守屋秀繁名誉教授の独り言
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名誉教授の独り言 (51) これで良いのだ
2010年 8月15日

 すでにお聞きおよびの方も多いと思いますが、私は来年4月から千葉市立病院事業管理者になることを千葉市長から依頼され、それを了承しました。元々、鹿島労災病院長はもう1年残任期間があったのですが私が正規に平成24年3月で辞めた時には現千葉市立海浜病院長の廣瀬彰先生に後任として来て下さることの内諾を頂いていたので、今度の話を受けて、それを一年前倒しにして下さるように廣瀬先生にお願いし了解を頂きました。廣瀬先生は千葉一高、千葉大学医学部、千葉大学医学部整形外科教室と私の五年後輩であり、病院長経験者ですし、我々の師匠である井上駿一教授に特別に可愛がられた素晴らしいお人柄ですし、適任だと思っています。
 元々横着者の私としては、これから1年半ぐらい働けば後は遊んで暮せると思っていたのですが、とんだ考え違いで、どういう訳かもう4年千葉市で働く事となってしまいました。誰がどう考えて今回の話が纏まったのか知りませんが、多分、自分が長く大学で教授をしていたこと、千葉県医師会の副会長を2年間していたこと、鹿島労災病院長を3年ちょっとしていたことなどを考慮に入れて決めて下さったのだろうと推察しております。私としては鹿島労災病院は千葉の自宅からは少し遠いので、その点は多少楽になるのではないかと思っています。
 それにしても私の人生は自分の予期せぬ方向に色々と進んでいきます。横綱審議委員も予想外の展開で就任させていただきましたし、その結果として内舘牧子女史や山田洋次監督を始め、多くの有名な方と知り合いになることが出来、土俵際で相撲を見る事が出来る維持員になることも出来ました。昨年には、日本プロゴルフツアー機構の医事委員長も御指名頂き、石川遼ちゃんを始め多くのプロゴルファーにも会う事が出来ましたし、現在は大変幸せな人生だと心から思っています。なぜ、こんなことになってしまったのか、改めて考えてみましたが、教授時代は病院長選挙に3度立候補し(立候補させられ?)全敗、学長選挙にも立候補して敗北、この頃は何となく気が滅入ってしまう感じでしたが、今考えてみると、学長選挙の敗北が自分の考え方を大きく変えたように思います。それまでは自分の考え方は間違っていないと常に思って行動していましたが、それからは他の人はどう考えているのか、を常に考慮するようになりました。これがいうなれば人生のturning pointだったように思います。
 元々、今回の話は千葉市立2病院の財政再建をお願いされて出た話ですが、現在の診療報酬支払制度ではどんなに頑張っても、悪いことでもしない限り収支は黒字にならないのではないかと思っています。教授時代は多少経済的な事も考えながら主に医学をしていましたが、病院長になってからは常に経済を考えた医療をしていて、こんなに働いているのにどうしてこんなに給料が安いのかが、最近やっと判りました。病院というのは診療報酬による収入の割に、何と多くの支出項目のあることか、これでは医師の給料が安くても仕方がない、という感じです。厚労省は病院を存続させる為に、医師、研修医、看護師、緒設備などをそろえていると、何とか加算が出来るというのを沢山並べていますが、ド田舎の鹿島労災病院では医師は集まらないし、看護師も10対1をやっと守るぐらいしか集まらないし、研修医はここ2年全く来ませんし、何とか加算の適応になるものはほとんど無く経営は非常に苦しい状態です。
 来年4月から千葉市病院事業管理者という事で、どれだけ財政再建が出来るか、千葉市民の健康維持に貢献できるか判りません。少なくとも自分の健康には良いんじゃないかと考えて、やっていこうと思っています。


 

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名誉教授の独り言 (50) 横審報告
2010年 7月27日

