誉教授の独り言 (190) 一過性脳虚血性発作
平成30年 8月22日

 過日の7月5日の不具合は一過性脳虚血性発作(Transient Ischemic Attack,TIA)だったのだろうという事で落ち着きました。その道の専門家である千葉大学の脳外科専門医にご診察頂き、幸いにしてほとんどの症例の原因である頸動脈の動脈硬化や不整脈も無く、ちょっと手遅れですが、2~3ヶ月アスピリンを服用することになりました。
 救急患者として大学病院を受診した時に全ての検査が終わり、「全ての検査で異常はありません。帰って良いです」、と言われた時は嬉しくて慌てて帰宅してしまいました。でも、「本当に何でもないのかなー」、という思いがあり、スポーツクラブでも恐る恐るexerciseしていました。その後に勧める人もいて、大学の脳外科を受診しTIAと診断されました。それにしても、発作後、最も危険な状態にある1~2日間に何も起こらなかったことは本当にluckyでした。今後3ヶ月以内に本物の脳梗塞になる確率は15~20%ぐらい(その約半数は最初の発作の1~2日目に起こるようです)のようですので、もう暫くはアスピリンを続けます。
 最終診断をして下さった脳外科医の先生は名医だと思います。約30年前に彼が医学部学生の頃に私が指導したことがあったようですが、私が恐る恐る「アルコールはダメでしょうね」と聞きましたら、「いやいや、アルコールは適量続けて下さい。その方が血のめぐりが良く、TIA後の本物の脳梗塞の発生率はデータでは38%少ないのです」、との事でした。大変嬉しくなり、「適量とはどのぐらいですか?」と聞きましたら、「350㏄のビールなら、その後は水割り1杯です」、とその量も教えて下さいましたが、後で考えたら「適量」というのが問題でした。実は私が普段頂いている酒量の約半分です。でもゼロより良いので、以後それは守ろうと努力しています。更に「スポーツクラブに行っているのですが、exerciseはしても良いですか?」「汗をかいて、ハーハー言ってやる運動は脱水になる可能性があるのでまずいです」「腰痛解消のためにプール内歩行ぐらいでは?」「それは良いです」という事でスポーツクラブでは今はおしゃべりとプール内歩行とお風呂に行ってます。ゴルフも暑い間は止めた方が良いという事でこちらも休んでいます。
 それにしても年をとるという事は色々とあちこち不具合が起こるものです。私自身では12年前の胃癌(胃を4分の3切除)、2年前の慢性硬膜下血腫(開頭手術で血腫を洗い流して貰った)、その後の胃癌の再発(胃カメラで粘膜切除)、今回のTIAと、どれで死んでもおかしくない病気ばかりです。我儘な私に最高の医療をして下さった医師、看護師さんたちに心から感謝しています。最初の胃癌の手術後は縫合部浮腫で大変苦しみ看護師さんたちを手こずらせました。慢性硬膜下血腫の時は術後2日目にすっかり症状も良くなってしまいましたので「こんなところにいたら病気になってしまう」と20年前には医学部学生だった主治医に言い残して「なにかあったら 先生の自己責任ですよ」との声を背中に感じながら退院してしまいました。その後の再発胃癌の時には術後の病院食の都合があり、早期には帰してくれなかったので、「こんなまずい食事では回復できない」と給食室に散々文句を言い続けました。にも拘らず、こんな患者を暖かく見守ってくれて、心から感謝しています。この後、年を重ねるともっともっと我儘になると思います。
 何卒、宜しくお願い申し上げます。


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名誉教授の独り言 (189) 人間万事塞翁が馬
平成30年 7月29日

