守屋秀繁名誉教授の独り言
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名誉教授の独り言 (206) 第63回守屋杯
令和 元年 8月20日

 先日、第63回守屋杯が袖ケ浦カンツリー俱楽部袖ケ浦コースで開催されました。毎日続く猛暑の中、冠として私の名前が付いているので最初から欠席という訳にはいかず、「行くけど当日の状態で参加するかどうか決めたい」、と幹事には言っておきました。
 この「守屋杯」は63回も続いていて、大したものだと思っています。実は私が教授会で教授に選出されたのは恩師井上駿一教授が肝臓がんでご他界された翌年の昭和63年4月でした。その時の講師だった渡部恒夫先生が私が教授に選出されたのを喜んでくれたのか、好きなゴルフができると思って企画したのかは知りませんが、5月の連休に「第1回守屋杯」を袖ケ浦CC袖ケ浦コースで開催するという企画をしてくれました。私は5月末頃に辞令を頂くまでは「教授予定者なので全ての行動を慎重に行うように」と事務から注意されていましたので、もちろん不参加でした。でもこの会が年に2回やる、というのは千葉大整形外科初代教授だった鈴木次郎先生がお始めになった「次郎杯」の時にそうであったので、それを継承したものでした。以後年2回開催されていてもう63回です。32年目という事です。次郎杯がくたびれてきたころに2代目井上駿一教授のお名前を頂き「駿一杯」を造りましたが、井上先生自身がゴルフをあまりお好み出なかったこともあり、いつの間にか消失してしまいました。
 私自身は教授を19年、退任してから12年、その間に胃癌を2回、左そして右の慢性硬膜下血腫の手術を相次いで受け、良くここまで持ったなという感じです。最近はゴルフが大変下手になってしまいました。なかなか100を切れないゴルフになってしまいました。病歴と78歳という年齢を考えると仕方ないかと考え最近ではもうゴルフを辞めようかとも考えていました。8月始めの第63回守屋杯では56,49でした。翌週は練習だけをするつもりで新袖コースに行ったら旧知の仲間に会い、一緒に回ろうと言ってくれたので、お言葉に甘えたら53,49でした。今年の3月に右慢性硬膜下血腫の手術を受けてから術後経過が思わしくなく、月に2回位のペースでラウンドしていたのですが、思い切ってのゴルフが出来ず、7月は梅雨寒が続いたこともあり、昨年7月のエピソード以来、車を手放し運転は一切していないので家で何となくウダウダしていました。
 車が無いという事で一番不便なのはゴルフ場に自分の車で行けないという事です。7月下旬に同伴競技者になった89歳の方は東京からJRで鎌取駅迄来て倶楽部バスでコースまで来るという事で「大変でしょう?」と言ったら「89歳の老人が自分で運転して東京から袖ケ浦CC迄来たら何時事故を起こすか判りません。JRと倶楽部バスで来るのは当前です」との事で大変感心し、私も見習おうと思いました。8月中旬から何となく体調が良くなり、前回の「独り言」を翻して、もう一度練習を積んで復活したいという気になってきました。車の無いことは気にせず、昨日もバスで10分、バス停から徒歩10分の練習場に行く気になり練習してきました。汗びっしょりで練習してきましたが、ドライバーが7月ごろより力強く飛んでいました。これから週1の練習あるいはコースでのラウンドを続け、復調したいと願っています。昨日の練習では、私のゴルフのルーチンやフォームを昔の姿に戻しやってみたらそれなりに良い感じでした。ゴルフというのは試行錯誤を続けながらやるものでしょうが、上達するのにはそれなりの時間がかかりますが下手になるのはあっという間です。9月になったら週1のラウンドを続け、80歳になったらエージシュートを目指したいと思っています。


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名誉教授の独り言 (205) 雀ちゃん
令和 元年 8月 1日

 今年は梅雨寒が長くやっと終わったと思ったら猛暑の毎日が続いています。皆様は御元気でしょうか。そのような猛暑の中、昨日は誘ってくれる人がいてゴルフをしてきました。年のせいか体力が減退し、腰部脊柱管狭窄症性腰痛などもあり、苦労しながらのゴルフでした。更に昨日はゴルフ場に着くのが遅くなり、ちゃんと練習せずに本番に臨みました。第1打でチョロをしてしまい、その後もチョロ、チョロで第5打でバンカー越えのグリーン狙いの1打を58度wedgeを打ったら左上腕二頭筋長頭腱を痛めて(部分断裂)しまい(白鵬と同じ怪我です)、以後1日中左肩が痛くて痛くて・・・でした。暑さは厳しく毎ホール水分補給をし、2~3ホールごとに水道水を頭から被り熱中症の予防に努めました。肩の負傷のせいかちゃんと当たらないし、飛距離も激減しティーショットはフェアウエイまで届かないことも多く、往生しました。汗びっしょりになり、お昼には着替えをしてさっぱりしましたが、昼食も完食できず、しぶしぶ午後のラウンドに向かいました。午後も残り何ホールかを数えながら何とか18ホールを52,54で回ることができ、熱中症にもならずに済みましたが、終わったら疲労困憊で帰宅後も少しビールを飲んで少し夕食を頂き、バタン・キューでした。8月6日に守屋杯がありますのでそれは参加予定ですが、8月はその後のラウンドは辞めようかと思っています。年を取るというのは辛いものです。車の運転は昨年7月で辞めましたし、ゴルフは28歳の時に初ラウンドし、その時のスコアーが57,57でした。Best score は38,37でした。ホールインワンも2回しました。自分がハーフ50を切れないゴルフをするようになるとは思ってもいませんでした。今のゴルフはただ苦痛だけです。もう充分に楽しみました。今は何時ゴルフを諦めるか迷っています。
 家にいる時間が長くなり、その時間潰しも兼ねて、バードウオッチングのために我が家の猫の額ほどの狭い庭に家内が小鳥のエサ台を作ってくれました。家内がお釜を洗って残ったご飯粒をそのエサ台に置いてくれます。雀ちゃんがそのご飯粒を食べに来てくれます。あたかもどこかから見張っていたかのように、すぐに来てくれます。入れ替わり立ち替わりに来ます。最近はムクドリが来て、雀を追い払い食べています。それぞれの雀の識別はほとんど出来ませんが、先日他の雀とは異なる顔付の雀が来ました。雀には必ずある頬の黒斑が無く喉の黒斑も小さく全体として白い感じの雀で他の雀よりデブでした。早速に図鑑で調べたら中国北部からモンゴルに多く棲息している「ニューナイスズメ」ではないかと思いました。我が家では「シロデブ」とあだ名をつけました。
 ご飯粒の代わりに食べ残したパン屑をあげることもありますが、雀はパンよりご飯の方が好みのようです。ご飯粒は置くと直ぐに何羽もの雀が来て食べ終わってしまいますがパンにはそれほど食欲が湧かないようです。やはり日本雀(?)でしょうか。特にカビの生えたパンは全く食べませんでした。でも我が家のエサ台に来る雀たちは概して太っています。多分栄養満点なのではないかと思っています。もう年なので、このような楽しみの方が体には良いのかも知れません。


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名誉教授の独り言 (204) 無給医局員
令和 元年 7月 3日

 私は医師免許証を頂いてから52年目です。従って私が無給医局員になったのは52年前です。そのころは学園紛争の真っただ中で、インターンは医局制度の諸悪の根源だと言われ、私の学年でインターン制度が終了しました。同時に医者になりたてとはいえ無給で働かせるのは問題ではないかとという考えもあり、その後暫くしてから額は忘れましたが相当安い日給をくれるようになりました。でも当初は無給でも当たり前のように思っていました。現在は安倍内閣の「働き方改革」で無給医が問題になっていますが、多くの研修医に安い日給は払っているのではないかと思います。今でも全く日給も貰っていない若い医師もいるかと思いますが、それはタダでも良いので勉強させて下さい、という医師のように思います。私が無給医局員だった頃には週1日は関連病院にアルバイトに行っており、生活に困ったという記憶はありません。
 私が医師になって1年目に大学病院に残してもらい雑用係をしていた時は、手術日には術者の汗拭き(当時は現在ほどエアコンが良くなく、術者は汗だくで手術していた)、出血量の測定(血でぬれたガーゼの重さを測定し、その値からガーゼ1枚3g×枚数を引いて麻酔医に報告する)、昼食の用意(お昼近くなると4人の術者に出前を何をするか聞いて手術が終わる頃に出前が来ているように電話で注文しておく)、手術が終わると手術室の床をモップ拭き、手術器具の湯洗、油引き、器具棚への返納、などなどでした。手術の無い時は勤務室に張り付き、回診、処置、処方などを行いました。自分が責任者となってやることは無く、先輩医師のやることを見たり、そのお手伝いをしていました。手術室や病棟での下働きのような仕事で一番勉強になったのは先輩の失敗を見る事でした。「なるほど。こんなことはしてはいけないのだ」と多くの勉強をさせてもらいました。教科書には上手くいった話しか書いてありませんが。日常勤務では上手くいかないことを日々学ぶ事が出来ました。
 入局して数ヶ月した頃に医局で暇そうにしていたら、教授から「○○病院へ××君の代わりに当直に行くように」と命じられました。××先生はスライドつくりの名人だそうで、教授が電話したら「当直なので行けない」との返事だったようです。教授命令なので○○病院に行ったら××先生が待っていてくれて「君、僕の代わりに当直をしても当直料は出ないよ」と言われました。××先生は3年先輩でしたので「もちろん、貰いません」と返事しました。その晩は輸血の必要な患者さんが発生し、血液型のクロスマッチングをした記憶もあります。それから19年後に人生の巡り合わせで私は教授になってしまいました。その後に××先生に会った時に「君が入局1年目に○○病院で私の代わりに当直に来てくれた時に当直料を払わなかったことを覚えていますか?」と聞かれました。「もちろん良く覚えています」と答えました。「今日は寿司をご馳走するから食べられるだけ食べて下さい」と言ってお寿司を腹一杯ご馳走になりました。
 正しい表現かどうか判りませんが、その時には「殴った方は忘れるが、殴られた方は忘れない」という言葉を思い出しました。
 今、問題なのは(無給医がいることも問題ですが)、それ以上に無給医の数そのものでは無くて、有給でもその日給が安すぎ、超過勤務量も出ない事ではないでしょうか。