 開催が危ぶまれていた大相撲名古屋場所も白鵬の全勝優勝で終わり、昨日、恒例の横綱審議委員会が両国の国技館2階会議室で日本相撲協会から村山弘義理事長代行の他、謹慎明けの出羽海親方、陸奥親方、八角親方、謹慎とは関係なかった山科親方、尾車親方らが同席し行われました。冒頭に武蔵川理事長のメッセージを山科親方が代読し、「本来なら出席しなければならないところ、病気療養中であり、失礼します。今場所は特に諮問することはありません」との事でありました。
 次いで村山理事長代行が「色々と世間をお騒がせして申し訳ございません。白鵬が15戦全勝で優勝し、47連勝したのは大変立派でした。これからは二度と今回の様な不祥事が起こらないように、ガバナンスの整備に関する独立委員会が頑張ってくれると思いますので、その提言を受けて反社会的勢力と手を切るように努力します。」との挨拶がありました。
 横審側からは、先ず始めに鶴田委員長から「白鵬があんな立派な成績を収めたのに何故天皇賜杯をあげなかったの?」の質問があり、それに対しては、「文部科学省から総理大臣杯をあげない、という話があり、それなら天皇賜杯も遠慮しよう、それならその他も辞退して表彰状と優勝旗だけにしよう」という事になったとの説明でした。TV放送をしなかったことに関してはNHKの福地会長が「視聴者の声です」と確信を持って発言していました。さらに「ダイジェスト版も気合を入れて作るように指示しました」と言っていましたが、「相撲のTV放送を楽しみにしている方は全国に沢山おり、今回中止したことは大変残念だ」との意見が複数委員から出されました。特に相撲の大好きな澤村委員から「相撲はダイジェスト版などで見るものではなく力士が花道から入ってくるところから見るのが楽しいのに、今回のTV放送のダイジェスト版は見る気がしなかった」、と大変立腹して言っていました。私も1回だけダイジェスト版を見ましたが、とってもつまらないものだったので、2度と見ませんでした。受信料を取っている公共放送なら放送するのが当たり前だと私は思っています。長いものには巻かれろ的な体質は止めて、九月場所は是非、TV中継をしていただきたいと思っています。
 「これだけの不祥事があったにも係らず横審委員に何の連絡もなかったのはどうしてか?」との質問が山田洋次監督らからあり、村山代行が「それは広報部の不手際で誠に申し訳ありませんでした」と述べ、同時に広報部担当理事の陸奥親方から「すみませんでした」、とのお詫びがありました。さらに山田委員から、「頂いた手紙も木で鼻を括ったような議事録だけで、横審を何と心得ているか」、とのお叱りの言葉がありました。さらに、内山委員から「親方、特に改革を謳って理事になった貴乃花親方などはマスコミで色々報じられているが、自ら身ぎれいにならなければなりません」とのきついお言葉がありました。
 最後の方に私から「ガバナンスの整備に関する独立委員会という名前は大相撲に非常に似つかわしくない名前の様に思いますが、誰が付けたのか、そして誰が何処から独立するのか?」と聞いたのですが、「特別調査委員会がそのようにしなさい」と言ったからです、との回答だったので、「改革をしなければならない張本人であるお相撲さん達はガバナンスという意味が判っているのですか?」と言いましたら村山代行が「今、流行の言葉なので…」と言葉を濁していました。その辺でいつもよりかなり長い約50分の横審が終わりました。何時も横審の後には懇親会があるのですが、私は今回だけは懇親会に出席する気になれず、そのまま帰宅してしまいました。
 そういえば大学在職中に工学部と医学部で共同研究をするような施設を作る時に当時の文部省の役人さんから既存の名前では許可が出ず「千葉大学フロンティア・メディカル工学研究センター」というやたらに長い名前にさせられたという事を聞いたこともありますし、医学部が全て大学院となった時に各科が競って長い名前になり、整形外科も運動器機能再建外科と名前を変えましたが、「何それ?」と言われ続け、1年で元に戻しました。現在では同様に元に戻している科が沢山あります。
 今回の「ガバナンスの整備に関する独立委員会」も多分文部科学省あたりの入れ知恵で名前が付いたのではないかと推測しますが、何をしたら良いか判らず、結局、何も出来ずに終わらなければ良いが、と案じています。


 

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名誉教授の独り言 (49) 困ったもんだ、大相撲
2010年 7月13日

