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5月の誕生日が来ると69歳になると、以前にも書きましたが、そろそろ身辺の整理、人生の軽量化を計ろうかと考えています。胃癌から命拾いをさせて頂いたものの、いつ再発や転移があるか判りませんし、68歳の男性の平均余命は15年ぐらいのようですが、胃癌もやっていますし、平均寿命からいっても、あと10年もすれば自然にお迎えが来るでしょうから、そのころ慌てて色々と整理するのは大変だろうと思い、そろそろやるべきことを始めようかと思った次第です。
現在の私の最も楽しい重要なことは横綱審議委員(横審)です。3月場所後に内舘牧子女史と石橋義夫先生の後任の2名の委員が委嘱されるようですが、その2名の方を入れても横審は日本中に12名しかいません。委員のほとんどの方はその界の第一人者であり、話を聞くだけで色々と勉強になりますし、楽しいです。横審の任期は一期2年、5期までとなっており、私は後7年ありますが、生きていて周りにご迷惑を掛けないようでしたら、これだけは任期満了まで務めたいと思っています。相撲関係では日本相撲協会のアンチドーピング委員も務めていますが、力士のドーピングチェックをそろそろ始めなければならないと考えています。大麻騒動は一段落しましたが、それ以外の本当のドーピングのチェックは全く手付かずです。副委員長だった大西祥平先生が病で先日亡くなってしまい、大きな痛手ですが出来るだけ早期に後任を御指名頂き、他のプロスポーツと同様にアンチドーピング委員会を機能させなければと考えており、先日の横審でもその点をお願いしました。
その他に幾つかの役職を仰せつかっていますが、千葉県内の色々な研究会は既に後任の高橋教授を始め何人かの方に会長をお願いしましたが、千葉県整形外科医会長だけ残ってしまいました。これも先日の運営委員会で小林英夫先生に交代してもらう事が決まったので、一安心しました。これからは気の向いた時だけ出席させて頂きます。
千葉県体育協会の理事と医事科学研究委員会長は、そろそろ若い人たちと世代交代のように思い、今年の千葉国体が終わったら辞めさせてもらうと宣言しています。
日本柔道整復接骨医学会長はこの秋で1期2年が済み、そこで退任させて頂きたいのですが、前任の信原克哉先生が2期4年お勤めになられたという事ですので、もう1期は勤めなければならないかも知れないと思っています。日本柔道整復接骨医学会長は(土)、(日)に何かと仕事が多く、多少負担を感じていますので、それ以上は絶対に引き受けません。
その他に整形外科関係の放送とDVD制作の企画委員も仰せつかっていますが、教授退職後はアンテナが低くなり、なかなか良いアイディアが浮かばなくなっており、退任を申し込んでありますので、近々辞めることが出来るでしょう。
日本ゴルフツアー機構の医事委員長は男子プロゴルファーのドーピンングチェックをすることが主な仕事なのですが、任期も決められていませんし、やっていて楽しいこともありますので、もう少し勤めようかと思っています。
鹿島労災病院は、どうやっても現在の地理的条件と診療報酬支払制度では黒字に出来ない運命にあるように思いますので、鹿島労災病院長は楽しい仕事ではありません。ただ、鹿島労災病院長を務めるという事は初代病院長の坂巻皓先生との約束ですし、職員300数十名とその家族の命運がかかっていますので、途中で投げ出すことは出来ません。あまり気張らずに粛々と後2年、任期満了までは務めるつもりです。このところコロの具合が悪く、家内が老犬介護で千葉の自宅を離れられないので、私は単身赴任になっていますが、それとて週に2〜3日宿舎に泊まるだけです。一人だけというのは大変寂しいですし、不便ですが、あと2年なら、宿舎での食事は一汁一飯一菜程度の簡単な食事で今も済ませており、これなら糖尿病にも良いし、何とか持つような気がしています。「その後は千葉に帰ります」、と今から周りには宣言していますので、2年たったら辞められると思っています。
こうしてみると、後2年鹿島労災病院長を勤めると、そのころは 横審と日本ゴルフツアー機構医事委員長という役職以外は肩書が無くなり、大変気楽な人生になりそうで何だか楽しくなってきました。共にほとんど道楽のような役職ですが、老人はどれだけ報酬を頂かない仕事をしているかが、その人の価値を決めると思っていますので、こうなることは正に本望です。漢の張良の言った「功遂げ身退くは、天の道なり」です。
2年後からはゴルフを多少余計やるようにはなると思いますが、一生懸命やろうなどとは考えていません。何をするか、ある程度は考えているのですが、まだ公表する段階でもないのでとりあえずは現在模索中という事にしておきます。