 私は現在、すこしだけ医者をしていますが、その他の時間はほとんどスポーツクラブに行っています。今年の夏は異常に暑い日が続き、その中、サッカーのワールドカップ大会はロシア各地で行われました。
 その1ヶ月ぐらい前の6月3日に千葉大学医学部昭和42年卒の「ちよに会」のクラス会が開催されました。日本サッカー協会の田嶋幸三会長が当番幹事の龍野君の患者さんであり、それよりも田嶋会長の奥様が千葉大学医学部出身の女性のスポーツドクターいう事で講演依頼を断り切れず15分のミニレクチャーという事で「ワールドカップでチームジャパンはかく戦う」という話をかなり時間オーバー話してくれました。大変興味深いお話でした。
 いざワールドカップが始まるとその面白さに夜中までTVに釘付けになりました。結果として睡眠不足なりました。仕事は以前と同じようにやっていましたが、暑かったです。
 7月5日(木)に例によって先輩が木更津でやっている病院の整形外科外来を午前中こなしてから帰宅し、一休みしてから、暇だったので家から10分ぐらいのスポーツクラブへ行きました。車を駐車場に入れたのですが何かハンドルがふらふらしていて結果として車の左フェンダーを壁に擦ってしまいました。車をスポーツクラブの前に停車したら、スポーツクラブの仲間が何人か集まってきて、救急車を呼んで大学に行くことなってしまいました、その辺は良く覚えていませんが、CT,MRI とやってくれて1時間ぐらいで「何ら異状はありません。お帰り下さい」、となりました。
 症状としては一過性の小脳梗塞が起こった感じですが後遺症は全くありませんでした。どうしてこんなことが起こったのか?少し過労だったか?、熱中症の初発症状か?、夜中のワールドカップを見て寝不足だったか?、わかりませんでした。色々と原因は考えられますが、根幹は加齢的なものと考えました。その結果として「もう車の運転はしない」と決めました。今まで苦労に苦労を重ね、築いてきた栄光ある人生を棒に振るような晩節を汚すようなことはしたくないと思い決心しました。多くの人から「素早い素晴らしい決断だ」と褒められました。でも車無しの生活は不便です。ものすごく不便です。それなりに落ち込みました。でも車が無くても生きていけることは判りました。ただ、ゴルフに行きづらくなったので、夏の間はゴルフ中止としていますが、これからの事は改めて考えます。
 車の代わりにはなりませんが、京成バスが70歳以上の老人を対象に売出しているゴールドパスを求めました。半年で16500円で京成バス乗り放題です。私は主に小倉団地から千葉駅(片道380円)、と小倉台5丁目から都賀駅(片道220円)を使いますが、時には大学病院、青葉病院にも行きます。この1ヶ月で1万円位使いましたので、十分にペイするように思います。このゴールドパスを買って少し明るくなりました。そうこうしているうちにトヨタが左のフェンダーのへこんだ車を取りに来てくれました。車載車に積み込まれ出ていきましたが、その姿を見て、また落ち込みました。一瞬「また欲しくなるかもね。その時はもっとコンパクトな車かな。」とも思いました。
 いつまでも落ち込んではいられないので、今はせっせとスポーツクラブに通っています。毎日筋力訓練をしているせいでしょうか、ショートアイアイが前より飛ぶようになってしまいました。早く涼しい季節になることを願っています。


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名誉教授の独り言 (188) 老人力
平成30年 6月28日