 私が横綱審議委員を務めている事は何度か書きましたので、多くの方はご存知の事と思います。横審はそれなりに楽しく務めさせていただいております。その楽しさの中には山田洋二監督や内舘牧子女史、澤村田之助氏らと場所総見の後の食事会なども含まれています。横審は毎場所後の月曜日の夕方5時半から両国国技館の2階会議室で行われます。今回の名古屋場所後にも開催されるかようですが、委員会には出席しますが、さすがに宴会気分にはなれないので、委員会後の懇親会は欠席することになりそうです。
 朝青龍が色々と問題を起こした頃は少し早めに集まり、控室で雑談風に話をまとめてから会議に入りました。ただ、朝青龍に引退勧告を出した2月4日の臨時横審の時は鶴田委員長が「今日は引退勧告を出しますが、委員の皆様宜しいですね」と言い出して決まってしまいました。その直後の横審で鶴田委員長が発言する前に武蔵川理事長から「本人からご迷惑をお掛けしたので引退したい、と申し出がありましたので、受理しました」、との発言があり、朝青龍引退が決まってしまいました。
 それにしても相撲界では色々の事が起こります。昨年の名古屋場所で暴力団組長が維持員席で相撲を観戦していたとして問題になりましたが、それ以上に今回の野球賭博はどれだけ根が深いのか判りません。そもそも横綱審議委員会が出来たのはやくざと深いかかわりがあったからです。1789年に吉田司家が谷風・小野川に横綱の免許皆伝を出して以来、60年前の1950年までは優勝などしなくとも大関で人気があれば横綱免許授与式・奉納土俵入りを熊本の吉田司家で行い、横綱として認められていました。それが、1950年に3横綱が相次いで休場し、横綱土俵入りが無いまま本場所が行われる事態になってしまい、その陰にやくざとの関係が噂され、吉田司家と手を切るために外部の有識者だけによる横綱審議委員会を作り、日本相撲協会審判部が横綱にふさわしい人を推薦し、それを理事会で協議し、結果を横綱審議委員会に諮問し、決定するという手続きにしたようです。そのようにして完全にやくざと手を切ったはずでしたが、まだ何かあったのでしょうか。
 話しは変わりますが、鹿島労災病院では東京で場所が行われる時には桝席を7枡か8枡購入し、マイクロバスを借りて、両国国技館 へ職員バスツアーを企画して、楽しんでいます。私がチケット確保を協会にお願いするので色々と便宜を図ってくれるのですが、一つ変なのは桝席料を前もって現金書留で送らなければならないことです。今の時代、銀行振り込みとかは出来ないのかと聞いてみたこともあるのですが、協会は全てこのようにしていますので、との答えでした。このような体質が今回のような野球賭博と何ら関係が無いとは言えないのではないでしょうか。事務そのものも現代風にしていかないと、現実の世界とはかけ離れた存在のままになってしまうような気がします。その点、今回、代理とはいえ村山氏が理事長になったのは良かったのではないかと思っています。
 あれだけ大きな体をして、ちょんまげを結っていたら、どこへ行っても目立ってしまい、社会生活も相当制限されてしまうのではないかと思います。そういう点では可哀そうな気もしますが、それはその他のタレントさんでも同じなのではないでしょうか。そうだからと言って野球賭博をし、そのお金の一部が暴力団に行っていたのなら、それはやってはならないことです。しかし、日本人は相撲が大好きなので、たとえ横綱・大関陣に日本人は魁皇一人になっても、相撲のTV中継を楽しみにしている人は非常に多いと思います。今回NHKがTV中継を中止した事は個人的には大変残念に思っていますが、お相撲さん達のやっていた事は悪い事です。この際、出すべき膿は全て出して、出直して頂きたいと思っています。


 

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名誉教授の独り言 (48) クラス会
2010年 6月30日

 いつの間にか、千葉大学医学部卒業の同期クラス会の万年幹事となってしまい、幸いにして元気なので、昨年のクラス会で「毎年6月の第1日曜日にやる」と決めた事を受け、今年は6月6日の日曜日に開催しました。現在、既に物故者となっている人が10名おり、残りの85名に往復はがきを出しましたが、3名は宛先に住人が居なく、33名から出席の返事を頂き、36名が欠席の返事、13名は返事をくれませんでした。手紙ですから着かないという事もあるかも知れませんが、往復はがきなので返事ぐらいくれれば良いのにと、思いました。
 結局、当日は例年通りドタキャンが2名あり、31名の出席でした。去年より5名増の出席者でした。今年は幸いにして黙祷をする対象者が無く、皆で無事を祝いました。集合写真を撮った後に、2期8年真岡市長を務め、昨年政界から引退し、今は医者として頑張っている福田武隼君の発声で乾杯し、各々に現況報告をして貰いました。何人かはもう現役引退で悠々自適の生活をしていますが、ほとんどのクラスメートは、そろそろ引退したいが、まだもう少し働くという状況のようでした。皆さんそれぞれ楽しいスピーチをしてくれましたが、金沢医大小児科教授を10年ぐらい勤めて、今は千葉に戻ってきている高橋弘昭君は長くアメリカで医者をしており、最後はジョン・ホプキンス大学で準教授をしていただけあり、欧米文学を原語で読んでいるが、これからはもっとたくさん読むという事と、バイオリンを習っていて演奏会にも出場したという話をしてくれ、谷口克君は得意なNKT細胞でこれからの癌治療法が変わるという話などをしてくれ、皆から拍手を浴びていました。その他に健康増進に気を付けてスポーツジムに通って若いお姉ちゃんにエアロビの指導を受けているとか家庭菜園をしているという話も何人かからあり、難聴になってしまって補聴器を使っているが、そうすると聴診器を使いづらいという哀れな話をしてくれた級友もいました。色々と話が続きましたが、最後に私が横審ウラ話として「どうして朝青龍は引退したか」を話して個々の現状報告は終わりになりました。
 次回は1年後の6月5日(日)に開催すると決めましたが、ここでクラスメートの中で1番元気な谷口克君が来年からはクラス会当日早朝ゴルフをしてから集まろうとの提案があり、そちらは伊佐治尚文君が幹事となり、希望者は参加するという事と、もう毎年話すこともない人が増えているので、話したい人だけ話をし、話したく無い人はパスする事が出来るという事を決め、来年も黙祷の無いように元気でいる事を誓い合って、散会となりました。話し足りない人が10数名おり、2階のコーヒーショップで昼間の2次会を行い、1時間ぐらいおしゃべりをして、お開きとなりました。
 今回のクラス会では人間70歳前後になってしまうと現役時代に華々しかった人も平凡な医師人生を過ごした人も、皆平等になり、かつての同級生として旧交を温めることが出来るという事を改めて認識しました。人を掻き分けてでも前に出たいと思っている若い後輩達に「そんな事をしても人生最後は同じだよ」と言ってやりたくなりました。今回は今まで出席しなかった人も5人出席してくれ、大変楽しい会であったと自分では感じました。多分、年のせいでお互い元気で会えて良かったなーという気持ちが楽しく感じさせたのだと思いました。