3月4日に鹿島労災病院の総元締めの「勤労者健康福祉機構」の平成21年度の「赤字ですみませんでした(と言っても1億円以下ですが)」と22年度は自分達で稼いだ金で「この様なことをしたいのですが宜しいですか?」という「病院協議」という会議が、川崎の本部で行われました。鹿島労災病院は私が着任する前に初代坂巻皓院長が稼いでくれていたお金がかなり残っていたので、独立法人になって国から運営費交付金を一銭も頂かなくなってからも、赤字補填にそれを使わせて頂き、まだ全体としては赤字までは行っていませんが、現場からの必要にせまられたり、将来を見据えての設備投資をした結果、ここ数年赤字続きでした。22年度の要求に対しては、結果としては、主なものとしてはコンピューターでのオーダリングシステムの改修とレントゲンフィルムを使わないでモニターでレントゲン写真を見るシステムの採用は来年の3月からの運用で認められました。という事は今年の経費は0です。ガンマカメラは不承認でした。その他は認められ、こんなものかと諦めました。
会議の日の夕方の理事長、担当理事との夕食会は出たくなかったのですが、鹿島労災病院の職員320名と、その家族の生活を考えると、ここでゴマをすらないと、と思い、不承不承出席しKYに注意しながら2時間を過ごしました。何を食べたかは全く覚えていませんし、美味しかったという記憶もありません。鹿島労災病院に課せられた来年度の課題は1にも2にも収支改善です。しかし、30年前の建設時に元々は鹿島市に造りたかった病院を、地元医師会の反対で神栖市に追いやられ、さらに旧波崎町(現在は合併して神栖市の端っこ)の松林だけあり、人が住むところではないといわれていた砂漠みたいなところの真ん中に建てさせられ、小児科と産婦人科の併設も反対され、いまだに人口密度は神栖市が650人と川崎の約1万人と比べ極端に少ない所に存在しています。病院は医師と看護師が集まらない限り、医療は出来無いのは当然ですが、こんな田舎では希望者はそうはいません。私が病院長として着任する前の医師数は29名でしたが、現在は42名まで増やすことが出来ました。しかし、これも今年は3名位減る見込みです。診療そのものには大きな支障は無いと思いますが、これ以上患者さんを増やし、収支がプラスになる病院にすることは至難の業です。
神栖市は良いところです。太平洋と利根川に挟まれていて、少し湿度は高いですが、東京や千葉と比べ、夏は2℃位涼しく、冬は2℃位温かいところですし、空気は綺麗です。そのせいか都会の老夫婦が余生を過ごすために移り住んでくる人も結構いるような所です。しかし、事業をして、それを黒字にすることは中々難しい所のようです。そのような中で鹿島労災病院も直ぐにではありませんが、数年後には存続を論じ始めるようになるのではないかと思っています。結果として、何年後かは判りませんが、鹿島労災病院を始めとして、全国の田舎から病院は消え、環境の良いところに気分良く住みたいのなら、医療設備は近くにはありませんよ、というような日本になるように思います。
現在、鹿島労災病院は労災病院と名乗っていますが労災患者さんは全体の3%前後であり、これは全国的な労災病院の傾向です。残りの97%は地域医療です。従って地元の鹿島労災病院に対する期待は非常に大きなものがあります。私は病院長として、無駄は省きながら、出来るだけ良質な医療を患者さんに提供してくれるように職員にはお願いしています。その結果として赤字になってしまったら責任を取り、先日の病院協議でも「誠にもうしわけございませんでした」とお詫びしてきた様に、来年もお詫びしようと思っていますが、その位は我慢できますので、御安心下さい。
病院の使命はあくまでも患者さんに最良の医療を提供することです。その為に、特別な事の無い限り、残り2年間、努力をするつもりです、かな?
自分でも驚きですが、5月に誕生日が来ると69歳です。最近、客観的には相当にボケている事を自覚させられる事をしてしまいました。最近、しなければと思ったことを、一寸時間をおくと、忘れてしまう事がしばしばあり、家内と思い付いたことは思い付いた時にする、という事を心がけようと日頃話あっていたのに、とんだ失敗をしてしまいました。
そもそも2月23日には夕方に病院で「パス大会」があり、病院長として出席するように言われていましたが、翌日は11時から東京で用事があり、その日の内に千葉に帰りたいと思っていました。「パス大会」開始の前に1時間ぐらい空いていたので、一度病院長宿舎に戻って、千葉の自宅に持って帰る洗濯物などを取ってこようと思い、通勤用の軽自動車で宿舎に帰りました。ついでに冷蔵庫をのぞいたら、生卵が2ケあり、それをゆで卵にして病院に持って帰ろうと思い、ガスに火を付けました。その後、部屋の片付けなどをしていたらガスに火を付けたことをすっかり忘れ、軽自動車で病院に帰って来てしまいました。
「パス大会」も終わり、病院の運転手さんに千葉の自宅まで送ってもらい、自宅の冷蔵庫の前に立った時に、不意にガスに火を付けたまま帰って来てしまった事を思い出しました。もしかしてガスの元栓を閉めて出て来たかもと思ったのですが、直ぐにマンションの大家さんに電話したら差しあたって火事にはなって無いという事が判りましたが、合鍵を持っている総務課長の携帯に電話し、見に行ってくれるようにお願いしました。しばらくして総務課長から「真っ黒の卵が2ヶとそれが入っている鍋が真っ黒になっています。その他は何にも起こっていません。台所のガスの元栓はしまっていません。」との電話がありました。それまで千葉の自宅に帰ってから1時間ぐらい一切飲み食いせずに待っていたので、取り敢えず「ガスの元栓を閉めて下さい」とお願いし、その後にどっと疲れが出ました。現在はガスが付けっぱなしになっていると自動的にガスが止まるような大変有り難い設備が付いているようです。その安全装置に救われたようです。キムタクがTVのコマーシャルで手術中に突然自宅のガスの火を消してきたかどうか気になり、自宅に帰るのと同じ経験をしてしまいました。多くの人に迷惑をかけてしまいましたが、結果として大事に至らなくて本当にホッとしました。