 私は現在77歳ですが、まだ非常勤で2週に3回、外来を主とした医者をやっています。通勤に片道1時間40分かかりますが、それはあまり苦にならず、むしろ電車に座っているだけで時間を過ごしてくれて、大変あリがたいと思っています。
 朝、公園でのラジオ体操に行くためには朝食を5時半に取り、ゴミ拾いをしながら公園に行き、6時半からラジオ体操、その後モノレール、JRで病院に行き12時過ぎまで外来をしているとお腹が空いてしまいます。11時前後に患者さんの切れ具合を見て、5分ぐらい休憩を貰い、少しお茶を飲みながら家内手製の小さいおにぎりのお弁当を食べるようにしています。仕事内容的には何の薬を処方ているかを失念していると患者さんが教えてくれますし、自覚的には十分に応えていると思っています。
 暇つぶしにスポーツクラブに週に3~4回行っています。他にやることもないからです。元気なオジーちゃんやオバー―ちゃんが毎日沢山来ています。毎週火曜日は休館日なので安いゴルフ場に行きゴルフの後にお風呂に入ってくるという人もいます。自宅のお風呂にはカビが生えてしまい、使えない状態のようです。会員の多くは火曜日以外ほとんど毎日来館し、運動をしたり、おしゃべりをしたり、お風呂に入ったりしています。会員によっては1日に2回来る日のある人も多いようです。まだまだ十分に労働力になりそうな老人がほとんどです。
 でも、政府は少子高齢化で労働力不足を声高に言っています。スポーツクラブで元気な年寄りを多く見たりしていると、この老人たちに働いてもらうわけには行かないのかと思ってしまいます。
 定年退職した人を内館牧子女史は「終わった人」と表現していますが、私は小説「終わった人」は「まだ終わってない、これから第2の人生が始まるのだ」、と言っているように思います。私自身、65歳で千葉大学医学部教授を定年退職し、その翌日から鹿島労災病院長として第2の人生を始めました。でも、その4月1日に院長宿舎に案内していただき、光熱器具の不具合が判り、それは直ぐには治らないという事で、がっくり来て千葉に戻って来てしまいました。医学部教授現職中にはこのように世間から軽んじられたことはありませんでした。多分このような扱われ方が第2の人生に踏み出せない、長続きしない大きな理由のように思いました。私は当初鹿島労災病院で任期5年と言われていましたが、業績も回復したので4年で後任の人にお願いして千葉市に戻りました。それからは以前から依頼されていた「千葉市病院事業管理者」を3年間勤め、4年前からは常勤職を辞し、先輩の病院で一整形外科医として非常勤で勤めています。高齢になっているので、能力的にも体力的にも若い時より劣っているのは当然です。私は整形外科医でしたがもう年なので手術を自分ですることは辞めて、手術の方が適応の場合はしかるべき病院に紹介させてもらう方法で対応できています。医者以外でも若い時からやって来た仕事を生かして十分に働けるのではないかと感じています。老人になり一番辛いことはやることが無い事では無いかと思っています。問題は老人のプライドだと思います。現役の時はこんな扱いは受けなかったのに、もっと報酬も高かったのに、と思う事はしばしばあります。私はあまりプライドを持つ方ではないのかもしれません。いつの間にか「もう、年だし仕方ないか」と思うようになっていました。
でも行政の方々にもっと老人力を有効利用してほしいと願っています。


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名誉教授の独り言 (187) 終わりそうな人
平成30年 6月15日