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名誉教授の独り言 (203) 人生100年時代(3)
令和 元年 6月19日

 前回の(202)は原稿をupしてからトランプ大統領の写真を入手したので、それをupしました。見ていない人は見て下さい。
 それでは「人生100年時代」の続きを書きます。
 インターンが終わったら千葉大学整形外科に入局するつもりでした。自分が整形外科医としてやっていけるかどうか自信が無かったので整形外科医局に行って「自分は力持ちではないのですが、務まるでしょうか?」と、そこにいた医局員に聞きました。「大丈夫だよ!」と答えてくれた人が小松崎先生で、何と医局で一番の力持ちの先輩でした。ところが入局直前の1月に鈴木次郎教授が東京駅で心筋梗塞にて急逝されてしまいました。困ってしまい国立千葉病院鈴木五郎院長(当時、親友の一郎の父親)のところへ相談に行きました。五郎先生は「自分が整形外科をやりたいのならやったら良い。教授なんて誰だって同じだよ」とお答えくださいました。結局教授不在の医局に入局しました。当時は全国で整形外科の振興期でした。多くの関連病院で整形外科医を求めており、医局長から7月から関連病院に出張するように言われました。ただその病院数が12だったので同期入局者は13名であったため私は大学に残ることを認めてもらいました。その分、医局の雑用係を一手に引き受けさせられました。手術の日は出血量の測定、術者の汗拭き、術後の手術器具の洗浄・油拭き・手術器具入れへの格納など一人でやりました。
 7月の教授会で井上駿一助教授が教授に選出されました。
 その晩に医局の風呂に皆で入ったのを覚えています。その後、井上教授の命令には余り従わなかったのに、イギリスに留学させて下さり、帰国したら講師にして下さりました。井上教授の専門は脊椎外科でしたが、私は関節外科を専門として勉強・研究をしていました。松井先生が名古屋市立大学の教授になり、玉置先生が和歌山県立医大の教授になった後に井上教授は私を助教授にして下さりました。その10ヶ月後に井上教授が急逝され、自分としては大変困った立場になってしまいました。田舎に亡くなった父が買ってあった土地があり、兄名義だったので、そこを借りて開業することも考え、下見にも行きました。でも何人かの教授が私を押してくれたので、思い切って教授戦に立候補しました。色々ありましたが結果としては選出して下さり、もともと教授になろうなどとは全く思っていなかったので、何とも分不相応の教授という事になってしまいました。教授に選出頂いたときは46歳と11ヶ月、任命頂いた時が満47歳でした。それからが大変でした。でも世の中がバブルに入ったころであり、何でも押せ押せで過ごすことが出来ました。教室員に自分が興味を持ったことを積極的にさせていたら何となく守備範囲の広い教室になって行きました。私は1年間イギリスに留学させて頂き英語は全く不自由なくなりましたので、教室員にも希望する人は出来るだけ留学するように取り計らいました。お陰様で60歳の時に日本整形外科学会学術集会会長を始め多くの学会長を務めさせて頂きました。更に千葉大学定年直前に「横綱審議委員」を仰せつかり、最後の2年間は委員長までさせていただき、身に余る光栄でした。結局、千葉大学医学部整形外科教授を19年間務めました。いろいろと苦労はありましたが楽しく充実した教授としての人生でした。その後13年経って現在78歳です。もうボケ老人です。でも先週は袖ケ浦CCで49,49でした。自慢話はこの辺でお仕舞にします。


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名誉教授の独り言 (202) 令和元年大相撲夏場所
令和 元年 5月31日

 「人生100年時代」を1回お休みさせて頂き、令和元年夏場所の事について書きます。色々とありました。

  1.  「朝乃山」の優勝です。朝乃山ってそんなに強い力士だった?今場所、朝乃山は急成長しました、という様な解説者のコメントを耳にしましたが、ああ勝ち越しそうなんだな、としか受け取れませんでした。途中、佐田の海戦では物言いがついて、"もしかして朝乃山の左足先が土俵の外に出ていて負けていたんじゃないの" と思う一番で朝乃山は勝ちという判定を頂きました。更に栃の心の右足踵は土俵の外には出ていたものの土俵外の土には着いていなかったのではないの、という感じで、この1番は6分を超える長い協議の末に朝乃山の勝と判定され、朝乃山は今場所ついていたようにも思いました。
  2.  審判長の阿武松親方の度重なる間違った説明には驚きました。物言いの後の協議の説明についてどうしてあんなに間違えてしまうのでしょうか。物言い協議の後どっちが勝ったのか判らないような説明であり、阿武松審判長の斜め後ろの自席から「どっちが勝ったんだ!」と怒鳴ったら、改めて言い直していました。その他にも「西力士の勝ち」なのに「東力士の勝ち」と言ってしまったこともありました。審判長はマイクを持たされると異常にあがってしまうのでしょうか。場所後の横審で矢野委員長が色々と苦言を呈していましたが、職務不適格だと思わざるを得ません。
  3.  千秋楽には呼び出し「次郎」が妙義龍と呼ぶべきところを「高安」と呼んでしまいました。お客さんから「高安だろう!」との声がありましたが、時すでに遅く行司さんが対戦相手の逸ノ城の名前を呼んでしまっており土俵の隅で小さくなって蹲踞の姿勢で控えていました。次郎は音痴ですが土俵つくりは上手いと評判で我慢していますが、これって何とかならないものでしょうか。
  4.  千秋楽はトランプ大統領騒動です。いつもなら午後2時半か3時ごろに国技館に着くように行くのですが、厳重警戒だと聞いていたので1時半ごろに行ったのですが「チケットを持った人は列に並んで下さい」とのお達しで国技館の改札のところから江戸博の入り口で折り返し、さらに50メーターぐらいの列の最後尾に付きました。当日は天気も良く暑い中約1時間は並んでいたのではないかと思います。私が入場した時に列は国技館入り口で更に折り返し両国駅まで続いていたそうです。入り口はいつものように2か所だけで行列を待たせていました。もう少し入口を道路側に出せば4か所ぐらいに出来て、また行列も早く整理出来たのにと思いました。相撲協会は管理・運営能力が著しく欠如しています。
     大統領夫妻と安倍首相夫妻は5時ごろに入場しました。正面最前列の升席が取り外され、緋毛氈の上に特設されたソファーに座りました。場内は騒然とした雰囲気でしばし相撲はそっちのけでした。取り組みが終わってもトランプさんはどっちが勝ったのか、何が起こったのか判らなかったみたいで遂に拍手は一回も見られませんでした。トランプ杯を朝乃山に渡す時だけは上機嫌でした。初めは靴を脱ぎたくないとごねていたようですが、結局、靴のようなスリッパを履いて土俵に上がりました。
 今場所私は11日間お勤めをしました。全体を通して相撲協会の管理・運営能力の不充分さ、教育の不徹底さが目につきました。トランプさんの我儘はこの程度なら、差し当たって北朝鮮の恐怖から解放されているので仕方ないかなと思っています。
 結果として私は今場所の過労で風邪を引き場所後3日ぐらい寝込んでしまいました。

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トランプ大統領は何が行われているのか判っていないようでした。安倍首相はつまらなそうでした。左下の私だけが楽しそうに笑っていました。

Newsweek誌より引用 ( Newsweek 2019/06/11 )

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名誉教授の独り言 (201) 人生100年時代(2)
平成31年 4月26日