それにしても自分の年とボケ具合を再認識しました。ゴルフに行く時にゴルフシューズを忘れたり、パターを忘れたりすることさえあります。私のゴルフ仲間にはゴルフ場に着いたらクラブを1本も持ってきていないというのに気付いた、と言う人もいますが、それほどでは無いまでも、ラウンド後に風呂に入っていざ着ようと思ったらパンツが無かったり、靴下が入っていなかったり、全て自分で用意しますので、家内のせいにするわけにもいかず、ラウンド中に履いていたパンツを履く気にもなれず、パンツなしのズボン下だけで下着は済ましたり、石田純一張りに靴下なしで靴を履いて帰ってしたりすることもしばしばあります。学会に行くと常備薬を忘れたり、Hair liquidを忘れたり、などはしょっちゅうです。自覚的にはまだまだ若い整形外科医に指導する事が多々あると思っていますし、実際に指導出来ることも色々とあるのですが、そういう中で、もう自分がかつて出来たことが、今では出来るとは思わないようにしてはいましたが、そろそろ限界かと思っています。
それにしてもあのマンション1棟を燃やしてしまったら、一体いくら弁償したら良いのかと考えるとぞっとします。
私が横綱審議委員を仰せつかったのは千葉大学を定年退職する直前の平成19年1月25日でした。日本人でなりたいけどなかなかなれない仕事が3つあり、そのうちの一つはアメリカ大統領(アメリカ国籍が無いとなれない)、二つ目はアメリカの原子力潜水艦の艦長(原子力爆弾を搭載しており、発射のスイッチを持っている)で、三つ目は横綱審議委員(横審)だというのを何処かで読んだことがあり、まさか自分にこんな名誉な役職が回ってくるとは思っていなかったので、大変嬉しく思いました。自分が横綱審議委員になるまでは横審は稽古総見を見て、横綱推挙の答申があった時に、それを承認するだけの仕事しかないのかと思っていましたが、幸か不幸か朝青龍が色々と問題を起こしてくれたので、整形外科医としてそれなりの存在価値を示すことが出来ました。
まずはじめは、横審になった平成19年の7月に例のサッカー騒動で、「朝青龍は肘が痛い、腰が痛いと言っているが、整形外科医としてどう考えるか」、という事を横審で聞かれました。確かに朝青龍はその1〜2年前に相手を押し出した勢いでそのまま砂かぶりに突っ込んでしまい、左肘の内側側副靱帯を損傷した事があり、相撲医学研究会でその時のストレスレントゲン写真を見たことがあるので、その話を入れ、腰は分離症であると確認してあったので、それらを総合して話し、「力士ならその位の痛みはほとんどの人が有しており、それを我慢して相撲を取っているのではないか」、と答えました。結局、当時の北の湖理事長は2場所の出場停止という裁定を下しましたが、それ以後も厳重注意が何度か繰り返されました。
現在の鶴田卓彦委員長は1月25日の定例の横審の前に控え室で集まった時には、今回の暴力事件については「困ったもんだ」位にしか考えていなかったようで、結局、横綱審議委員会で内舘牧子女史が「日本相撲協会はどうするんですか?」という質問に、理事長から「朝青龍と高砂親方を呼んで厳重注意しました」という回答で、一応委員会はおさまったのですが、一部の委員からは「手ぬるいのでは…」という感想も聞かれました。さらに「横審は本来の役目として朝青龍に引退勧告を出しても良いのではないか」と言っている委員もいました。そして、その後に暴力事件の全容が色々と報じられるようになり、今までなら「親方が悪い」とか、「朝青龍は日本文化を理解していない」とか、各々の委員がぶつぶつ勝手に言っているだけだったのに、その後の鶴田卓彦委員長の動きは新聞記者上がりだっただけあり、非常に素早く、今回の暴力事件について色々と調べ上げた結果、2月4日に臨時の横綱審議委員会を開催する事を決め、同日行われる新理事による第1回の理事会の前に理事長に「横審は引退勧告を出すので、それを踏まえて理事会で審議して下さい」と申し入れたようです。朝青龍はその理事会に呼び出された時も「精々出場停止ぐらいだろう」と思っていたようですが、最終的には引退を表明せざるを得ない事になったようです。
朝青龍は本当に強い力士でした。本場所はもちろんですが、稽古総見などでも、2日酔いで来た日以外は、他の力士と比べて動きは抜群に早いし、力持ちだし、勝負カンも優れていました。アスリートとしては抜群だったと今でも思っています。しかし、残念ながらほとんどの日本人が愛している相撲という文化を理解してくれませんでした。強ければ何をやっても許される、と考えていたのかもしれません。
