守屋秀繁名誉教授の独り言
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名誉教授の独り言 (23) ご迷惑をお掛けしました。
2009年 6月22日

 6月1日に病院へ来てPCに向かい、インターネットを開こうとしたらどうしても開けません。PCの具合が悪いのかと思い、いつもPCのお手伝いをしてくれている事務の人に尋ねると、「明日、銚子コンピューターの社員が来るから見てもらったら」ということでしたので、そうしようかとも思ったのですが、念の為、千葉大学の「総合メディア基盤センター」へ電話で問い合わせました。そうしたところ「継続を希望する人には継続手続きをしてもらったのに、貴方はしなかったので、削除しました」との返事でした。そんな知らせを貰った記憶はないので「名誉教授は終身、大学のメールアドレスを使えると言われていたので、何もしませんでしたし、貴方は名誉教授が終身、大学のメールアドレスを使えるという事を知っていますか?」と言いましたら、「そんな事は知りません」
 「では、どんなメールを出したのか、私の別のメールアドレスに、もう一度メールを下さい」とお願いしましたら、

 「こちらは、千葉大学総合メディア基盤センターです。
 統合メールシステムのご利用、ありがとうございます。
 非常勤教職員、非正規学生等の方々の在職、在籍状況を確認し、メールシステム利用者番号の管理をしております。
 平成21年度も引き続き、千葉大学に在職、在籍し、統合メールシステムを利用される方は、継続申請をしてください。
 申請は、下記テンプレートの項目を埋め、
  ▽□×○※◆×@×××.▽□.jp(仮名)までメールで提出ください。」

 というメールを4月14日から5月19日までに4回出したのに全く返事がなかったので、

 「×○▽□※◆×@×××.▽□.jp (仮名、私のメールアドレス)様
 こちらは、千葉大学総合メディア基盤センターです。統合メールシステムのご利用、ありがとうございます。
 現在ご利用のメールアドレス
 ×○▽□※◆×@×××.▽□.jp (仮名)
 を6月1日(月)に削除いたします。
 ご利用ありがとうございました。
 このメールは、非常勤教職員、非正規学生等で申請・登録されている方に送付しています。」

 というメールを送って削除したとの返事でした。
 千葉大学からは現在の私には全く関係ない事柄のメールも良く来ますので、私の思い違いで削除してしまったのかもしれないと思い、懇願して新しいメールアドレスを発行して貰い、その通知を医局から鹿島労災病院に転送して貰い、元のメールアドレスとパスワードに変更し、1週間ぶりにメール使用可能となりました。
 私は千葉大学の非常勤職員ではありませんし、非正規学生でもありません。さらに現在は千葉大学に在職も在籍もしていないので、その旨千葉大学総合メディア基盤センターに言いましたら、彼らは私のことを「非常勤教職員、非正規学生の後の「等」に該当する人だ」との返事でした。
 さらに、「こんな事は毎年やっているのか」と聞きましたら、「そうです、来年も4月か5月にお知らせを出しますので、その時は忘れないで手続きをして下さい」、とのことでしたので、「私は大学を2年と少し前に定年で退職しましたが、昨年は何もしなかったのに、このような仕打ちはされませんでした。それはどうしてですか?」と聞きましたら「……」でした。
 名誉教授なんてどーってことない,とは思っていますが、何となくがっくりきました。しかもそれまでのメールは完全に消去してしまったので復活は絶対に出来ないとのことでした(これはどう考えても嘘だと思います)。
 しかし、現実は大変困りました。
 多分、メールを使えなかった期間にメールを下さった方は、undeliveryになってしまい「どうしたんかいな?」(神戸大学黒坂教授談)と、ご迷惑をおかけした事と思います。済みませんでした。
 内舘牧子女史からも「だからメールって嫌い。手紙よ!やっぱり!」とお叱りのお手紙を頂いてしまいました。
 でも、自分としては千葉大学総合メディア基盤センターの名簿の中の「等」に名誉教授(あるいは私だけ)が入っていなくて、メールをくれなかったのではないかと今でも疑っています。
 千葉大学募金があまり集まらなくて苦慮しているという話(私も今回の苦い経験から、今後、絶対に寄付は出しません)や千葉大学医学部を卒業しても千葉大学医学部付属病院で研修する卒業生が少なくて困っているという話を耳にします。今回のような苦い思いを経験すると、大学としてOBを大切にできていない姿勢、同窓会の一体感の欠如などが影響していると言えなくはないかと思っています。
 私自身は愛すべき母校の名前を横審や各種学会を通して十分に広報活動していると思っておりましたが、

 「老兵は、ただ消えゆくのみ」かな…。


 

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名誉教授の独り言 (22) ギリシャの軍医さんが研修に来院。
2009年 6月15日