 合格した千葉大学医学部は天国でした。毎日が楽しくて仕方ありませんでした。多少麻雀の事を知っている友人がいて4月中にその友人の下宿で4日か5日連続で麻雀合宿をしたら隣人にうるさいので出て行けと言われ、私の実家の軽トラを借りてきて引っ越しをしました。5月の連休には、別の友人の叔母さんの軽井沢の別荘に行き麻雀合宿をしました。
 始めてドイツ語の授業を受けて外国語は2か国語ぐらい話せたら良いと考え、その為に「ドイツ文化研究会」に入部しました。授業での講師はNHKのドイツ語講師をしていたグライル先生でした。グライル先生に結構かわいがられたこともあり、英語の会話は出来るようにはなりませんでしたが2年間の医学進学過程での勉強でドイツ語を少しは話せるようになりました。でも、今では単語は少し出てきますが、話すことは出来ません。夏には千葉大学医学部が所有している山中湖畔の学生寮にグライル先生は合宿に来て下さいました。夏とはいえ冷たい湖水の中,平気で泳いでいたのを記憶しています。
 田舎の実家にはどうしてだか判りませんが庭に卓球台があり、少しは慣れていたので卓球部に入りました。卓球部では全く目が出ず、5年生の時に1度だけ公式戦にダブルスで出させてもらいました。走るほうだけは走っていました。冬には余り沢山雪が積もったところを見たことが無かったのでスキー部に入りました。初めて万座に行った時にすっかり雪で覆われている景色を見てびっくりしました。スキーも上手くなりませんでした。滑っても曲がれないのでノルディクの方に回されました。それなりに楽しいものでした。リレーで私の前を滑ったクラスメートがスキー板を折って取り変えてきたのには驚きました。
 学業の方は授業も楽しかったですが、成績もマーマーでした。卒業するまでに全科目1回の試験でパスする人はあまりいないようで教授選に立候補した時に医学部事務の人から、「学生時代は割と成績良かったんですね、」と言われました。
 学生時代で最も印象深かったのは「山中寮委員」です。3年生の夏から4年間,7月、8月はほとんど山中寮で過ごしました。山中寮は山中湖畔の広大な敷地に千葉大学医学部学生の自主管理寮があり、食事は市川の女子短大生が給料なしで作ってくれ、委員1年目は早朝に起きトイレ掃除など大変でしたが、楽しい毎日を過ごしました。楽しかったし、余り勉強しないでも合格点を頂けたので、余り勉強はしませんでした。卒業時は学園紛争の真っただ中で、我々は最後のインターン生となってしまいました。ここは勉強しなければと思い国立第一病院(東一)のインターンに応募しました。学園紛争中でインターンボイコットの風が吹き荒れ、東一でのインターン生の応募が少なく、幸いにして東一でのインターンが決まりました。そこでは学力不足を実感し、必死で勉強しました。その結果何とか医者になることが出来ました。
 医者になってからもう52年目です。来週の誕生日で78歳です。まだ、2週に3日医者をさせてもらっています。医師免許証は一度取得すれば死ぬまで有効であり、大変有難いと思っています。このまま人生100年まで持つでしょうか。


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名誉教授の独り言 (200) 人生100年時代(1)
平成31年 4月10日

 先日、中学時代の仲間5人で恒例の昼食会をしました。そこで「何故、守屋は中学3年で千葉市の緑中に転校してきたのか」聞かれました。同時に「その辺の事を書いて残しておくように」と命じられました。という事で今回から、その辺を書きます。

 私は昭和16年5月13日に千葉県山武郡蓮沼村(現山武市蓮沼)に生を受けました。その年の12月に太平洋戦争が始まりましたが、実家が造り酒屋だったこともあり、食べるものに苦労したという記憶はありません。大した病気もせずに大きくなりました。村立蓮沼小学校に入学し、大した勉強もしないでいましたが、小学校4年の頃に母親から「あなたは医者に向いていると思いますが、親戚縁者に医者はいないし、私にも何の助言も出来ないので成東駅前の本屋さんからこの本を買ってきたので読んでみて下さい。それで医者に成たかったら成れるように自分で努力して下さい」と言われました。「野口英世の伝記」でした。2回読んで、医者も良さそうだなと思いましたが、その後も大した勉強もせず、村立蓮沼中学校に進みました。中学生になり、将来の事も考えるようになりましたが、医者になるという事はすっかり忘れ、TVなどを見て噺家も良いなと考え柳家金語楼師匠に手紙を書きましたら、何と返事が来ました。曰く「これからは噺家も教養が必要です。大学で勉強して下さい。大学を卒業しても、まだ噺家になりたかったら、また手紙を下さい」、でした。中学3年の5月に、このまま蓮沼にいたのでは医者になれない、と思っていたら母親から千葉の中学に転校手続きをしたから行くように言われ、東京の大学に行っていた長兄が飯炊きをしてくれるという事で千葉市轟町のお寺の離れを借りてくれ、そこから千葉大学を突っ切って緑町中学校に通いました。転校した1週後に1学期の中間試験でした。蓮沼中ではJack and BettyはLesson2だったのに緑中ではLesson6でした。試験の結果は500名中250番ぐらいでした。そのころ緑中から千葉一高(現在の千葉高)には50名ぐらいしか合格していませんでした。これは大変だと思いました。それからは死に物狂いで夜中まで勉強しました。その結果、1学期の期末試験で120番ぐらいに上がりました。8月には蓮沼の2人の同級生と付属中学の夏季セミナーに出席しました。2学期の中間試験で60番ぐらいになり、期末試験で50番ぐらいになったのですが、担任の先生からは一高では無く、三高を受験するように言われました。でも一高を受験しました。倍率が幸いにして1.1倍でした。合格はしましたが、4月から自律神経失調症になってしまいました。これは医者になってから、自分で診断したものです。授業が始まると訳もなく汗びっしょりになってしまう事が繰り返されましたが、何の治療もしないで半年ぐらいで治りました。色々な生活の変化についていけなかったのだと思います。 学校の成績は相変わらず上昇し続けました。でも、最高で学年3番でした。そのまま千葉大学医学部の入試に突入しました。1年目は落ちました。浪人です。でも、予備校に行って初めて点の取れそうな勉強の仕方を学びました。その結果、1浪の後に千葉大学医学部に合格させて頂きました。(続く)


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名誉教授の独り言 (199) 慢性硬膜下血腫
平成31年 3月 8日

 年末に自宅で滑って転んで頭部を腰板にぶつけたのは確かです。でも、差し当たって日常生活に何ら不自由が無かったので打撲だけだと思っていました。年明けから何となく疲れやすく、食欲が低下し、特に朝食はお茶碗半杯の御飯が食べられなくなっていました。更に3週間ぐらい前から両脚がもつれるようになってきてしまいました。1月末に昨年7月の一過性脳虚血発作の6ヶ月後の診察を受け、その際のMRIを読影してもらっていた時に12月末に頭部打撲があったことを言ったら「ありますねー」という事になってしまいました。念のため1ヶ月後の診察の予約をして帰宅しました。その後も自覚症状は全く変わらず、庭に出てアプローチの練習をしたらシャンクばかりで3年前の左慢性硬膜下血腫の時と同じ症状でした。
 2月末に再診を受けた時に自覚的には「もう完全に良くなっています」、と言われるのを期待していましたが、結果はそうではありませんでした。血腫の部分が拡大しており、早期の手術を勧められました。慢性硬膜下血腫は手術をしないでいると認知症になる可能性があるようなので、手術を受けることにしました。その時点では多少調整しなければならない予定もあり、5日後に入院、手術を受ける予定にしてもらいました。でも、その後、一過性には食欲も良くなり、脚のもつれも回復しているように思いましたが、入院の前日から元に戻ってしまいました。何もしていないので良くなるわけが無いと理解しました。
 手術予定の日は午前中に入院し午後に局所麻酔で手術が始まりました。頭蓋骨をドリルで穴を明けている時にゴリッ、ゴリッと聞こえたので、「もう少し麻酔を追加してくれ」とお願いし、その後は寝てしまいました。術後は少し傷のところが痛いだけで手術部位の苦痛はありませんでした。ただ、創部にドレーンが入っているので、上を向いてじっと寝ているようにとの指示でしたが、腰痛がひどくなり半斜位なったりして凌ぎました。ただ、排尿はベッド上でするように言われ、自信はありませんでしたが、やっとできました。ただ排便はどうしてもできる自信はありませんでした。看護師さんがトイレに行ってはダメです、と言っていましたが、どうしても我慢できなければ自己責任で行きます、と宣言しましたが幸いにして翌日ドレーンが抜けるまで我慢できたので、そのような事態は防ぐことが出来ました。
 術翌日から歩行許可が出て食事はラウンジでしても良いとなり、ゆっくりと食事を楽しみました。驚いたことに大変食欲が出ていました。多古米180gの御飯と美味しいおかずを完食できたのです。前日とその日の朝食は全く食べていなかったので空腹のせいかとも思いました。でも、夕食ももぐもぐと食べ完食してしまいました。食事は退院までほとんど完食することが出来ました。千葉大学病院の特別室の特別食は大変美味しかったです。脚の筋力も素早く回復しました。退院時にも完全には回復していませんでしたが、力強く歩けるようになり、歩幅も広くなり、歩くのも早くなりました。退院した日に庭でアプローチをしてみたらシャンクしなくなっていました。この状態なら陽気が良くなったらまたゴルフに復帰出来そうで楽しみです。
 今回の経験から慢性硬膜下血腫は出来るだけ早く手術をしてもらうべきだと思いました。それより前に何となくふらつく歩行をしている人や軽度の認知症の人は頭部のCTを受けるべきだと痛感しました。