朝青龍が居なくなったら相撲人気はどうなるのか心配している人も多いようですが、これを契機に強い日本人力士が出現し、さらに人気が出てくるような気がします。というよりそうなってほしいと願っています。横審の任期は10年で、私は、まだ3年しか経験していないので、もう2年鹿島労災病院長をして、その後の5年間は東京場所には毎日でも見に行こうかと思っているので、現役力士の皆さんには頑張ってほしいと期待しています。
2年前に人間ドックで偶然にも胃癌を見つけて頂き、手術にて大変元気になることが出来た私が言うのは、誠におこがましいが、医者の不養生はまだまだ多い。先日も同門会員の西能病院理事長西能ю謳カが脳幹部梗塞で急逝され、葬儀に富山まで行ってきた。彼の信条は365日診療であり、(土)、(日)も無く、毎日診療をしていたようである。以前から心房細動があったのに、しかるべき治療を受けていなかったとかで、誠に残念に思っている。66歳という若さでの死は余りにも早いと感じ、netで医者の平均寿命を調べてみたら日本人の平均寿命と同じというのと、10歳短いというのがあった。どちらにしろ医学知識はあっても平均より長くは生きないようである。ちなみにお坊さんは95歳だそうで、生きている人を扱うストレスと死んだ人の供養をするストレス(?)とはそんなに違うものかと変な感心をした。そう言えば基礎の教授は臨床の教授より長生きのような気がする。
千葉大学整形外科は初代教授の鈴木次郎先生は56歳で東京駅にて心筋梗塞で急逝、2代目教授の井上駿一先生は57歳で肝細胞癌により1ヶ月半の入院治療の後、御他界された。私も教授を拝命した時に早死ではないかと言われたが、しぶとく定年まで勤めたとはいえ、定年直後に偶然にも胃癌を発見して頂き助かったものの、もう半年検査を受けなければ今頃三回忌だったのではないかと思う。教授もストレスが多いが、有床で開業している医師も確かに多忙とストレスで平均寿命まで生きられない人が多いような気がする。盟友だった鈴木弘先生も50代後半に脳出血で他界した。彼がしかるべき治療を受けていたのかどうかは定かではないが、ストレスの多い日常だった事は容易に推測出来た。
医師が早死する原因は色々あるだろうが、ストレスからくる高血圧、心疾患それらに付随した脳出血や脳梗塞、心筋梗塞などが多い。次いで、忙しいことを理由に定期検査を受けずに、見つかった時は手遅れの胃癌、大腸癌が多い。そういえばあの人はこれだったと思い付く人も多いのではないだろうか。
医者はもっと自分の健康に注意を払うべきである。大学に勤務していた頃の、一年に一度の定期健康診断では、進行期の肺癌、かなり進んだ糖尿病、メタボなどしか発見されないという事が良く分かった。50歳を過ぎたら定期健康診断の他に、人間ドックなどで胃カメラは1年に一度、大腸のファイバースコーピーは3年に一度は受けるべきである。女性医師は乳癌と子宮癌の検診が必要であろう。特殊な疾患は一通りの検査を受けても発見されず、見つかった時は手遅れ、という事もある。それは宿命として諦めるより仕方無い事かも知れないが、現在の医学の進歩は目覚ましいものがあり、22年前に御他界した井上駿一教授も今の治療を受けられればもっと延命できたのではないかと思う。
これだけ進歩した医療現場にいる身として、少なくとも定期的に受けるべき検査を受け、しかるべき治療を受けていれば医者の早死はもっともっと減るだろう。内視鏡で簡単に判る胃癌や大腸癌、高血圧による脳出血、動脈硬化症による心筋梗塞、不整脈による脳梗塞、糖尿病の合併症、女性医師の場合は乳癌,子宮癌などなど、早期発見、早期治療なら現在の医学では100%近く治る病気で死んだら医者として恥ずかしいと思わなければならないのではないだろうか。
「医者の不養生」という言葉が死語になる日を待っている。
新年明けましておめでとうございます。
世の中は何となく不景気のようですが、病院も全く同じ状態です。その一因として、先の衆議員選挙で民主党が「後期高齢者医療制度は悪い!悪い!」と言った影響かと思いますが、当院でも老人の患者さんが受診控えをしている傾向があるようです。現在、日本には労災病院は32ありますが、都市部にあり個室料金をそれなりに頂ける病院だけが、その個室料金分だけ黒字になっています。当然のこととして当院のような田舎にある病院は個室料金が高いと利用して頂けませんし、結果としてどんなに努力しても黒字にはなりません。
さて、地方での医師不足が叫ばれ出してから久しくなります。その結果として廃院に追い込まれた病院や、いくつかの診療科を廃止した病院も多いようです。当院でも開院当時は複数の医師のいた泌尿器科や耳鼻科が常勤医はゼロになり、非常勤医で何とかやっている状態であり、今やこの2つの科は入院患者も手術も0の状態です。眼科もかつては2名常勤医がいましたが、ここ数年独りになってしまっており、そのただ一人となった常勤医も今年の上半期で退職予定であり、その後は千葉大学から非常勤医を週2〜3回出してもらいやり繰りすることになりそうです。このようなことは全国的であり、廃院や廃科になったところから大学に戻った医師はマスコミが言う程は多く無く、大学も医師不足で困っているのが現状のようです。彼らは一体何処へ消えてしまったのでしょうか。確かにある種の病院にはそれなりの数の医師が集まっていますが、それだけで日本全体が医師不足になるほどの数ではありません。では、何処へ行ったのでしょうか。