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名誉教授の独り言 (47) 花惑いの春
2010年 6月 3日

 今年の春は寒い日があったり、初夏のような日があったり、非常に不安定な天候の日が続きましたが、このような春には花が咲こうか、もう少し待とうか迷うそうで、洒落た言葉で「花惑いの春」というのだと先日TVで言っていました。年のせいで直ぐに忘れてしまうので、敢えて今回のタイトルとさせていただきました。鹿島労災病院のある神栖市の空き地にはあちこちに咲こうかどうか迷った挙句、例年より多少遅めに咲いた大錦鶏菊がやっと満開になり、いよいよ初夏になったという感じがしています。
 先日、家内が大錦鶏菊の奇妙な行動(?)に、気付きました。大錦鶏菊は常に陽当たりの良い方を向いているという事です。朝は太陽が出てくるとそちらの方を向き、まだ日が当っていないところの大錦鶏菊はバラバラの方向を向いており、日光がガラスで反射しているところでは、そのガラスの方を向いています。夕方になると、夕陽の方を一斉に向いてしまいます。大錦鶏菊は常に太陽の方を向いているようです。かつて恩師の井上教授がご健在の頃に、私は日陰の大錦鶏菊の様に勝手な方向を向いて行動していましたが、常に井上教授の動向を気にし、井上教授の方を向いていた教室員が居た事を思い出しました。
 病院の正面玄関にある患者案内のテーブルに何時も1〜2鉢の花が飾ってあります。現在は、かつての教室員が一昨年私の誕生日に贈ってくれたハイビスカスと前病院長の中島先生が枯らしたまま院長室に置いてあったものを家内が養生して真っ赤な花を咲かせたアマリリスが置いてあります。私は花の手入れなどは全く不得手ですが、病院という性格上、患者さんの慰めになればと思い、家内に協力して貰って肥料をやったり、鉢を植え変えて貰ったりして花が咲くと宿舎から病院へ持ってきています。私は花の名前も余り知りませんし、何時も家内に教えて貰っているのですが、中々覚えられません。もしかしたら覚える努力が足りないのかも知れません。でも、ほとんどの職員は私より花の名前を知りません。先日、私は知ったかぶりをして、「これがハイビスカス、これがグラジョ―ラス」と言って職員に得意げに説明していたら、脇にいた患者さんに「これはアマリリスです」と言われてしまいました。とんだ失態でした。


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大錦鶏菊は西日の方を向いています。

47_01
大錦鶏菊は全て太陽の方を見ており、背中を見せています。

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アマリリスとハイビスカス

 

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名誉教授の独り言 (46) コロ昇天
2010年 5月19日