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名誉教授の独り言 (198) 高齢者の悲哀
平成31年 2月10日

 前回の大相撲の予想は全くの外れで失礼しました。以前から白鵬はぎりぎりで勝っているとは思っていたのですが、まさか10連勝の後に3連敗、休場になってしまうとは思ってもいませんでした。横審の北村委員長が言っておられましたが「白鵬、鶴竜は本当に怪我をしたんでしょうか、力が落ちてしまったのでしょうか。」で、まさかの玉鷲関の初優勝でした。玉鷲関はもともと強い力士だとは思っていましたが幕内優勝するとは思ってもいませんでした。稀勢の里が引退してしまい、相撲人気はどうなるのか心配していましたが、千秋楽まで国技館は大賑わいで、心配は不要でした。34歳の玉鷲が優勝しましたが、印象としては若手が出てきたという感じでした。1年後には横綱・大関は総入れ替えになってしまうのではないかと思っています。そうすると、また相撲人気が高まるように思っています。
 私自身は後期高齢者で若い人達に「お怪我など無いように気を付けて下さい」と言われたりしますが、自覚的には気を付けているのですが、それでも年のせいでつまずいたり、転倒したりしてしまいます。年をとるとケチになるような気がしています。若い時ほどは稼げなくなったせいかも知れません。でもカミさんと二人で食べるための弁当を1ヶしか買わないのはケチでではありません。年をとると食事量が大変減ります。1~2年前までは2人共、ちゃんと1人前ずつ注文し食べていました。今はそんなには食べられないのです。
 昨日はかつてこの地区で息子と一緒に野球をしていた西村君が色々あってオペラ歌手になり、彼と彼の音大の先輩とのジョイントリサイタルが千葉で催されたので行ってきました。西村君はイタリヤ語の歌でした。私はイタリア語は数ぐらいしか判りませんが、ドイツ語は少しは分かりますので相方のドイツ語で歌う歌手の方がちゃんとしていると感じました。それぞれの歌の前に多少の解説がありましたが、イタリア語、ドイツ語の歌は理解できなく、少しだけ楽しみが減ってしまいました。テレビのようにモニターが出るともっと楽しいのではないかと思いました。
 帰りに千葉駅ビルで恵方巻きを買って帰りました。1本の恵方巻きで十分でした。今日は2人のオペラ歌手のジョイントコンサートに義理で行ってきましたが、午後2時始まりなのに1時には到着してしまい、時間を持て余してしまいました。高齢者は暇なんです。私は現在2週に3日大学の10年先輩がやっている病院に請われて行っていますが、行く日は家を6時40分に出て千葉駅まで行き、その後、内房線に50分乗り青堀駅に着き、お迎えの車に乗り、病院に行きます。約3時間外来をして、昼食、それから君津駅に送ってもらいます。JRは30分に1本しかないので20分ぐらい待つのはしばしばです。千葉駅から自宅近くのバス停に来る便は20分に1本なのでそこでもしばしば待ちますので合計30分以上待つことはしばしばです。暇そうにしている年寄りもそれなりに苦労しているのです。


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名誉教授の独り言 (197) 稀勢の里 有難う。
平成31年 1月23日

 稀勢の里が引退表明しました。何となくホッとしています。もちろんもっともっと活躍してもらいたかったのですが、このところ国技館に行ってもTVで見てても稀勢の里が可哀そうで、見ていられませんでした。十分に活躍したと思いますし、もう良いのでは無いでしょうか。
 稀勢の里は15歳で鳴門部屋(元横綱・隆の里)に入門、真面目に稽古し、17歳7ヶ月で十両、18歳3ヶ月で入幕、22歳の時に年寄り名跡「荒磯」を襲名、25歳で大関、その後、31歳まで優勝を逃すこと12回、2年前の1月場所でやっと優勝し横綱になりました。その間、私は優勝の出来ない大関かと思っていました。平成28年の11月場所は12勝3敗で2番目の成績でしたが、優勝の鶴竜は14勝1敗で白星で2つ空いてしまいました。またダメかと思っていましたが、その次の1月場所で優勝し、全国的な相撲フィーバーで横綱になりました。
 稀勢の里は師匠(元横綱隆の里)に教えて貰った通りに「真面目に一生懸命稽古する」という事で多くのファンに愛されていました。確かにその通りですが、大関に6年もいて最後に優勝しましたが、何度もここで勝ってほしいというときに、いつも同じようなパターンで負けていました。真面目にやる前に、どう自分の相撲を取るかを考えてから稽古し土俵に上がるべきだったのではないかと思っています。地力は強かったので、そうすればもっと早く横綱になったでしょうし、引退会見で「一片の悔いも無い」と言っていましたが、もっとまともな横綱を勤められたのではないかと残念に思っています。
 それにしても白鵬は強い!偉い!白鵬が横綱になったのは私が横審になって4か月後で、私は10年の横審委員を終わってもう2年になるのに白鵬はまだ横綱として頑張っています。今場所は12日目にも42回目の優勝を決めてしまうのではないかと囁かれています。白鵬の稽古などを見ていると準備運動を大変入念にしています。摺足、四股、テッポーを1時間ぐらいしています。怪我をしないような体つくりをしています。ただし、休むべき時はちゃんと休んでいます。大したものです。この調子だと2020年の東京オリンピックの時でも活躍していそうです。こうなったら頑張ってほしいと願っています。
 稀勢の里は確かに真面目で稽古熱心でしたが、22歳の時に親方株「荒磯」を取得したのが、現役力士を続けていく上で精神的に何らかの影響があったのではないでしょうか。10年間貸していた親方株は昨年4月から空き株になっていたようで今回改めて「荒磯親方」になりました。今後1年間の親方見習いをして、「荒磯部屋」を作るのではないかと言われています。是非ともご自身の苦労を生かして稀勢の里以上に強い力士を作っていただきたいと願っています。


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名誉教授の独り言 (196) 新年に当たって
平成31年 1月10日

 新年あけましておめでとうございます。
 今年も多くの年賀状を頂きました。改めて有難うございます。私はまだ差し上げた方が良いと思っている人には年賀状を差し上げていますが、今年も老齢になったから、80歳になったからなどの言い訳の後に今年で年賀状を止めます、という寂しい賀状も多数頂きました。私は「まだ私は元気です」という事を言うために年賀状を続けるつもりです。
 と言っても、私はもう77歳の老人で、「名誉教授の独り言」に、どのような新年の言葉を述べたら良いのかまだ迷っています。新年に当たって、新しく始める事を考えており、今年は是非始めたいと思っていることがあります。私は小学生以来一番不得手な科目は音楽でした。音痴ですし、楽器を上手に奏でることは私にとって驚きでしかありませんでした。でも教科の音楽では小学6年の時に5を取りました。でも音痴は直らず、カラオケを歌わなければならない時のために「北国の春」だけは教えて貰い、台湾でも歌いました。その時は、私が「北国の春」を歌う前に台湾のドクターが「北国の春」を歌ってしまいました。仕方ないので、「genuine Kitaguninoharu」を歌うからと言って歌った記憶があります。今年は千葉市の「第九の合唱団」に入れてもらいたいと思っています。ドイツ語は大学の時は英語より得意だったし、もう一度ドイツ語に触れられるのは嬉しいと思っています。これなら蝶ネクタイとタキシードはの言っているし、夏頃から練習に参加させていただき今年いっぱいで終りますし、楽しみです。周りに迷惑を掛けないように努力するつもりです。誰かしかるるべき人を紹介してください。
 辞めることは昨年7月のTIAの後から辞めている車の運転です。あれから、もう半年になります。最近は怖くて、もう運転する気になれなくなっています。2週に3日午前中だけ富津の病院へ非常勤で行っていることや,年々下手になっているゴルフは今年も続けるつもりです。どこかで今後の目標としてエージシュートなどと言ってしまいましたが、6日にやった初打ちでも50,55で100を切れませんでした。エージシュートには程遠いスコアーで実現不可能のように思います。今後ゴルフを続けるかどうか大変迷っています。ゴルフでのうっかりミスや3パットを防げればもう少しマシなスコアーになるのではないかと思っています。運転を止めてしまったのでゴルフクラブを新袖コースの保管庫に預けてあるので前回行った時に取り敢えずウエッジ3本とパターだけ持ち帰り庭で寄せの練習と寝室でパターの練習を始め、少しはましなゴルフになるように努力しています。
 最近はうっかりというか、物忘れというか、色々あります。
 昨年の結婚記念日にもう何年目なのか判らず、まさか金婚式ではないかと心配しながら、恐る恐る家内に今日で何年目かお伺いしたら48年目だという答えで来年は金婚式であることを忘れないようにしようと決心しています。先日もスポーツクラブ帰りのバスで次の停留所で降りるというボタンを押したのにそのバス停をただ見やり、慌てて次のバス停で降りたりしました。
 今年は特に周りの方に迷惑を掛けないようにしたいと思っています。もし迷惑だと思う様なことがありましたら遠慮無く言ってください。宜しくお願いします。


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名誉教授の独り言 (195) ゴルフ好き
平成30年12月30日