年の初めに年賀状を数多く頂き、勤務医を辞め開業医になっている人が依然として多いのに改めて驚かされました。確かに現在の日本の税制では開業医の方がまだ経済的には恵まれているようですが、開業医となれば何から何まで一人でやらなければならないので、多少のmeritはあっても良いのではないかとは思うものの、まだメスを持ちバリバリと手術も出来る年齢なのに開業し、現役引退後でも出来そうな仕事をやる気持が理解できません。ほとんど保存的治療しかしない開業医でも、それはそれで医療の一つの形として社会貢献していることは十分に認めますが、たとえば自分が整形外科医になった動機を考えると、本当に自分で納得のいく医療をしていると言えるのでしょうか。
しかも患者さんはそのような開業医に通院してくれれば良いのですが、多くの患者さんが病院に来たがります。高額診断機器を取り揃え、必要なら手術を含めた治療をしてくれる病院の方が信用できるので安心なのでしょう。しかし、病院の方は医師の数が減った上に、外来患者さんの数が増えてしまうとただ忙しいだけで、入院患者さんの診察や検査、手術も十分に出来ない状態になってしまいます。病院での労働力は、ほぼ半分は外来に費やされており、残りの半分で入院中の患者さんの診察、検査や手術をしているのが現状です。人手の足りなくなった病院ではもっと入院患者さんに手をかけたいと思っていますが、なかなか、そうはいきません。
本部の理事さん達はもっと医師を増やせと簡単に言ってきますが、そう簡単にはいきません。以前のように大学に頼めば何とかなるという時代ではありませんし、webで医師を紹介してくる人材派遣業会社もありますが、止むに止まれず採用し、紹介料として医師の年俸の2〜3割の料金を取られ、挙句の果てに他の医師やcomedicalと上手くいかず、1年前後で辞められてしまった、という話は数多く耳にします。私としては絶対にそんな医師には来てほしいとは思いません。現在の診療報酬制度では、どうやっても赤字決済になるのは仕方のない事で、そんなフリーター医師などは雇わず、余計な苦労をしないで過ごしたいと思っています。
という事で今年も色々と迷いながら、病院運営をしていくつもりです。皆様の温かいご支援をお願い申し上げます。
12月に入り寒い日が続いています。そろそろパジャマも冬用に変えようかと思い、着たのが2年前、術後に着たパジャマでした。2年経ってどうしてあの時はあんなに冷静に対応出来たか今では不思議な感じです。
私が鹿島労災病院に赴任したのは2007年4月でした。着任間近に経鼻の胃カメラが当院には無いので買ってくれと言われ、院長裁量経費で直ぐに買いました。その年の12月5日にそろそろ使い方も慣れたろうと思い、同時に「当院ではどんな人間ドックをしているのか、何か不具合は無いか」という事を病院長として知っておくべきではないかと思い、検査をしてもらったら、不具合な所があったのは自分の胃でした。検査中にチョツと異常な所がありますが生検をしておきますか、と言われたので「やっておいて」と言って一部とって貰いました。翌週に自分で病理検査室に行き標本を見たら全て腺構造をしていたので、「アー正常だ」と勝手に診断し、病理部長に「正常だよね」と電話したら、「それが全部胃癌なんです」と言われてしまいました。では手術をして貰わねばと思い、副院長で外科部長の徳元先生にお願いしたら、「何処か外でやって貰ったら良いのではないですか」と言われてしまいました。改めて国立がんセンターのホームページを見たら、新患希望者はこの番号にFAXして下さい、後日来院してもらう日をFAXでお知らせします、という事が書いてありました。そんなのは心の通った医療とは言い難いと思い、当院で日常業務として胃切除は何の苦もなくしている徳元先生に、改めて「やりづらいだろうけど、お願いします」と言って手術予定を組んでもらいました。手術まで10日間ありましたが、その間に自分がする手術が8例予定されていました。自分の胃カメラ、大腸カメラ、造影CTその他、術前検査を受けながら7例の手術を済ませましたが、一人だけはどうしても時間が取れなく、事情を説明して来年2月にしますからという事でご了承頂き(ちゃんと2月に手術しました)、入院しました。翌日に手術をして貰い麻酔から目が覚めての第一声は「serosa(胃の外壁)を破ってなかったか?」でした。幸いにして破ってなかったようで一安心しました。術後は小鳥の餌のような術後食を頂いていたのですが、術後10日目に突然通過障害になってしまい、それからが大変でした。9日間絶食・絶水で、最も癪にさわったのは「食事の準備が出来ました。」というアナウンスでした。