 ホールインワン騒ぎをした6日後に、遂に愛犬コロがあの世に行ってしまいました。昨年夏頃から咳込むようになり、動物病院へ連れて行ったら「気管支狭窄」と言われ、投薬を続けていました。しばらく、その薬を続けており、たまたま家内(薬剤師)が動物病院へ薬を貰いに行くことが出来なかった時に、自宅近くで薬局を開業している元同僚のところへ行って買い求めてビックリ。動物病院では一錠70円だったのが、その薬局では10円でした。確かにその薬は効いていたのですが、徐々に体力が低下、5月10日朝4時頃に激しく咳込み、起きて行ってみたら、もう立つことが出来ず、過呼吸状態であり、その後ゆっくりの呼吸になりました。私はその日はどうしても病院に来なければならず、早めに家を出て、病院で仕事をしていたら、お昼頃に家内から「息をしなくなった」という泣きながらの携帯が入りました。16歳でした。人間に換算すると7を掛けるそうで112歳の大往生でした。ここ1カ月ぐらいは大変苦しそうだったので少しホッとしたところもあります。夕方、仕事終了とともに帰宅。翌日に動物葬儀社に頼んで出棺としました。
 もともとコロは16年前に先述の動物病院の院長先生から譲り受けた犬で、血統書つきの柴犬で、それなりのお値段でした。我が家の子供は息子だけでしたので彼が小学生の頃、情操教育の一環として犬を飼うことにしたのですが、初めこそ息子もコロの散歩をしてくれましたが、ほとんどは家内にお願いしてしまいました。コロが我が家に来ると同時に可愛い犬小屋を買い求め、数年はそこで暮らしていましたが、その内に息子は東京の大学に行き都内に住むようになり、私は学会などで家を留守にすることが多く、家内はコロでも家の中にいてくれると多少安心するようでいつの間にか室内犬になってしまいました。息子とコロの関係は兄弟のようで、息子が帰宅し昼寝をしていると、そばでコロが平行になって寝ていることがよくありました。息子がそれなりの優しい子に育ったのもコロのお陰もあったのかもしれません。近所の人達はもちろん、教室員の人達や洗濯屋さん、ダスキンのおばさんなどからも大変可愛がっていただきました。良い一生だったのではないかと思っています。
 そもそも、今回亡くなったコロは2代目でした。初代コロは大学にまだ動物舎が無かった頃、整形外科病棟の中庭で実験用の犬を飼っていたのですが、ある時、非常に可愛い犬が生まれ、息子が生まれるかなり前で家内も寂しがっていたので、その子犬を我が家に連れて帰り飼うことにし、コロと命名しました。10年ぐらい飼っていたように思いますが、ずっと庭で飼っており、その頃はフィラリアの予防注射も無く、最後はフィラリアで腹水が貯まり、亡くなりました。初代コロが亡くなった翌年が戌年であり、その年に息子が生まれました。ですから息子は初代コロの生まれ変わりかなーと思ったりした事もありました。従って息子と2代目コロが兄弟のように心が通じ合っているように見えたのは何かの因果かも知れません。
 コロは晩年には朝5時と夕方5時、夜9時になる時計が判るのかなと思うほど決まって咳込み、散歩に連れていくと元気に歩き用事を済ませていましたので、近所の人はまだまだ元気だろうと思っているようですが、実は家に帰ってドッグフードを食べ、それ以外の時間はただ寝ていました。散歩はもっぱら家内がしてくれており、よくやってくれたなーとつくづく感謝しています。コロと一緒の16年間には余りにも色々な事がありましたが、コロが居てくれたことで慰められた事が多かったと、今頃になって感じています。コロの居ない自宅や院長宿舎に帰るとどこからかコロが出てきそうで、その度に悲しい気持ちになります。我々夫婦はもうすぐ70歳ですので3代目コロを最後まで面倒を見ることは出来そうもありません。残念ながらもう犬を飼うつもりはありません。そして、残ったのは金魚のキンちゃんだけになってしまいました。


コロ
犬には受験は無いから頭はそんなに良くなくても良い、可愛くて素直な犬が欲しいと言って譲って貰いました。コロは昼寝をする時には枕を使うのが好みで、犬のぬいぐるみにゴルフのタオルを引いて良く使っていました

 

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名誉教授の独り言 (45) やってしまいました(ゴルフ編)
2010年 5月 9日