 今回は先日受けた週刊誌の「ゴルフ好きシリーズ」について書きます。そもそも何でこんな取材が来たのか? 2年ぐらい前にゴルフ週刊誌に「ゴルフ仲良し4人組」のような企画で載った記事を見て来てくれたようです。私は横審委員長をしていた関係で大相撲の取材は多かったのですが、今度はゴルフか、と思いました。そこで「どんな練習をして上手くなったのですか?」と聞かれたので「ゴルフって上手くなるかどうかは遺伝子の問題だと思っています。ゴルフの上手な人は直ぐ上手くなります。シングルになる人の8割はゴルフを始めて半年以内だと聞いた事があります。私の知っている有名プロも少し練習しプロテスト受けたら受かってしまいました。一緒にプレイさせてもらった12月に彼は「こんなに寒い時はこたつに当たってミカンを食べながらテレビを見ている方が良い」と言っていました。それでも通算15勝したのですから遺伝子がゴルフ向きだったと思います。
 私のゴルフ歴では20年前とは言えベストスコア―は 38,37の 75、ホールインワン 2回などそれなりの成績でしたが今では「飛ばず、寄らず、入らず」で100前後です。ドライバーの飛距離は60歳前後には230ヤードぐらいでしたが、今は170ヤードぐらいです。従ってパー4での 2オンは無理ですし、パー5の 3オンも無理です。今は残りを50ヤードから100ヤード残すようにしています。ちょっと距離のあるショートはドライバーを使うことになってしまいました。アイアンも全盛期には120ヤードぐらいまでは 5ヤードキザミに考えて打っていました。今は全く距離が合わず多くはショートしてしまいます。多分心の中で飛ばなくなったという事を認めたくないのだと思います。更に寄せは以前に慢性硬膜下出血でだめだった時と似ているほど下手になってしまいました。パットは強さが全く合わなくなってしまいました。でも、多くはショートです。これも力が落ちたせいだと思います。意識して届かせるように打つと大きくオーバーになってしまい、次のパットが下りだと4パットになってしまいます。取材で「ゴルフの下手な人はどんな練習をしたら良いと思いますか」と聞かれたので、「ゴルフを始めて 1年以上経って100を切れないようだったら、何時ゴルフを辞めるか出来るだけ早く決断するることでは無いでしょうか」と答えたのですが、その部分はカットされました。
 ラウンド後半は腰部脊柱管狭窄性腰痛で辛くなってしまいます。その際は腰椎のストレッチングを繰り返して何とか凌ぐようにしています。カートで回るとそれほど苦痛ではありませんので 1月から新袖ではカートが入るようなので、そうすればもっと楽にラウンドできるのではないかと期待しています。
 結局、ゴルフをいつ辞めるか悩んでいます。認知症にはなっていないと思いますが、現在でも良く処方している薬の名前が出てこないこともあり、ゴルフを辞める時が医者を辞める時かなーと思っています。更にゴルフも医者も辞めたら何をしたら良いのか、これも悩みの種です。
 どうぞ良い新年をお迎え下さい。


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名誉教授の独り言 (194) オランダ倶楽部 - 近況報告
平成30年12月 5日

 私は横綱審議委員を10年満期で終了してもうすぐ2年になります。横審の委員の方たちとすっかりお会いしなくな りました。年に6回、計60回(正確には朝青龍に引退勧告書を書いた臨時委員会も含めると61回)会っていると委員 を辞めても会って話をしたくなり、内館牧子女史(以後内館さん)が発案し、私もその会に入れて頂きました。第1回は内館さん、山田洋次監督、澤村田之助さん、と私の4人で銀座の中華料理屋さんで始まりました。もし側に相撲記者さんがいたら十分に記事になるような話で盛り上がりました。
 第1回の終了直前に内館さんが今後も続けたいがこの会の名前をなんとするかという話になり、色々と案が出されました。私はこの宴席を自分が払うと言い出したら皆さんそれも可能だと思ったのですが、この会を長続きさせる為にはワリカンが良いのではないか考え、ワリカンを英語でDutch accountというので「オランダ倶楽部」ではどうでしょうか、と提案しましたら、皆様から相撲と関係なさそうで良い、というご賛同を頂き決まりました。その後この4人に元委員の方が加わったり加わらなかったりして年に1~2回楽しく開催してきました。
 なぜ山田監督が映画監督になられたのかとか、内館さんが何故相撲を好きになったのかかとかいろいろと楽しい話が続きました。山田監督は満州から帰り東大法学部の授業料が一番安かったのでそこへ進んだが法学部の授業は性に合ってなかった、結果として松竹に入社し、助監督、監督となってしまった、と言っていました。内館さんは秋田の大旅館のお嬢様で小さい時から身の回りの事を面倒見てくれていた人がいたので幼稚園に通いだしても着替えとかも一人では出来ず、同級生にいじめられたのを、太った体の大きい子に助けられ、以後そういう男の子が好きになり、それが力士やプロレス、ボクシング好きに繋がったと言っていました。私がどうして医者になったか聞かれたので「小学校4年の時に母親にあなたは医者に向いていそうだから頑張って医学部に行って医者になったらどうでしょう」と言われたのでそのまま医者になりました。でも中学2年の時に噺家の方が楽かなと思い、当時NHKのジェスチャークイズの男性軍キャップテンだった柳家金語楼さんに弟子にしてくれるかという手紙を書いたら、これからの噺家は教養が必要なので大学に行きなさい、大学を卒業してもまだ噺家になりたかったら、もう一度手紙を下さい、というお葉書を頂きました、でも私は大学卒業後に医者でしたし、金語楼さんはお亡くなりになっていたので、そのまま医者をしています、という話をしました。
 最近も山田監督は相変わらずご多忙のようですし、田之助さんは体調を崩しているようですし、内館さんは執筆に多忙のようで、私はすっかり出不精になってしまい、オランダ倶楽部は暫し休会になっています。最近は内館さんともっぱらメルトモとして楽しんでいます。内館さんとはいつの間にかメール上はガールフレンド、ボーイフレンドの間柄になってしまい、相撲の事などをメールして楽しんでいます。9月場所ではガールフレンド様が大ファンである稀勢の里がそれなりの成績を上げたのでガールフレンド様は大変盛り上がっていました。でも、11月場所で4連敗後に休場となってしまいましたので、意気消沈でした。今は私も稀勢の里の復活を願っています。


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名誉教授の独り言 (193) 関節鏡
平成30年11月 9日

 最近、横綱白鵬が関節鏡で関節ネズミの除去手術を受けたという報道を目にしました。力士が必要に応じ関節鏡視下手術を受ける時代になったことを感慨深く受け止めています。
 私は昭和42年(1967年)3月に千葉大学医学部を卒業しインターン生活に入りましたが、その頃は学園紛争真っ盛りで、突然規則が変わり、最後のインターン生となってしまいました。翌年1月に、鈴木次郎教授が東京駅で心筋梗塞で急逝しており、千葉大学医学部整形外科は教授不在でした。当時、国立千葉病院の病院長だった鈴木五郎先生のところへ相談に上ったら「君は整形外科をやりたいんだろう。教授なんて誰だって同じだよ」と言って下さり、そのまま千葉大学医学部整形外科教室に入局しました。
 翌年4月に川鉄病院に出張に出て、8か月後に上都賀病院に転勤になった時に当時の上都賀病院整形外科部長の大井利夫先生から「何か特別に用意してもらいたいものはあるか?」と聞かれたので「関節鏡を買ってください」とお願いしました。それから1年半、主に関節鏡をやっていました。
 帰局し主に膝の研究、勉強をしていたら井上教授から東京逓信病院へ行くように命じられました。当時、関節の内視鏡検査は膝がほとんどでした。関節の内視鏡器具は日本で初めて作られていましたが、その後は外国製の方が使い良い関節鏡になっしまいました。関節鏡の対象関節はほとんど膝だけであり、それも検査だけがほとんどでした。ごく稀に足関節などにも行われていました。鏡視下手術は盲目的な滑膜切除術ぐらいで現在のように半月板切除術や前十字靱帯再建術などは一般的には行われていませんでした。関節鏡を開発した渡辺正毅先生に1年半ご指導を頂き、自分の我儘で帰局しました。その後、LondonのRoyal National Orthopaedic Hospitalに留学しました。そこでは私の指導医であったMr.Lordon Tricky先生から親切にして頂き、特に関節鏡の時には「私は更衣室でコーヒーを飲んでるから関節鏡をして結果を教えてくれ」と言ってくれており、大変嬉しかったことを覚えています。イギリス留学中は整形外科はあまり学ばず、英会話だけ学んだような気がしています。留学から帰ってからは英語は全く不自由なくなり、井上教授から「自分も留学していれば君ぐらいになったのに」と言われてしまったことを覚えています。帰国後間も無くに開催されたSICOT KYOTOでは渡辺先生から共同座長にご指名頂き、無事勤めました。その後、関節鏡は益々進歩し、多くの関節で鏡視下手術が当たり前になり、私も教授にさせていただいた事もあり、関節鏡部門で国内だけではなく国際的にも色々と活躍させて頂きました。72歳の時にゴルフが大変下手になったので、関節鏡を含め一切の手術も下手になったと思い、辞めました。
 力士が躊躇なく受けてくれるようになった関節鏡視下手術が更に多くの患者さんが受けてくれるようになることを願っています。