 5月の連休明けからギリシャの軍医さんが鹿島労災病院に研修の為に来ています。4月に大阪で行われたISAKOSの名簿をアテネで見て私のメール・アドレスを見つけて自分がアテネで日本語を教えてもらっている先生にメールをして貰ったようです。断る理由は無いのでお引き受けしましたが、その返事の早さに、間に立った先生が大変感激してくれました。自分の若い時の経験で留学希望の依頼状を出してもなかなか返事を貰えず、いらいらした事を思い出し、現在は20数年前とは違い、メールで返事を出せますので、3月初旬に最初のメールを頂いてから、何度かメールを交換し、5月連休明けの来日ですから、その早さに大変感謝されました。病院の敷地内にある単身者用のone room マンションに住んで頂き(院長裁量費で無料)、1日3食は従業員食(これも無料)を食べて頂く事としました。従業員食は何か不満が出るかなと思いましたが、「美味しい」と言って食べてくれています。「本当に大丈夫?」と聞きましたら、ソマリアの避難民キャンプで暮らしたこともあるし、全く問題ない、何でも食べられるが自分が何を食べているのか判らないのが問題かな、とのことでした。
 John Zagas先生(通称ヤニス先生)という45歳、ギリシャ陸軍で中尉ぐらいらしいのですが、英語は全く問題なく通じますし、勉強家ですし、人間的にも体格的にも素晴らしい方です。
 ヤニス先生は、ギリシャで日本語を1年半ぐらい勉強していたそうですが、日本語はまだあまり上手ではありません。出来るだけ日本語で話すようにしているのですが、英語の方が通じるので、つい英語で話してしまいます。ヤニス先生は日本の武道に大変興味があり、剣道、なぎなた、居合抜きの練習をギリシャでやっておられたそうで、こちらに来てからも病院の隣にある中学校で早速、剣道の稽古に参加しているようです。なぎなたも近くに稽古場が見つかったようで、近々、行く予定になっているそうです。そのような方なので先日は病院の大相撲観戦バスツアーで両国国技館へ連れて行きました。大変、物珍しく楽しかったようです。鹿島労災病院が片田舎にあり、東京へ一人で行くとなると大変なのですが、自分で病院近くのバス停から東京へ行き、帰ってくる交通手段を調べ上げ、先週は数日ギリシャから来た友人と東京で過ごしてきたようです。
 本来の目的は関節鏡を勉強したいという事だったのですが、医師免許証の関係で、残念ながら手術の手洗いができず、見学だけしてもらっています。ただ、当院整形外科は関節鏡だけではなく、色々な手術をしているので、それらを見ているだけでも十分に勉強になっているようです。
 毎日、朝8時からのレントゲンmeetingから来て、外来や手術見学、臨床カンファレンス、リハ・カンファレンス、薬の説明会にも出席し、少しでも日本語を上達させようと頑張っています。元々、最初は3カ月滞在と言っていたのですが、3ヶ月で一回帰国し、2週間後ぐらいに、また来て合計6ヶ月近くいることにしたそうです。
 同門会のメンバーでしばらくなら面倒を見ても良いという方がおられたら、お声をかけて頂ければ幸いです。
 このような方と今後もお付き合いができれば、本当の意味の素晴らしい民間外交だと思っています。

22_02
両国国技館のちゃんこ料理屋で。
22_01
正装姿のヤニス先生



 


 

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名誉教授の独り言 (21) 私のターニングポイント
2009年 5月27日