その後、胃カメラで通りを良くして貰い、以後は全く支障無く、元気に過す事が出来ました。術後2年間は抗癌剤を飲むように言われ、ちゃんと飲んでいました(いたつもりでした。でも、もう止めても良いです、と言われた時にどうゆう訳か判りませんが、お薬は一か月分ぐらい残っていました。)術後2年の人間ドックで胃カメラ、大腸カメラ、造影CT,血液検査、脳ドックを含めた所検査でHbA1cが6.1以外は全く正常でした。取り敢えず、再発や転移は無いという事で一安心しました。さし当たって、癌を克服した身で考えるのは、治癒の為には気力も大切なのでは無いか、という事です。術後一度も再発や転移の事は考えなかったし、この後、何をしようかとだけ考えていました。
抗癌剤を止めたらその2日後の本袖での「守屋杯」で42,44で準優勝でした。これは抗癌剤を止めて飛距離が伸びたせいか、精神的に楽になったせいかも知れません。でも、体力が回復してくると共に9番アイアンがどのくらい飛ぶのか判らないという副作用もありました。それも時間と共に判るようになり、そこそこのスコアーで回れるようになりました。
病院長として病院の会計も気にはなりますが、現在の医療制度で、鹿島のようなところにある病院が良心的な医療をしていたら黒字になる制度ではありません。来年も採算は度外視して患者さんに最良の医療を提供するようにしていこうと思っています。
皆様、どうぞ良い年をお迎え下さい。
プロゴルファーの石川遼選手が最年少記録を更新して本年度の賞金王になった。大変喜ばしいことである。プロ野球では田中マー君が楽天イーグルスで大活躍して彼の年俸も大幅upのことと思う。
そのような中、大相撲福岡場所は白鵬がずば抜けた強さで全勝優勝し、幕を閉じた。多くの日本人は相撲が好きであることは事実であるが、その結果として4回大入り満員御礼が出たとは言え、テレビ中継を見ている限り場内はガラガラだった。福岡場所が行われた福岡国際センターが砂かぶり席もマス席も一番広くて見やすいそうだが、それでもガラガラだった。横綱審議委員会でもその点が話題になり、理事長以下、親方理事連中は営業努力が足りなかったからだとだけ認識しているようで、「来年はもっと営業努力をする」と言っていた。
確かに営業努力も足りなかったのかもしれないが、日本相撲協会の体質にも問題があるように私は思う。相撲は長い伝統もあり、国技と言われているものの、相撲よりずっと遅れて日本に導入された野球やゴルフ、サッカーなどと比べても今や人気では確実に劣っているように思う。スポーツ特性もあるのでただ単に観客数を比べるのはまずいとは思うが、福岡場所の不入りを毎日見ていて親方達はただ単に営業努力が不足していただけと感じているのだろうか?
朝青龍が普段言っていることや、やっていることには、横綱なのに全くしょうがないなとは思うが、彼が相撲界は給料が安いと言っていたのは、他のプロスポーツと比べて確かにその通りである。しかし、相撲界は江戸時代からの長い歴史から出た知恵で、現役でそれなりに活躍した力士は親方となり(もちろんただではないが)、65歳の定年まで生活が保障される仕組みになっているという素晴らしい点もある。しかし、中卒の15歳の少年とは言え、月給は全くなく、2カ月に一度、場所手当と称して数万円だけ頂き、多くは親から仕送りを受けており、携帯電話の支払いは親の口座になっていて、前相撲が終わると、後は掃除、洗濯、料理、その他の雑用をやらされ、夜は入門前には子供部屋で過していた少年が、一度入門すると、十両になるまでは、大部屋に雑魚寝と聞くと、現在の親方達はそれらを乗り越え、それなりの関取になったとはいえ、現在の社会状況を考えると「それじゃー、新弟子は入ってこないよ」と思わざるを得ない。
相撲界で強くなる方法の基本はテッポウ、四股、すり足などと言われているが、もっと研究すれば強くなる方法がありそうな気がする。もちろん、かつては、スポーツジムか相撲部屋か判らないほど色々の器具を揃えた部屋もあったと聞くが、それらを充分に使いこなし力士の実力養成に力を注いでいるかどうかは知らない。部屋数も多く、一部屋の所属力士が少なく、稽古も充分に行えない部屋もあるようである。全く相撲を取ったこともないのに言うのはおこがましいが、その他の諸々の改革をし、新弟子にもしかるべき待遇が出来るシステムにすれば、新弟子ももっと集まってくるのではないかと感じている。
現状では先日、全日本相撲選手権大会で優勝し、アマチュア横綱になった若者もプロにはならずに県庁に就職する予定であるという話もあり、もう待ったなしの状況に来ているのではないかと思われる。
今迄、年寄名跡改革、茶屋制度改革、巡業制度改革など何度も取り組んだ歴史はあるが、日本相撲協会を若者に夢と希望を持たせるような組織にしていこうという考えに基づいた改革は未だ不充分ではないのではないだろうか。
このままでは大相撲は絶滅危惧種になってしまうのではないかと心配しているのは私だけだろうか。
鹿島労災病院の9月の収支は最悪だった。入院患者さんの数が平均204.2名で目標の250名を大きく下回った。別に従業員がサボっていたわけでもなく、どこかが工事中で入院を制限していた訳でもなかった。
原因を推測するに、
1.地域特性として稲刈りの季節であった。
2.9月の後半に5連休があった。
3.5名の医師が勤務交代になった。