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名誉教授の独り言 (192) 目標はエージシュート
平成30年10月23日

 先日、京都大学特別教授の本庶佑先生がノーベル賞を受賞なされました。偶然ですが本庶先生と私は同い年です。私はノーベル賞とは程遠い存在ですが、本庶先生がノーベル賞を受賞した時の記者会見で「これからの目標はエージシュート」と言っているのを見て、私もこれからの人生の目標をエージシュートと公言しようかな、と思いました。目標なので許していただけるかと思っています。
 こんな大それたことを目標にしたのはそれなりの経験を覚えていたからです。およそ20年前、平成10年 9月15日に私は人生最高のスコアーで回りました。38,37でした。その日はINスタートでしたが、出だしのパー5でドライバー、スプーン共にナイスショット、第3打120ヤードを左からの風を読んで旗竿より左2ヤードを目掛けて8番アイアンでショット。飛んで行ったボールが多少スライスしながら旗竿を直撃。そのまますとんと入ってしまいイーグル。ホールからボールを拾ったら、ボールに旗竿の青い塗料がついていました、それから暫くは膝ががくがくしたのを今でも覚えています。2番ホールのティーグランドでも膝ががくがくしてしっかりとは打てず、かなりショートし、結果はボギーでした。結局、INは1イーグル、5パー、2ボギー、1ダブルボギーの38でした。昼食にビールで乾杯しましたが、午後に入っても緊張は続いていたものの、心地よい緊張と受け止めていました。午後はパー、ボギーと続いてパー5でバーディー、ついでパー、ボギー、パー、第8ホールでまたバーディーを取ってしまいました。最後をパーで絞めて37、何と前半より 1打良いスコアーでした。この日以外でも前半30台もありましたが、後半は気負ってしまい、40を超えてしまう事ばかりでした。  これは20年も前の話です。でもやったことは事実です。現在、時間はいくらでもありますし、ゴルフをするぐらいのお金もありますが、いかんせん体力、筋力、感が伴っていません。でも目標とさせていただきます。
 7月のTIA以来、車の運転を辞め車も売ってしまい、大変不便をしています。特にゴルフの練習、ゴルフ場に行くのが不便です。2回ほど後輩の先生のお世話でゴルフ場に行きましたが、最近、袖ケ浦カンツリー俱楽部にロッカーを借りることが出来、バスでの往復の方法も判り、自宅からゴルフ場まで30分ぐらいで行けることも判りました。練習だけで行っても良いし、お風呂の後にビールを一杯飲めるし、今週の日曜日から頑張ります。
 本庶先生は京都ゴルフ倶楽部の理事をなさっているようですが私も昨年まで袖ケ浦カンツリー俱楽部の理事をしていましたし、更に私は日本ゴルフツアー機構(JGTO)の医事委員長を10年ぐらいしていました。私も京都大学整形外科の山室隆夫名誉教授にお誘い頂き京都ゴルフ倶楽部で 3~4回ラウンドをさせていただいたことがあります。京都ゴルフ倶楽部は、戦後アメリカ軍が上賀茂神社の裏庭を接収し作ったようで袖ケ浦カンツリー俱楽部より距離は多少短いものの大変美しく戦略性に富んだ素晴らしいコースです。本庶先生が京都ゴルフ倶楽部で頑張るのであれば私は袖ケ浦カンツリー俱楽部で勝手に頑張ります。
 本庶先生はノーベル賞の賞金を全て京都大学に寄付すると言っていました。大したものだと思っています。私がエージシュートをしても1銭にもなりませんし、アルバイト医師としてゴルフ代稼ぎぐらいしかしていませんが、その気概だけは学びたいと思っています。


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名誉教授の独り言 (191) 高齢者を甘やかすな
平成30年10月 1日

 先日、NHKの特番で、中村裕先生のドキュメント「太陽を愛した男」が放映されました。恩師井上駿一教授が大変尊敬していた先生で、わざわざ大分まで「太陽の家」を見学に行きました。当時、私は中村先生の事を存じ上げず、井上教授はいつも超多忙なのに何でそんなことをするのか理解できませんでした。その後、世の中でリハビリテーションやパラスポーツの重要性が論じられるようになり、その中で中村先生のことを少しずつ知ることになりました。今回「太陽を愛した男」はビデオを撮って2回見ました。2回ともどういう訳か恩師井上教授と中村先生がダブって涙が出てきてしまいました。中村先生のメッセージの中で最も印象的だったのが「身体障害者を甘やかすな」でした。自分の整形外科医人生でも確かにそのようなこともあったように思います。
 そして現在自分自身も77歳になり後期高齢者です。1日に2つの仕事は無理になってきました。午前中にスポーツクラブに行って、午後国技館へ行くと疲労困憊になってしまいます。そのような生活の中で自分を含めた高齢者の我儘が気になって来ています。
 特にスポーツクラブは老人天国です。高齢者会員の中にかなり我儘な会員がいます。先日もプール内歩行の後にストレッチングコーナーでちょっとストレッチングをしようと思い、男性高齢者の先客がいたのですが空いているところでやろうとしたら、「邪魔だからあっちに行ってくれ」と言われてしまいました。手を伸ばしても脚を伸ばしても絶対に当たらない所なのに、です。揉め事になるのは面倒なので「すみません」と言ってプールを出てしまいました。この男性には以前にも文句を言われた事があります。
 NHKの「チコちゃんに叱られる」でプールで目が赤くなるのはプールの中でおしっこをする人のアンモニアが原因との放映があり、その後に古手の会員に「そんなことがあるんですか」と聞きましたら「ありますよ、お風呂の中でもありますよ」と当然のように言われました。スポーツクラブの風呂でシャワーを浴びていたら「お湯がこっちに飛んできた」と文句を言われたことが3回あります。背中合わせに洗い場にいた時なので少しはあるだろうと思いますが、このような人は余程不幸な人生を歩んできて、心に余裕が無い人なのかと思ってしまいました。
 先日、歩道を散歩中に後ろから自転車で来たジジーに「邪魔だ!どけー」と言われたので、「歩道を自転車で走るのは道交法違反だ!車道を走れ!」「俺はいつもここを走っているんだ」「じゃー警察へ行こう」とやりあっていたら、ふらふらと車道に行きました。高齢者の我儘は挙げれば限りがありません。
 このような人の中には多少認知症が入っている人もいるのではないかと思いますが、多くは高齢者の我儘でしているように思います。私は小心なので揉め事になるのが嫌で多くは「すみません」と言って引き下がりますが、本当はそのような人に間違えを指摘し、直してもらうように言うべきと考えています。多分、言っても直らないと思いますが、勇気をもって言うべきだと思います.高齢者を甘やかさない方が結局は高齢者のためになると思っていますので。
 高齢者になったら「金持ちのような振りをすべき」、「健康そうな振りをすべき」と言われたことがあります。本当は金持ちで健康で心に余裕を持った人生の方が良いでしょうが、いつかはそうでもない時が来るでしょう。まー、自戒の念を込めながら、金持ちの振りをし、健康そうな振りをし、心に余裕がありそうな振りをしながら余生を送りたいと思っています。


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名誉教授の独り言 (190) 一過性脳虚血性発作
平成30年 8月22日