 ある雑誌社から「私のターニングポイント」と題して、何か書いてくれと言われたので、その原稿に少し加筆して、ここに転載します。

 私は、入局時から膝関節外科の専門家になりたいとは思ってもいなかったし、井上教授の助手、講師、助教授としてかなり脊椎外科の手術もしていた。しかし、私が医師になり、整形外科医になり、膝関節の専門家になった過程ではターニングポイントと考えられる機会は幾つかあった。その幾つかのターニングポイントを神様がくれた幸運で自分の人生を良い方に持って行く事が出来たので、他人にはどのように映っているかは判らないが、自分では納得の行く運の良い人生を歩めたのではないかと思っている。
 その幾つかのターニングポイントの内、最初に訪れたターニングポイントは、小学校4年生の時に、母親から「あなたは医者に向いていると思うが親戚縁者に医者は一人もいないので、今日、この本を買ってきたので読んでみなさい」と言われ、野口英世の伝記を渡された。自分は元々千葉県の寒村の小さな造り酒屋の3男坊でそれまでは何となく、将来は酒屋関係の仕事をするのかなー、と思っていたので、大変驚き、その本を2度読み、こんなに世の為、人の為になる仕事があるのなら医者になろうと決めた。
 次に訪れたターニングポイントは村の中学から行ける高校からは医学部には入れない、と母親に言われ、中学3年の5月に千葉市内のお寺の離れを借り、大学生の兄と二人で自炊生活をしながら、千葉市内の中学に通うようになった事である。この頃の生活は、始めて家を離れた寂しさと同級生から方言を揶揄された以外は苦労とは思わなかった。
 次のターニングポイントは、医学部在学中には将来は小児科医になるつもりであったが、東京第一病院(現在の国立国際医療センター戸山病院)でのインターン中に小児科を回ったら、患者はネフローゼで長期入院の子供ばかりだったのに比べ、その後に整形外科を回ったら、インターン生である自分から見ても下手な手術をしているのに、ほとんどの患者さんが良くなって「有難うございました」と言って退院していくので、もうちょっと上手な手術をすれば並みの整形外科医にはなれるだろうと思い、進路を整形外科に決めた事である。
 初期研修が終わり、帰局したものの、これと言ってやる事も無く、悶々としていた時に坂巻皓先生から膝関節外科を専門にしたらと勧められ、丁度その頃、渡辺正毅先生のいた東京逓信病院に千葉大から誰か来てくれないかという要望があり、誰も希望者が無く、先輩に売られた形で行く事になったのも大きなターニングポイントであった。渡辺先生にご指導頂き、東京逓信病院の昔からの資料を毎日終電の時間まで掛かってまとめて学位論文にし、グライル先生に英語を直して貰い、打ち直しの利かないタイプライターで英語論文を書いたのは大変な苦労であった。でも、それは、その後の人生でイギリス留学、鏡視下手術、脛骨高位骨切り術、ACL再建術、人工膝関節置換術へとつながる第一歩であった。
 恩師井上駿一教授が急逝するなどという事は想像だにしなかった事であり、その後任になった事もターニングポイントだったかも知れない。教授時代は闇雲に突っ走って全国規模の学会を10回、地方会は数えられない程、主催した。いま考えると良くやったなーという感じである。
 千葉大で教授を19年やったが、病院長選挙に3度立候補し、全て落選し、学長選挙にも立候補して落選した。どれも立候補した時は当選を目指して頑張ったので落選した時はガックリきた。しかし、今では、落選して良かったと思っている。お陰で今でも現役で手術もしているし、そういう患者さんの中の一人である澤村田ノ助さんのご推薦で横綱審議委員にもさせて頂き、現在、老後の楽しみとしては最高だと思っている。
 自分の人生において、もちろん、その時々で出来るだけの努力をしてきたが、来て欲しいターニングポイントを有効に生かし、来て欲しくないターニングポイントを幸運にも避けることが出来たのは運が良かったとしか言いようがない。若い人には余り参考にならない話かもしれない。


 

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名誉教授の独り言 (20) ISAKOS名誉会員
2009年 4月27日

 4月5日から9日まで大阪国際会議場で第7回ISAKOS (International Society of Arthroscopy, Knee and Orthopedic Sports)が開催されました。会長はイタリア人のPaolo Aglietti先生でしたが病気で来日できずに、Local Chairmanの史野根生教授、安田和則教授、黒坂昌弘教授、越智光夫教授などが中心になって、この学会を企画・運営して下さいました。大変立派な学会で大成功だったと思います。ただ、アメリカにある学会事務局が大勢で出張してきて何やかや口出しをしてきたのが多少迷惑でした。天気も最高に晴天続きで、正に桜の花も何処へ行っても満開で楽しい毎日でした。学会の内容も豊富でACL再建に始り、肩の鏡視下手術、各種スポーツ障害、人工膝関節まで多岐にわたっており、これ以上の素晴らしい学会は今迄経験した事が無いという感じでした。私は開会式で渡辺正毅先生が関節鏡を開発した経緯を話させてもらったのですが、元々ISAKOSはそれまで国際関節鏡学会(IAA)と国際膝学会(ISK)が合併して1995年に出来たものであり、歴史が浅いとは言え、もう関節鏡の出来た頃の話を正確に知っている人は少なく、大変好評で、ISAKOSの事務局はもちろん、AANA(北米関節鏡学会)もfilm libraryに保管したいので、コピーを欲しいと言われ、その他にも何人もの会員にコピーをお願いされました。大変名誉な事と思い、皆様に贈呈しました。
 学会2日目の夕方の会長招宴が太閤園という非常に立派な料亭で行われ、お庭の桜が丁度満開で、外国人参加者も大変感激していました。宴の終わり頃にこれから新しく名誉会員に推薦された人を発表します、ということになり3人目の最後に御指名を頂きました。私としては日本人は、もとより東洋人で初めてですし、会が若いとは言え全世界で9名しかいない名誉会員の仲間入りをさせていただいたので、正に感無量でした。
 1973年の6月に突然井上教授から7月1日から東京逓信病院へ出張するように命ぜられ、何で自分なんだと思いながら、複雑な気持ちで行った事を思い出しました。当時の東京逓信病院は非常に閉鎖的であり、毎日が苦痛の連続でした。それらの事を、後に和歌山医大整形外科教授になられた玉置哲也先生にお話ししましたら、「外国留学と同じだね」と言われた事を良く記憶しています。その後、関節鏡、膝関節外科、スポーツ医学などを始めは一人で、その後何人かの仲間と一緒にコツコツとやってきた事が認められたと思うと本当に感激でした。
 立派な名誉会員盾を頂き、何か話せと言われたので、英語で簡単なspeechをしました。
 「Ladies and gentlemen, thank you very much for nominating me the Honorary Member of ISAKOS. Really it’s my great honor. I learned every things from Prof, Watanabe. At first, he taught me how to stand to do arthroscopy. You have to stand as parallel as patient’s leg. The width of stance should be as wide as shoulder width. Bilateral knees should be slightly flexed. Bilateral shoulders should be relaxed. Then you can start. I followed his teaching whole in my life. Then, I became a good arthroscopist as well as a good golfer. Thank you.」
 この話を左手にマイクを持ち右手で関節鏡を挿入する動作から素振りの動作に変えながらしたら、結構多くの拍手を頂きました。