 遂にやってしまいました。連休中にコロの具合も良くなく、家内は老犬介護で遠出も出来ず、仕方なく5月1日は旧友の鈴木一郎君の代わりに本袖へ、2日は学生時代からお世話になった茂原の宍倉先生と本袖に、1日休んで(と言っても午後から新袖で練習)、4日は同門先輩の谷口滋先生の命令で林国春先生、山中力先生と4名で、また本袖へ行きました。この同伴競技者が当日の勝因だったのかもしれません。OUTからの出だしはダボの6、谷越えの2番はボギーの6、3番ダボの6、4番もダボの6、ここで山中先生に「全部6だなー。昨日ジャイアンツの脇谷が満塁ホームランを打って、その後変わるでしょうと解説者が言っていたけど、君もこの辺でホールインワンをすると、変わるかもね!」と言われたのが、今思うと前兆だったのでしょうか。5番のショートはかろうじて4で凌ぎ、6番はやっとパーの4.これから4を続けようと思ったらまたダボの6。がっかりして8番に向かいました。168ヤード、ピン奥、ややアゲインスト。胃癌との戦いで、やっと半年前に抗癌剤を終了することが出来、未だ筋力が十分には回復しておらず、175ヤードはスプーンでは無理とは思いましたが、少しクローズドに構えて、エイヤッと打ちました。球は真っ直ぐピンに向かって行き、ワン、ツー、スリーバウンドでカランコロンという音がしました。「アレッ入っちゃった」という感じでした。後ろの組が勝手に「バンザーイ」と言ってくれました。生まれて初めてのホールインワンでした。
 そもそも私が始めてラウンドしたのは40年前に栃木の上都賀病院に出張に行っていた時でした。成績は57,57でした。バーディーも一つ取りました。小学校の時から体育は全くダメ。好きだった野球もライトで8番で時々出してもらえるライパチ。運動会でも6人で走って、真面目には走らないのが一人はいて5番。もの凄い運動コンプレィクスでした。体を動かし汗をかくのは好きなのに、運動音痴ばかりの医学部で、卓球部でもスキー部でも何時も控え選手。それが初ラウンドでの57、57で、もしかしたらゴルフの才能はあるかなと自分でも思い、鹿沼のゴルフ練習場に行き始めて3カ月後、井上教授から「明日から教室に帰ってくるように」とのお電話を頂きました。半年前に結婚もしていましたし、当時の引っ越しはそれなりに大変で、翌週に帰局するという事でお許し頂きました。帰局したらゴルフなんて全く頭の中から消えてしまいました。やっとゴルフを復活できたのは、自分が医局長になった頃だったと思います。同門会のコンペの次郎杯に教授が出場する時の運転手あるいは付き人としてお伴しました。井上教授はスケートとボーリングは得意だったと言っていましたが、ゴルフは本当に下手でした。私も年に1〜2回のラウンドではメケメケでした。でも、その頃を含め、我人生で57,57以上は打ったことはありません。
 ホールインワンの後に昼食に行く前にそっと家内に「ホールインワン保険入っている?」と携帯して「やっちゃったの?」「うん」 「大丈夫。入っている」ホッとして昼食。ビールで乾杯。さっきバンザ―イと言ってくれた後ろの組のテーブルにビールを届け、ワイワイガヤガヤ昼飯を済ませ、午後のハーフに。そして10番バーディー、11番から3連続パー。どうなっちゃっているの?と思っていたらその後は何時ものゴルフで、終わったら結局40。上出来、上出来。上がって風呂に行ったらもうほとんどの人が知っていました。その後も「ホールインワンしたんですってね。おめでとうございます」と言ってくれたり、メールを下さったりする方がいます。有り難いことと感謝しています。
 連休明けに保険会社に電話したら何と手続きの面倒なことか。同伴競技者全員とキャディーさんにサインと捺印を頂き、必要事項を書きいれて保険金請求書を提出するのだそうです。そんなに面倒なら、記念植樹はもちろんせず、パーティーもせず、お祝いを言って下さった方には申し訳ないのですが、以前からお付き合いのあった2つほどの心身障害児者施設に保険金を寄付して済ましてしまおうかなと思ったりしています。
 でもゴルフは続けられるだけ続けます。そしてもう一度ホールインワンをしたいと思っています。


袖ヶ浦CC
当日は袖ヶ浦コースの8番は左側の本グリーンでした。少し打ち下ろしですが、谷超えであり、距離の計算が難しく、少し短いと手前の深いバンカーに捕まってしまいます

 

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名誉教授の独り言 (44) 禁酒解禁
2010年 4月23日

 以前にも書きましたが、しばらく、と言っても、たったの1ヵ月ですが、絶対的にではなく、少し緩めの禁酒というか節酒と、出来るだけ運動をするようにし、食事は多少カロリーの高いものは避けるようにしていました。最初の3週間は完全に禁酒とし、その後は我慢が出来なかったので節酒として、夕食時の飲み物をウーロン茶で済ませ、寝る前に一寸だけ寝酒を飲む程度にしていました。運動は一日1万歩以上歩くのと週1回のゴルフを心掛けていました。食事も多少気を付けていましたが、後半はトンカツもすき焼も食べてしまいました。その結果、たったの1ヵ月でHbA1cが1ヵ月前の6.6%から、何と5.1%に改善してしまいました。以前から、そんなに酒を飲んでいた訳では無く、ゴルフだって、むしろ大学時代より回数は減っているのですが、何はともあれ改善して良かったです。
 問題はこれからです。夕ご飯の時にアルコールを飲まなくても美味しく頂けることが判り、このところビールも飲まずに夕ご飯や宴会を済ませています。ただし、寝る前に、何も飲まないのは何とも寂しく、少しだけ寝酒を飲むのはどうしても止められません。でももうHbA1cが5.1%だし、空腹時血糖は100以下ですし、この程度の飲酒は許されるのではないかと思っています。運動も最近はゴルフの後に腰痛が起こってしまい、治るのに3〜4日掛かってしまいますが糖尿病の治療と心得て、続けるつもりです。
 という訳で、何とも簡単な糖尿病に対する闘病騒ぎでした。父を糖尿病による脳梗塞で亡くし、兄は糖尿病で合併症のデパートのような状態で、血統的には糖尿病になる確率が非常に高い状態ですが、正しい医学知識を持って正しい対応をすれば、こんなに早く良くなるのは驚きですが、この程度の対応で良くなるという事を糖尿病のボーダーラインの人にお知らせしたいと思っています。知人の一人が本を書いたら売れますよ、と言ってくれましたが、3ページぐらいで終わってしまいそうなので、それは止めました。
 さらに問題なのはゴルフクラブの買い替えです。先週の土曜日にゴルフショップに行ってどのクラブが良いか試打をしてみたのですが、どのドライバーでも飛距離はやっと200ヤード、これではクラブを買い替える必要性は無いのではないかと思ってしまいました。さらに、その翌日には新袖でラウンドし、ショートアイアンで何度も大ダフリやトップが出てしまい、これはクラブのせいではなく打ち方に問題があるとしか思えず、アイアンも買い替えてもどうしようもないのではないかと思ってしまいました。どなたか良いアドバイスを頂けると有り難いと思っています。
 胃癌の手術を受けてから2年と4ヶ月が過ぎ、自覚的にも、月に一度の検査でも、何の異常もなく、そちらは完治したのではないかと勝手に思っていますが、糖尿病は油断すれば何時また再発するか判りません。この際、食事は、ある程度気を付けるぐらいにして、アルコールは今のままの状態で、運動も出来るだけするように心がけていれば、血糖のコントロールは出来るのではないかと思っています。もし、腰痛でゴルフが出来なくなったら、アスレチィククラブに入って、プール通いでもするつもりです。
 そして、今回の糖尿病騒ぎで一番効果のあったのはこの「独り言」に書いてしまう事だというのに気が付きました。元々あまり自制心のある方では無いので、ここに書いてしまえば、それを守らなければ誰に何を言われるか判りませんので、最高の抑止力です(何時まで守れるかな…?)。