 過日の7月5日の不具合は一過性脳虚血性発作(Transient Ischemic Attack,TIA)だったのだろうという事で落ち着きました。その道の専門家である千葉大学の脳外科専門医にご診察頂き、幸いにしてほとんどの症例の原因である頸動脈の動脈硬化や不整脈も無く、ちょっと手遅れですが、2~3ヶ月アスピリンを服用することになりました。
 救急患者として大学病院を受診した時に全ての検査が終わり、「全ての検査で異常はありません。帰って良いです」、と言われた時は嬉しくて慌てて帰宅してしまいました。でも、「本当に何でもないのかなー」、という思いがあり、スポーツクラブでも恐る恐るexerciseしていました。その後に勧める人もいて、大学の脳外科を受診しTIAと診断されました。それにしても、発作後、最も危険な状態にある1~2日間に何も起こらなかったことは本当にluckyでした。今後3ヶ月以内に本物の脳梗塞になる確率は15~20%ぐらい(その約半数は最初の発作の1~2日目に起こるようです)のようですので、もう暫くはアスピリンを続けます。
 最終診断をして下さった脳外科医の先生は名医だと思います。約30年前に彼が医学部学生の頃に私が指導したことがあったようですが、私が恐る恐る「アルコールはダメでしょうね」と聞きましたら、「いやいや、アルコールは適量続けて下さい。その方が血のめぐりが良く、TIA後の本物の脳梗塞の発生率はデータでは38%少ないのです」、との事でした。大変嬉しくなり、「適量とはどのぐらいですか?」と聞きましたら、「350㏄のビールなら、その後は水割り1杯です」、とその量も教えて下さいましたが、後で考えたら「適量」というのが問題でした。実は私が普段頂いている酒量の約半分です。でもゼロより良いので、以後それは守ろうと努力しています。更に「スポーツクラブに行っているのですが、exerciseはしても良いですか?」「汗をかいて、ハーハー言ってやる運動は脱水になる可能性があるのでまずいです」「腰痛解消のためにプール内歩行ぐらいでは?」「それは良いです」という事でスポーツクラブでは今はおしゃべりとプール内歩行とお風呂に行ってます。ゴルフも暑い間は止めた方が良いという事でこちらも休んでいます。
 それにしても年をとるという事は色々とあちこち不具合が起こるものです。私自身では12年前の胃癌(胃を4分の3切除)、2年前の慢性硬膜下血腫(開頭手術で血腫を洗い流して貰った)、その後の胃癌の再発(胃カメラで粘膜切除)、今回のTIAと、どれで死んでもおかしくない病気ばかりです。我儘な私に最高の医療をして下さった医師、看護師さんたちに心から感謝しています。最初の胃癌の手術後は縫合部浮腫で大変苦しみ看護師さんたちを手こずらせました。慢性硬膜下血腫の時は術後2日目にすっかり症状も良くなってしまいましたので「こんなところにいたら病気になってしまう」と20年前には医学部学生だった主治医に言い残して「なにかあったら 先生の自己責任ですよ」との声を背中に感じながら退院してしまいました。その後の再発胃癌の時には術後の病院食の都合があり、早期には帰してくれなかったので、「こんなまずい食事では回復できない」と給食室に散々文句を言い続けました。にも拘らず、こんな患者を暖かく見守ってくれて、心から感謝しています。この後、年を重ねるともっともっと我儘になると思います。
 何卒、宜しくお願い申し上げます。


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名誉教授の独り言 (189) 人間万事塞翁が馬
平成30年 7月29日

 私は現在、すこしだけ医者をしていますが、その他の時間はほとんどスポーツクラブに行っています。今年の夏は異常に暑い日が続き、その中、サッカーのワールドカップ大会はロシア各地で行われました。
 その1ヶ月ぐらい前の6月3日に千葉大学医学部昭和42年卒の「ちよに会」のクラス会が開催されました。日本サッカー協会の田嶋幸三会長が当番幹事の龍野君の患者さんであり、それよりも田嶋会長の奥様が千葉大学医学部出身の女性のスポーツドクターいう事で講演依頼を断り切れず15分のミニレクチャーという事で「ワールドカップでチームジャパンはかく戦う」という話をかなり時間オーバー話してくれました。大変興味深いお話でした。
 いざワールドカップが始まるとその面白さに夜中までTVに釘付けになりました。結果として睡眠不足なりました。仕事は以前と同じようにやっていましたが、暑かったです。
 7月5日(木)に例によって先輩が木更津でやっている病院の整形外科外来を午前中こなしてから帰宅し、一休みしてから、暇だったので家から10分ぐらいのスポーツクラブへ行きました。車を駐車場に入れたのですが何かハンドルがふらふらしていて結果として車の左フェンダーを壁に擦ってしまいました。車をスポーツクラブの前に停車したら、スポーツクラブの仲間が何人か集まってきて、救急車を呼んで大学に行くことなってしまいました、その辺は良く覚えていませんが、CT,MRI とやってくれて1時間ぐらいで「何ら異状はありません。お帰り下さい」、となりました。
 症状としては一過性の小脳梗塞が起こった感じですが後遺症は全くありませんでした。どうしてこんなことが起こったのか?少し過労だったか?、熱中症の初発症状か?、夜中のワールドカップを見て寝不足だったか?、わかりませんでした。色々と原因は考えられますが、根幹は加齢的なものと考えました。その結果として「もう車の運転はしない」と決めました。今まで苦労に苦労を重ね、築いてきた栄光ある人生を棒に振るような晩節を汚すようなことはしたくないと思い決心しました。多くの人から「素早い素晴らしい決断だ」と褒められました。でも車無しの生活は不便です。ものすごく不便です。それなりに落ち込みました。でも車が無くても生きていけることは判りました。ただ、ゴルフに行きづらくなったので、夏の間はゴルフ中止としていますが、これからの事は改めて考えます。
 車の代わりにはなりませんが、京成バスが70歳以上の老人を対象に売出しているゴールドパスを求めました。半年で16500円で京成バス乗り放題です。私は主に小倉団地から千葉駅(片道380円)、と小倉台5丁目から都賀駅(片道220円)を使いますが、時には大学病院、青葉病院にも行きます。この1ヶ月で1万円位使いましたので、十分にペイするように思います。このゴールドパスを買って少し明るくなりました。そうこうしているうちにトヨタが左のフェンダーのへこんだ車を取りに来てくれました。車載車に積み込まれ出ていきましたが、その姿を見て、また落ち込みました。一瞬「また欲しくなるかもね。その時はもっとコンパクトな車かな。」とも思いました。
 いつまでも落ち込んではいられないので、今はせっせとスポーツクラブに通っています。毎日筋力訓練をしているせいでしょうか、ショートアイアイが前より飛ぶようになってしまいました。早く涼しい季節になることを願っています。


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名誉教授の独り言 (188) 老人力
平成30年 6月28日

 私は現在77歳ですが、まだ非常勤で2週に3回、外来を主とした医者をやっています。通勤に片道1時間40分かかりますが、それはあまり苦にならず、むしろ電車に座っているだけで時間を過ごしてくれて、大変あリがたいと思っています。
 朝、公園でのラジオ体操に行くためには朝食を5時半に取り、ゴミ拾いをしながら公園に行き、6時半からラジオ体操、その後モノレール、JRで病院に行き12時過ぎまで外来をしているとお腹が空いてしまいます。11時前後に患者さんの切れ具合を見て、5分ぐらい休憩を貰い、少しお茶を飲みながら家内手製の小さいおにぎりのお弁当を食べるようにしています。仕事内容的には何の薬を処方ているかを失念していると患者さんが教えてくれますし、自覚的には十分に応えていると思っています。
 暇つぶしにスポーツクラブに週に3~4回行っています。他にやることもないからです。元気なオジーちゃんやオバー―ちゃんが毎日沢山来ています。毎週火曜日は休館日なので安いゴルフ場に行きゴルフの後にお風呂に入ってくるという人もいます。自宅のお風呂にはカビが生えてしまい、使えない状態のようです。会員の多くは火曜日以外ほとんど毎日来館し、運動をしたり、おしゃべりをしたり、お風呂に入ったりしています。会員によっては1日に2回来る日のある人も多いようです。まだまだ十分に労働力になりそうな老人がほとんどです。
 でも、政府は少子高齢化で労働力不足を声高に言っています。スポーツクラブで元気な年寄りを多く見たりしていると、この老人たちに働いてもらうわけには行かないのかと思ってしまいます。
 定年退職した人を内館牧子女史は「終わった人」と表現していますが、私は小説「終わった人」は「まだ終わってない、これから第2の人生が始まるのだ」、と言っているように思います。私自身、65歳で千葉大学医学部教授を定年退職し、その翌日から鹿島労災病院長として第2の人生を始めました。でも、その4月1日に院長宿舎に案内していただき、光熱器具の不具合が判り、それは直ぐには治らないという事で、がっくり来て千葉に戻って来てしまいました。医学部教授現職中にはこのように世間から軽んじられたことはありませんでした。多分このような扱われ方が第2の人生に踏み出せない、長続きしない大きな理由のように思いました。私は当初鹿島労災病院で任期5年と言われていましたが、業績も回復したので4年で後任の人にお願いして千葉市に戻りました。それからは以前から依頼されていた「千葉市病院事業管理者」を3年間勤め、4年前からは常勤職を辞し、先輩の病院で一整形外科医として非常勤で勤めています。高齢になっているので、能力的にも体力的にも若い時より劣っているのは当然です。私は整形外科医でしたがもう年なので手術を自分ですることは辞めて、手術の方が適応の場合はしかるべき病院に紹介させてもらう方法で対応できています。医者以外でも若い時からやって来た仕事を生かして十分に働けるのではないかと感じています。老人になり一番辛いことはやることが無い事では無いかと思っています。問題は老人のプライドだと思います。現役の時はこんな扱いは受けなかったのに、もっと報酬も高かったのに、と思う事はしばしばあります。私はあまりプライドを持つ方ではないのかもしれません。いつの間にか「もう、年だし仕方ないか」と思うようになっていました。
でも行政の方々にもっと老人力を有効利用してほしいと願っています。


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名誉教授の独り言 (187) 終わりそうな人
平成30年 6月15日