 私のガールフレンドの一人である内館牧子女史が小説「終わった人」を上梓したのは2年ぐらい前だったように思います。自宅近くの本屋さんで並んでいたのを見つけ買い求めました。その2年ぐらい前に常勤職を辞した自分にとっては、良くここまで定年退職した男性の気持ちを表したものだ、と感心しました。
 昨年この小説が映画化されるとのメールをガールフレンド様から頂き、今年5月に銀座にある東映本社での試写会にご招待を頂き、家内と2人で見に行ってきました。館ひろしさんが主役でコメディータッチになっており、中年男性の悲哀があまり感じられず、原作の方が良かったと感じました。
 私は若い時は家事や家の経済などには目もくれず、患者さんの治療や研究などに全力を尽くしてきました。65歳の3月末日で千葉大学を定年退職し、翌日の平成19年4月1日から茨城県神栖市にある鹿島労災病院長として4年勤務しました。多くは週の中頃と週末に千葉の自宅に帰り、その他の日は神栖の院長宿舎に泊まりました。
 鹿島勤務3年半の頃の月曜日の朝に6時頃に自宅を出て東関東高速道の酒々井PAで家内と2人で和定食を食べながら70歳近い人のやることでは無いように思いました。体力的には大丈夫だったのですが精神的にそろそろかなと思い出してしまいました。その頃に千葉市熊谷市長の名代の方が鹿島労災病院に来て「平成24年4月から千葉市に病院局を創るので、そこの初代病院事業管理者になってくれないか」、という御依頼を頂きました。幸いにして鹿島労災病院も私が着任した時より業績も向上し、安定して来ていたので、そのお申し出を受けることにしました。千葉市病院事業管理者も大変な仕事でしたが、私の後を当時千葉大学学長だった斎藤康先生がやってくれるとのお話を頂き、3年で退職すると決めました。3年間の在任中に40億円ぐらい経費を節約したのではないかと思っています。そして4年前に常勤職の無い状態になりました。初めは大変気楽になりfreeの生活を楽しんでいましたが数か月後には何か不安な毎日になってしまいました。無職になってから半年後に週に2日外来をしてくれという申し出を頂き、3年ぐらい勤めましたが、経営者の方針と私が長い間医者をやって来た考え方が色々と異なり、そろそろ辞めたいなーと思っているところに千葉大学医学部の10年先輩の大変尊敬できる方から「病院を手伝ってくれないか」とのお申し出を頂き、これが人生で最後の仕事だと思いながら引き受けることにしました。朝5時に起き5時半に朝食を取り、6時に家を出て近くの公園に行きラジオ体操をして、その後モノレールで千葉駅に行き、そこからJRで約1時間かけて病院に到着するという事で多少ハードですが、現在でもその仕事を続けており、半分以上「終わった人」になっていますが、外来と入院患者さんの相談に乗るだけで手術はどんなに小さいものでも全くやっていません。という事で、まだ「終わりそうで終わってはいない人」の状態です。
 私は先月の誕生日で77歳になり喜寿を迎えましたが、腰痛はあるものの腰椎のストレッチングで何となく凌いでおり、体力的には、このお程度の内容ならまだ十分に働けるし、ゴルフもスコアーは別として、週に1回ぐらいなら大丈夫だと思っています。映画「終わった人」が先週一般公開されたようですので、千葉でもう1回見ようかな、と思っています。その上で何歳まで現在の仕事を続けるか考えます。


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名誉教授の独り言 (186) 栃ノ心の大関昇進は日本の整形外科医療の勝利です。
平成30年 5月27日

 膝には4つの大きな靱帯がありますが、その内、前十字靭帯は膝の中にある靱帯で大腿骨に対し脛骨が内旋しながら前方にずれるのを抑える靱帯です。外力が強すぎたり、体重が靱帯の強さより重かったりすると断裂してしまいます。前十字靱帯を断裂したまま相撲を続けると半月板損傷が続発することがしばしばあります。お相撲さんの膝前十字靱帯断裂は比較的多い怪我です。
 私の記憶では小錦が全盛期の1986年(昭和61年)5月場所で北尾が勝ち、その時のマスコミ報道では決まり手はサバ折りでしたが、小錦の右膝が中に入ったという事で、私は当時、膝の前十字靭帯断裂治療の日本でのトップランナ―でしたので、TVでその取り組みを見て、すぐに「前十字靭帯断裂を疑いました。その後、小錦は半月板損傷を続発し、横綱にはなれずに引退しました。
 その後、故あって私は横綱審議委員に推薦され任期10年の最後の2年間は委員長を務めさせてもらいました。昨年1月場所終了後に任期10年を満了しましたが、その場所で稀勢の里が優勝してくれて横綱に推薦しました。
 現在私は平成30年5月場所で栃ノ心が大関昇進を決めたことを大変嬉しく思っています。彼の5月場所での大活躍は日本人に深く共感を呼び、大変盛り上がりました。と同時に今後相撲界は力士の怪我をどのように捉えていくか関心のあるところです。
 現在は琴奨菊、安美錦、照の富士、宇良など多くの力士が前十字靭帯断裂、半月板損傷などで苦しんでいます。
 安美錦、琴奨菊らは装具で不安定性を少なくして頑張っていますが、今回の栃ノ心が手術を受け、幕内優勝もし、その後に大関昇進を決めたことを考えると、手術を受けるのも一案だと思います。昔は土俵の怪我は土俵で治せと言われていたようですが、時代は変わっています。
 かつて照の富士が関脇2場所で大関になったころに当時理事長だった 北の湖さんに「照の富士関は何時ごろ、横綱になりますか?」と聞いたことがあります。答えは「うーん、難しいですね。このまま今の相撲を取っていると膝を痛めるかもしれません」というお答えでした。その通りになってしまい、今後どうなるか心配しています。
 相撲界では、しこ、鉄砲、摺足だけが怪我の予防につながると言っているようですが、今後は科学を採用し、前十字靭帯損傷の受傷機転の分析、治療法の解析などをすべきと考えています。
 栃の心は幕下に陥落した時に、自分で前十字靭帯損傷について勉強し、手術(再建術)を受けたいと春日野親方に申し出たようです。術後幕下55枚目まで落ちた後に頑張って術後リハビリを行い、また復活したようです。どなたが手術をしたのかは存じませんが、力士が自発的に手術を受け、術後に復活したという事は日本の整形外科のレベルがそれだけ高くなったと勝手に思っています。今後は前十字靭帯損傷で苦しんでいる力士の方々が積極的に再建術を受けてくれることを熱望しています。