などが考えられた。私自身も8月までの成績でもう大丈夫かな、と思ってしまったのも良くなかったと反省している。
昔から「柿の赤くなるころは医者が青くなる」と言われているが本当であった。
しかし、9月末の医局会で先生方に宜しくお願いしますと言った途端に入院患者さんがどんどん増え、10月に入って一時は272名にまでなってしまった。と思っていたら、機構本部の担当理事から電話が来た。
要旨は、9月末までの成績から本年度鹿島労災病院の収支見込みを出したものを受け取ったが、今年度収益が約850万円となっている、それにもう2000万円ほど上乗せしてくれないかというものであった。突然の電話であり、当方も戸惑い、どうすれば良いか指示を仰いだ。担当理事は、材料費の削減とか、病診連携の強化とか、ジェネリック薬品をもっと使うとかの案を示してくれた。
しかし、材料費は今でも極力質を落とさないで安いものに替えるべく、毎月委員会を開催し適宜入れ替えている状態であり、質の良い医療をし続ける為には材料費はこれ以上落とせないと思うし、病診連携は、28年前に当院は近隣の医師会の猛反対の中、茨城県で最も人口密度の低い(野良犬は多い)波崎村に設立された経緯もあり、私は病院長として近隣の開業医さんを全部まわって病診連携をお願いしたばかりであるが、上手くいっていないのが現状であるし、ジェネリック薬品の使用は全国の労災病院でも4位に入るぐらい推進しているし、という事で、他に何か良いアイデアはないかと聞いても特別な返事はもらえなかった。ついでに使用凍結になっていた2700万円はどうなったか聞いたところ、それはもう解除したとのことで、翌日には理事長名で正式書類が送られてきたので、その分だけは得したような感じがした。「ただし指示した利益が上がらないようだったら平成22年度以降の投資的経費を含め各種支出削減を執ることとなる」、と追加記載されていた。このような脅し文句は現場の士気を損なうことはあっても、鼓舞することはないのではないかと危惧すると共に全身から何かやる気が失せて往く自分を感じた。
取り敢えず、本部からの電話には、多少、高飛車に返答してしまったが、さてどうすべきか考え、なかなか入院患者さんが増えない内科の全12名の医師にlove letter 作戦と称して「内科が頑張ってくれると有難いので宜しくお願いします」、と直質のサイン入りのlove letterを出させてもらったら、それも効果的だったようで、その後、見る見るうちに入院患者数が増加し、平均入院患者数が10月は251.6名となり、11月も昨日までで254.0名と好成績が続いており、内科の医師はもちろん、当院の全職員の努力に心から感謝している。現在は多少鼻息荒く「是非とも2850万円以上のプラスにしてやろうじゃないか!」という心境である。
それにしても、今後の労災病院について色々と考えさせられる電話だった。
当院の玉井浩医師が苦節17年やっと医学博士を頂くことができ、先日皆でお祝いをしました。お祝いの席で医学博士という字は「いがくはくし」と読むのか「いがくはかせ」と読むのか知っているかと聞きましたが知りませんでした。
そこで、かつて大学院長をしていた身として、一般的に「はくし」は専門の学術について水準以上の研究をした人で、論文審査と外国語試験に合格した人に与えられる称号で、「はかせ」は物知り博士やお天気博士のように、ある事に関して知識や技術に詳しい人の事をいうので、医学博士は正しくは「いがくはくし」と読むのだと雑学を披露しました。
さて、私が子供の頃には「末は博士か大臣か」という言葉がありました。博士も大臣も明治の頃は非常に希少価値のあるものだったのでしょうが、その後、大臣も増えたとはいえ、医学博士は増え続け、今では、掃いて捨てる程います。しかし、世の親達は自分の子供が医学博士になると大変喜んでくれます。ですから、教授在職中は教室員に医学博士を取ることは親孝行なのだから頑張れと言い聞かせていました。確かに自分も大した研究ではなかったのですが、医学博士を授与された時は、自分よりも母親(私の父は私が医学生の時に他界していました)が非常に嬉しがってくれました。医学界には昔から「医学博士とかけて、足の裏に着いた飯粒(めしつぶ)ととく」、「その心は、取ったからといって食えないけど、取らないと何となく気になる」と言うような謎掛けもあり、自分としても同じような感じで、たいした事をした訳でもないけど、一つハードルを越えたな、くらいに思っていました。
ただ、素人の方は医学博士というと、皆、お医者さんと思うかもしれませんが、医学関係の大学院に入り、医学の研究をしてしかるべき論文を書けば、その人が理学部卒業でも、場合によっては文学部卒業でも、医学博士になれます。そして、マスコミで医事評論家としてご活躍の方もいます。