 私のガールフレンドの一人である内館牧子女史が小説「終わった人」を上梓したのは2年ぐらい前だったように思います。自宅近くの本屋さんで並んでいたのを見つけ買い求めました。その2年ぐらい前に常勤職を辞した自分にとっては、良くここまで定年退職した男性の気持ちを表したものだ、と感心しました。
 昨年この小説が映画化されるとのメールをガールフレンド様から頂き、今年5月に銀座にある東映本社での試写会にご招待を頂き、家内と2人で見に行ってきました。館ひろしさんが主役でコメディータッチになっており、中年男性の悲哀があまり感じられず、原作の方が良かったと感じました。
 私は若い時は家事や家の経済などには目もくれず、患者さんの治療や研究などに全力を尽くしてきました。65歳の3月末日で千葉大学を定年退職し、翌日の平成19年4月1日から茨城県神栖市にある鹿島労災病院長として4年勤務しました。多くは週の中頃と週末に千葉の自宅に帰り、その他の日は神栖の院長宿舎に泊まりました。
 鹿島勤務3年半の頃の月曜日の朝に6時頃に自宅を出て東関東高速道の酒々井PAで家内と2人で和定食を食べながら70歳近い人のやることでは無いように思いました。体力的には大丈夫だったのですが精神的にそろそろかなと思い出してしまいました。その頃に千葉市熊谷市長の名代の方が鹿島労災病院に来て「平成24年4月から千葉市に病院局を創るので、そこの初代病院事業管理者になってくれないか」、という御依頼を頂きました。幸いにして鹿島労災病院も私が着任した時より業績も向上し、安定して来ていたので、そのお申し出を受けることにしました。千葉市病院事業管理者も大変な仕事でしたが、私の後を当時千葉大学学長だった斎藤康先生がやってくれるとのお話を頂き、3年で退職すると決めました。3年間の在任中に40億円ぐらい経費を節約したのではないかと思っています。そして4年前に常勤職の無い状態になりました。初めは大変気楽になりfreeの生活を楽しんでいましたが数か月後には何か不安な毎日になってしまいました。無職になってから半年後に週に2日外来をしてくれという申し出を頂き、3年ぐらい勤めましたが、経営者の方針と私が長い間医者をやって来た考え方が色々と異なり、そろそろ辞めたいなーと思っているところに千葉大学医学部の10年先輩の大変尊敬できる方から「病院を手伝ってくれないか」とのお申し出を頂き、これが人生で最後の仕事だと思いながら引き受けることにしました。朝5時に起き5時半に朝食を取り、6時に家を出て近くの公園に行きラジオ体操をして、その後モノレールで千葉駅に行き、そこからJRで約1時間かけて病院に到着するという事で多少ハードですが、現在でもその仕事を続けており、半分以上「終わった人」になっていますが、外来と入院患者さんの相談に乗るだけで手術はどんなに小さいものでも全くやっていません。という事で、まだ「終わりそうで終わってはいない人」の状態です。
 私は先月の誕生日で77歳になり喜寿を迎えましたが、腰痛はあるものの腰椎のストレッチングで何となく凌いでおり、体力的には、このお程度の内容ならまだ十分に働けるし、ゴルフもスコアーは別として、週に1回ぐらいなら大丈夫だと思っています。映画「終わった人」が先週一般公開されたようですので、千葉でもう1回見ようかな、と思っています。その上で何歳まで現在の仕事を続けるか考えます。


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名誉教授の独り言 (186) 栃ノ心の大関昇進は日本の整形外科医療の勝利です。
平成30年 5月27日

 膝には4つの大きな靱帯がありますが、その内、前十字靭帯は膝の中にある靱帯で大腿骨に対し脛骨が内旋しながら前方にずれるのを抑える靱帯です。外力が強すぎたり、体重が靱帯の強さより重かったりすると断裂してしまいます。前十字靱帯を断裂したまま相撲を続けると半月板損傷が続発することがしばしばあります。お相撲さんの膝前十字靱帯断裂は比較的多い怪我です。
 私の記憶では小錦が全盛期の1986年(昭和61年)5月場所で北尾が勝ち、その時のマスコミ報道では決まり手はサバ折りでしたが、小錦の右膝が中に入ったという事で、私は当時、膝の前十字靭帯断裂治療の日本でのトップランナ―でしたので、TVでその取り組みを見て、すぐに「前十字靭帯断裂を疑いました。その後、小錦は半月板損傷を続発し、横綱にはなれずに引退しました。
 その後、故あって私は横綱審議委員に推薦され任期10年の最後の2年間は委員長を務めさせてもらいました。昨年1月場所終了後に任期10年を満了しましたが、その場所で稀勢の里が優勝してくれて横綱に推薦しました。
 現在私は平成30年5月場所で栃ノ心が大関昇進を決めたことを大変嬉しく思っています。彼の5月場所での大活躍は日本人に深く共感を呼び、大変盛り上がりました。と同時に今後相撲界は力士の怪我をどのように捉えていくか関心のあるところです。
 現在は琴奨菊、安美錦、照の富士、宇良など多くの力士が前十字靭帯断裂、半月板損傷などで苦しんでいます。
 安美錦、琴奨菊らは装具で不安定性を少なくして頑張っていますが、今回の栃ノ心が手術を受け、幕内優勝もし、その後に大関昇進を決めたことを考えると、手術を受けるのも一案だと思います。昔は土俵の怪我は土俵で治せと言われていたようですが、時代は変わっています。
 かつて照の富士が関脇2場所で大関になったころに当時理事長だった 北の湖さんに「照の富士関は何時ごろ、横綱になりますか?」と聞いたことがあります。答えは「うーん、難しいですね。このまま今の相撲を取っていると膝を痛めるかもしれません」というお答えでした。その通りになってしまい、今後どうなるか心配しています。
 相撲界では、しこ、鉄砲、摺足だけが怪我の予防につながると言っているようですが、今後は科学を採用し、前十字靭帯損傷の受傷機転の分析、治療法の解析などをすべきと考えています。
 栃の心は幕下に陥落した時に、自分で前十字靭帯損傷について勉強し、手術(再建術)を受けたいと春日野親方に申し出たようです。術後幕下55枚目まで落ちた後に頑張って術後リハビリを行い、また復活したようです。どなたが手術をしたのかは存じませんが、力士が自発的に手術を受け、術後に復活したという事は日本の整形外科のレベルがそれだけ高くなったと勝手に思っています。今後は前十字靭帯損傷で苦しんでいる力士の方々が積極的に再建術を受けてくれることを熱望しています。


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名誉教授の独り言 (185) オランダ倶楽部
平成30年 5月 3日

 横綱審議委員経験者の何人かでオランダ倶楽部という名前で時々食事会を行い楽しんでいます。Founding memberは内館牧子女史、澤村田の助丈、山田洋次監督、私の4名でしたが途中に元横審委員で弁護士の松家先生や現委員の宮田文化庁長官が出席したこともありましたが、最近は、澤村丈のお具合が悪いようで、3名になってしまいました。今後はどうなるか判りません。横審OB、OGのお楽しみ会がオランダ倶楽部というのは「どうして?」と思われる方も多いように思いますが、それには訳があります。第1回のFounding member4名でのお楽しみ会の終わり頃に、この会の名前をどうするかという議論になり、その時に私が「この会のmemberはどなたも一人で全額をお会計することが出来るとは思いますが、この会を永く続かせるために毎回割り勘払いにするのが良いと思います。割り勘を英語でDutch accountという様なのでオランダ倶楽部という名前はどうでしょうか?」と提案し、それが受け入れられました。それからもう10年以上続いている会です。
 第1回の時に山田監督から突然「私は整形外科医を恨んでいます」と言われてしまいました。何のことか判らず、「何があったんですか?」と聞いてしまいました。奥様が1年ぐらい前に亡くなられたことは存じ上げていたのでいたのですが、「家内が亡くなる数ヶ月前に主治医から、どんな治療法でも良いのでご自分のご希望の治療をお受けになって下さい、と言われました」との事で「これって死の宣告でしょう。医者と言えどもそんなことを言って良いのか」とのお怒りでした。お話をよく聞きましたら、元のご病気が骨に転移し大変お苦しみになって7年ぐらい頑張られたとの事でした。「それは奥様も主治医も頑張ったことと思います。私は整形外科医ですので病気が骨に転移した時は診察します。でも多くは余命2年前後です。奥様も主治医も頑張られたと思います。お許しを頂けますと有り難いです。」と申し上げました。山田監督から「今日は来て良かった」と言って頂きました。
 その後も年に1~2回オランダ倶楽部は続いています。何故か毎回、相撲談義を中心に楽しく2時間ぐらいがアッという間に過ぎてしまいます。でも私は最近、東京で夜8時過ぎまで過ごすのは体力的に限界に近いです。一昨日も日本相撲協会維持員会懇親会で東京に行ってきましたが、会が夜8時過ぎまで続き、自宅に帰った時には夜10時ごろでした。八角理事長、尾車理事など幹部理事や横綱、大関、関脇、小結まで総出席で楽しく、ご馳走も沢山あり、少し食べ過ぎてしまいましたが、家に辿り着いた時はクタクタでした。
 最近の相撲界では楽しい話は乏しく、大変残念に思っています。横綱稀勢の里は徐々に稽古をしているようですが主に部屋の力士との稽古であり、TVで見る限り体の締まりが悪く、今日の五月場所横綱審議委員会の稽古総見でも3勝5敗だったようで、稀勢の里を横綱に推挙した張本人として、この先どうなるのか責任を感じ大変心配しています。一日も早く相撲ファンが明るい笑顔で相撲の話が出来る日が来るのを願っています。


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