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名誉教授の独り言 (185) オランダ倶楽部
平成30年 5月 3日

 横綱審議委員経験者の何人かでオランダ倶楽部という名前で時々食事会を行い楽しんでいます。Founding memberは内館牧子女史、澤村田の助丈、山田洋次監督、私の4名でしたが途中に元横審委員で弁護士の松家先生や現委員の宮田文化庁長官が出席したこともありましたが、最近は、澤村丈のお具合が悪いようで、3名になってしまいました。今後はどうなるか判りません。横審OB、OGのお楽しみ会がオランダ倶楽部というのは「どうして?」と思われる方も多いように思いますが、それには訳があります。第1回のFounding member4名でのお楽しみ会の終わり頃に、この会の名前をどうするかという議論になり、その時に私が「この会のmemberはどなたも一人で全額をお会計することが出来るとは思いますが、この会を永く続かせるために毎回割り勘払いにするのが良いと思います。割り勘を英語でDutch accountという様なのでオランダ倶楽部という名前はどうでしょうか?」と提案し、それが受け入れられました。それからもう10年以上続いている会です。
 第1回の時に山田監督から突然「私は整形外科医を恨んでいます」と言われてしまいました。何のことか判らず、「何があったんですか?」と聞いてしまいました。奥様が1年ぐらい前に亡くなられたことは存じ上げていたのでいたのですが、「家内が亡くなる数ヶ月前に主治医から、どんな治療法でも良いのでご自分のご希望の治療をお受けになって下さい、と言われました」との事で「これって死の宣告でしょう。医者と言えどもそんなことを言って良いのか」とのお怒りでした。お話をよく聞きましたら、元のご病気が骨に転移し大変お苦しみになって7年ぐらい頑張られたとの事でした。「それは奥様も主治医も頑張ったことと思います。私は整形外科医ですので病気が骨に転移した時は診察します。でも多くは余命2年前後です。奥様も主治医も頑張られたと思います。お許しを頂けますと有り難いです。」と申し上げました。山田監督から「今日は来て良かった」と言って頂きました。
 その後も年に1~2回オランダ倶楽部は続いています。何故か毎回、相撲談義を中心に楽しく2時間ぐらいがアッという間に過ぎてしまいます。でも私は最近、東京で夜8時過ぎまで過ごすのは体力的に限界に近いです。一昨日も日本相撲協会維持員会懇親会で東京に行ってきましたが、会が夜8時過ぎまで続き、自宅に帰った時には夜10時ごろでした。八角理事長、尾車理事など幹部理事や横綱、大関、関脇、小結まで総出席で楽しく、ご馳走も沢山あり、少し食べ過ぎてしまいましたが、家に辿り着いた時はクタクタでした。
 最近の相撲界では楽しい話は乏しく、大変残念に思っています。横綱稀勢の里は徐々に稽古をしているようですが主に部屋の力士との稽古であり、TVで見る限り体の締まりが悪く、今日の五月場所横綱審議委員会の稽古総見でも3勝5敗だったようで、稀勢の里を横綱に推挙した張本人として、この先どうなるのか責任を感じ大変心配しています。一日も早く相撲ファンが明るい笑顔で相撲の話が出来る日が来るのを願っています。


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