ISAKOS

 

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名誉教授の独り言 (19) 若き医師達へ
2009年 3月31日

 私は40年以上前に千葉大学医学部を卒業しました。永年勤務していた千葉大を平成19年3月で定年退職し、4月から鹿島労災病院長に就任しました。医師免許証を頂いてから、もう随分と永くなり、大学にいた間にいろいろな事を経験させて貰いましたし、医学部新卒業生を含め新しい職場に行く人が、こういうつもりでやってくれれば良いのにと考えている事を今日は書きます。
 医学部に入学したほとんどの人は医者になります。私は最後のインターン経験者ですが、インターン終了と同時にそのまま開業してしまう人もいました。しかし、現在は卒後研修が義務付けられていますので、卒業後は先ず病院で研修します。病院とは、言うまでもなく患者さんの来る所です。昔、病院がなかった時には患者さんはどうしていたのでしょうか。少しでも頼りになるような人がいればその人の所へ相談に行ったのではないかと思います。医療の世界では、先ず、世の中には病に苦しむ患者さんがいたのです。その患者さんに野の草を煎じて飲ませると病が癒える術を得意とした人が薬剤師の祖先でしょうし、背中を擦って楽にするのに長けていた人が看護師になったのでしょう。化膿して腫れて痛みと熱のあった人の病巣を切開して治した人が外科医になったのではないかと思います。そのような医療専門職の人の集まりが病院の原型ではないかと思います。そうです。病院があるから患者さんが来るのではなく、患者さんがいるから病院が存在するのです。その病院で働く人が全員で患者さんには出来るだけ親切に接しなければならないというのは自明の理です。確かに患者さんの中には怒りたくなるような人もいます。でも、我々は医療職です。出来るだけ笑顔を忘れずに親切に患者さんに接しなければなりません。そして、有難い事に多くの患者さんは診療が終わると「有難うございました」と言って料金を払って下さいます。世の中にお金を払う方が「有難うございます」といってくれる職業はそんなにはありません。そのような面でも医療職というのは大変有難い職業であるという事を忘れずに仕事をして頂きたいと思います。
 病院の業務は多種多様です。お互いに協力し合わないと出来ません。医師、看護師、医療技術者は当然医療職ですが、病院で働いている事務職の人も医療職であると私は考えています。医療職の人が全員で協力し合って仲良くやっていくのが医療です。大学にいた時に周りと上手くいかない教室員が何人もいました。彼らは決まって同僚や上司の悪口を言いました。そして次の病院に移動すると、また同じような問題を起こしました。問題は職場にあるのではなく、その人について回るのです。少しばかり学校の成績が良かっただけで医者になれただけであり、医者といえども特別な人間ではありません。周りの人たちに気を使い、仲良くやれなければ医者失格です。
 世の中にはごく稀に「天職」とも言える程その人にあった仕事の内容や仕事の場所に巡り合える人もいるかと思いますが、ほとんどの人は「自分に合った仕事をする」ではなく、「仕事に自分を合わせていく」のです。その際、先輩に教えて貰う事も大切ですが、教えてもらった事は自分の身にはなりにくいものです。自分で努力して勉強する事です。現在はインターネットもありますし、参考書も沢山あります。自分で調べて勉強する事が一番大切です。
 そして常に目的意識と向上心を持って日々の仕事をやり遂げることです。そうすれば満足のいく人生を送れるのではないかと思います。
 Yes, you can.


 

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