 

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名誉教授の独り言 (43) がっかりする事
2010年 4月16日

 今日は愛犬「コロ」の16歳の誕生日である。相変わらず散歩は大好きだが、このところ大分ボケが進み、もう神栖には連れてこられない状態であり、家内が千葉で老犬介護をしていて、従って私は老体に鞭打って神栖に単身赴任、自炊生活をしている。今朝などはご飯、油揚げと大根の千切りの味噌汁、納豆、漬物、干物の鯵という健康食であった。
 とはいえ年をとると免疫力が低下し、ストレスに対する耐久力も低下するのを最近実感している。今日も、かつての弟子が開業することになったからとの事で挨拶に来られ、大変ショックを受け、がっくりきてしまった。長いこと大学で教授をしていて、がっかりさせられる事は多々あったが、その中でも折角育てた中堅医師が開業してしまう事は、特に全身から力が抜けてしまい、何とも寂しい感じがした。一言で言えば小松秀樹氏が言った「立ち去り型サボタージュ」である。ある程度の知識も備わり、手術もこなせる様になった時に、ふと立ち止まり、このままでよいのかな、と考えると、家には小学生か中学生のお子さんがいて、彼らを育てていかなければならないと考えた時、選択肢の中に開業が浮かんできてしまうのは仕方のない事なのかもしれない。霞が関でも若き有能な官僚の中で、公務員を辞め、自分で会社を興したり、head huntingにあったりすることが頻繁になっているようであり、国策の間違いが全ての根幹にあるように思う。
 かくいう私自身、大学で講師をしていた頃、夜中の1時頃に教授室にお伺いし、恩師井上教授に「開業したいがお許しいただけますか」と聞いた事がある。その時は私自身このまま10年以上大学にいた方が良いのかどうか迷っていただけであり、強く開業を希望していた訳でもなかったので、井上教授からお許しが出なかった事を幸いにそのまま大学に残させて頂いた。
 出来上がった中堅医師が開業してしまうのは、今の日本での勤務医の待遇では、それが不満の場合はどうしようもない。教授現職中に「この女性と結婚する」というのと「家を新築する」というのと「開業する」というのはカップルの中で夢が膨らんでしまっており、何としても止められなかった。整形外科医のように最終的には手術をして治すという手段を放棄して保存的治療だけをする医師になるのだから、国家的には大変な損失であり、その結果が地方での医療崩壊に直結している。ただ現在の診療報酬支払制度では、経済的には勤務医より開業医の方が圧倒的に有利で、一般的には開業医の所得税ぐらいを勤務医がbefore Taxの年収として得る事が出来れば上出来の状態である。
 元々日本では第2次世界大戦終了時まで医療費はタダだった。その為、江戸時代から全国の名医といわれた人達は死んで大きな借財を残したようである。あの花岡青洲が結婚直後に京都へ国内留学していた時は、お父さんが開業していたにも拘わらず、お母さんとお嫁さんは機織の内職をして家計を支えていたといういう有名な話がある。日本人の医師の血の中にそのような志が残ってくれていればと願っているが、終戦後アメリカ軍の指導で国民皆保険となり、出来高払いだったこともあり、開業医はそれなりに裕福になってしまった。勤務医を辞め、全てを自分の責任でやる開業医なのだから、それなりの収入があってもそれは納得のいく話である。しかし、開業医は戦後に、その経済力を背景に医療制度をさらに開業医有利に導き、その結果が現在の「立ち去り型サボタージュ」となってしまった。「医は仁なり」などという言葉はもう死語なのではないだろうか。勤務医にも家族もあり、老後の生活もあるので、開業と決めたことは非難出来無い。鹿島労災病院も今春医師が2名減り、間もなくもう1名退職する。今後当院がどうなるかは全く判らない。
 ただ、整形外科医として一生懸命勉強し、それなりの手術も出来るようになった中堅医師が開業すると、患者さんの治療方針を正しく決めることが出来るという点において、素晴らしい面もある。ろくろく勉強をしなかった教室員が開業すると、診断も治療方針もいい加減で困ったものだと思うのと大きな違いである。今日、わざわざ鹿島労災病院まで開業の挨拶に来てくれたS君はもちろん前者であり、今後のご健勝、ご健闘を祈るばかりである。


22_02
Hot Dog」


 コロは、最近、散歩は喜んでするのですが、その後に餌を食べ、後はずっと、多分一日22時間ぐらい寝ています。寒い日はストーブの前で横になっており、我が家では、この状態をHot Dogと呼んでいます。


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名誉教授の独り言 (42) 禁酒
2010年 4月 5日

 ご存知の方も多いと思いますが、私は千葉県の片田舎の造り酒屋の3男坊です。母親は非常に酒が強かったのですが、父親は猪口2杯も飲めば真っ赤になり、寝てしまうような下戸でした。私は1年浪人し大学に入学、5月に20歳となり、お酒解禁となりましたが、それまでは父親から法律で酒は20歳になる迄、飲んではいけないと決められているので禁酒と強く言われていました。はじめはビールコップ1杯で真っ赤になり、頭ががんがん痛くなってしまいました。しかし、いつの間にか少しずつ強くなってしまい、夜、酒を飲まないと眠れなくなってしまいました。この辺は父親には似なかったのかも知れませんが、父親と兄2人が糖尿病であったこともあり、自分も糖尿病になってしまうのではないかと心配になり、10年ぐらい前に糖負荷試験を受けたりしたのですが、全く正常で、「絶対大丈夫です」と当時の内科教授に言われ、以後、安心して飲んだり食べたりしていました。千葉大学在職中にも毎年健康診断を受けていて、一回だけ尿糖(+)になり、再検で(−)だったので、自分は糖尿病にはならないと信じていました。
 鹿島労災病院に就職した年の6月に健康診断を受け、糖尿病と診断され、以後、食事療法と運動療法を行い、かなり改善しました。その後、胃癌の手術を受けて胃が1/4になったのに、糖尿病の検査であるHbA1cは少しずつ悪くなってきました。特にそれまで6.1%前後(5.8%以上が糖尿病)だったHbA1cの値が3月の検査では6.6%になってしまいました。家内からはこのところ家にあるアルコールの減る量が非常に多い、となじられていました。何故そんなにアルコールを飲んでしまったかと言うと、いろいろ原因はあるのですが、最も大きいのは労災病院について本部で年に一度やる「病院協議」ではなかったかと思っています。どんなやり方をしても、鹿島労災病院の様なところは最終的には赤字になってしまうのが、現在の診療報酬支払制度です。一部の医師は危機感を持ち頑張ってくれているのですが、一部の医師はのほほんとしていて、病院の経営などは全く考えていないとしか思えません。それならそれで良いのですが、自分達の将来像をどう描いているのか理解に苦しみます。そのような事を踏まえ、病院協議でどう言うか、アルコールを飲みながら考えていました。
 でも、最近、もうそんな事を心配しないと決めました。病院はなるようにしかならないと考え、余計な努力や心配はしない事として、自分の健康の為にアルコールをしばらく止めて、自分のHbA1cを良くする事に専念する事としました。禁酒7日間、その間出来るだけ歩き、少しジョギングしてHbA1cは6.6%から5.8%に下がりました。でもこの1週間には新高輪グランドプリンスホテルでの整形外科セミナー企画会議後の豪華中華料理フルコース、千葉県整形外科医会の講師をして下さった神戸大学黒坂教授との寿司屋での宴会、横審の後の高級料亭での懇親会、これらを全てウーロン茶で過ごしました。もちろん院長宿舎や自宅で過ごした夕食時もウーロン茶だけでした。
 夕食後にTVを見ている時は良いのですが、本を読んだり、書き物をしたりしていると何とも手持無沙汰で、つい、水割りなどがほしくなってしまいます。そこを我慢し、大変無理して禁酒を続けています。でも、禁酒して、翌朝から大変体調が良いのに、初めて気付きました。酒がこんなに悪さをしているとは知りませんでした。
 今後は死ぬまで禁酒というわけにはいかないので、先ず1ヵ月だけ禁酒し、結果を見る事としました。次回検査してHbA1cが5.7%(正常値の上限)以下だったら、御褒美として糖尿病の治療の為に続けているゴルフのクラブをセット毎全て新しいのに買い替える事とお酒を少し再開する予定です。
 私は何と言っても造り酒屋の3男坊で、親の遺言で酒は止められませんので。後、3週間頑張ってみます。


 

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