一方、専門医は比較的最近世間で認知され出している称号です。基本的には各々の学会が真面目に専門医制度を作ってその認定作業までやっており、国家認定の制度ではありません。何とかこれを国家認定にして頂こうと専門医認定機構という組織を作り、専門医になるのをどんどん難しくしようとしています。と言っても麻酔科だけは国家認定の麻酔標榜医と麻酔科学会認定の麻酔専門医があり、麻酔標榜医を有していると、診療報酬でしかるべき優遇措置がありますが、麻酔専門医を持っていても診療報酬上の優遇措置はありません。その他の科でも、たとえ専門医を持っていても、現在の日本の医療制度では経済的には何の恩恵もありません。これは日本の現在の国家財政の問題であり、専門医認定機構がどんなに頑張っても、専門医が経済的に優遇される為には相当の財源が必要であり、そう考えると当分は現状のままのように思います。それより、何か医療事故が起こった時にマスコミが勝手に専門医で無い医師がやった、というように書くだけだろうと思います。私もそれが怖くて専門医を継続しています。
基本的に医師になる人のほとんどは真面目な人で(中には勉強嫌いで医学博士も専門医も取ること無く、何となく医療をしている人もいる)経済的な優遇措置など無くても勉強して専門医になり、しかも終身専門医の継続のための勉強はすべきだと考えていますので日本の専門医制度は表面上成り立っています。勉強し専門医になり、それを継続するという事は結局、患者さんに良い医療を提供出来るという事なので、結構な話だとは思いますが、諸外国のように専門医になったらそれなりの優遇措置があれば、もっと良いのにと思っています。
私は、医師が地道に医学の研究をして英語などで論文を書き、審査を受けるような努力をして医学博士になるという事も、一定期間研修し勉強して専門医になり、それを継続するという事も、自分が患者さんを診た時に何時の日か必ず役立つ、と考えています。医学博士だから、あるいは専門医だから名医という訳にはいきませんが、医学博士であり、専門医である人は名医になるための第一歩を踏み出したと考えています。
鹿島労災病院に赴任してから、丁度半分が過ぎました。元々、坂巻初代院長先生から定年退職になったら鹿島に来てくれとかなり前から言われてはいたのですが、現職中は何かとあり、はっきりとはお答え出来ずにいました。定年退職の1年4か月前に、同門会の忘年会で改めてお誘い頂き、その頃はさしあたって何処へ行く当てもなかったので「行きます」と返事をさせていただきました。その3週間後に坂巻先生が心筋梗塞でご他界されてしまい、改めて断る相手もいなくなり、労働者健康福祉機構から直接お願いされたことは一度もないまま、給料など雇用条件を全く聞くことも無く、大学を定年退職した翌々日の4月2日(月)から勤務しました。
初出勤の夕方に院長宿舎に行ったら、ガス漏れがしていて何時治るか判らない、ガスの元栓は占めたので、取り敢えずガスボンベを台所と風呂場においてガスを使ってくれ、という事で家内は薄暗い室内で泣いているし、怒り心頭に発し、事務局長と総務課長に電話し、「これが新院長を迎える姿勢か!」と怒鳴りつけて千葉へ帰ってしまいました。その翌日に辞令を貰いに川崎にある本部に行き、理事長から色々と説明を聴き、勤務が5年であるという事が判りました。それにしても、ひどい所へ行くことになってしまったなー、という印象を持ったのは良く覚えています。
後で知った事ですが、当時、全国に労災病院と名の付く病院が34あり、鹿島労災病院の収支の業績は下から2番目だったそうです。私の赴任後の2年半の間に2つの労災病院が無くなっていますので、本来なら今頃当院は無くなっていても不思議ではない病院だったようです。前任の中島病院長からは何の引き継ぎもなく、大学の時と同じペースで仕事をしていたら、徐々に患者さんも増え、医師も私の着任前は29名だったのが、私の嫌いな人材派遣会社からは1名も採用すること無く、現在は42名になり、収支状況は全国32労災病院の真ん中辺になったようです。何よりも地域住民の方々の信頼が厚く、大変頼りにされているという事を日々感じています。現在の労災病院は労災とは名ばかりであり、労災患者は外来、入院ともに3〜4%しかおらず、その他は地域の中核病院としての役割を果たしているので、もう鹿島労災病院を神栖市に買って貰い、神栖市立病院と名乗った方が良いように思っています。この案は市長にも、副市長にも提案したのですが、隣町の銚子市立病院が無くなってしまったこともあり、神栖市としては乗り気では無いようです。神栖市はやっと昨年から救急患者さんの受け入れ協力費として年間約1000万円、この10月から循環器内科ができ、脳外科医が1名増えて脳外科の緊急手術ができるようになったという事で半年分1500万円(来年度からは年間3000万円)の補助を下さるという事で、こんな少額の補助金でごまかそうとしています。
鹿島労災病院は年間大体1億円ぐらいの赤字ですので、このままこの医療費制度が続けば、やがては取り壊しになるのではないかと心配していますが、市の中枢部はどう考えているのか、困ったものですが、多分何も考えていないと思います。私の勤務は残り半分の2年半ですので、その間は私が相撲やゴルフでどんなに病院を留守にしても取り壊しになることは無いと思いますが、後がどうなるやら少しだけ心配しています。でも、先頭を切って頑張っていた者がいなくなれば、また、どなたかが頑張ってやってくれるのが世の常なので、大丈夫でしょう。一層の事、来年の3月一杯で辞めさせてもらおうかな?
前回の「独り言」で日本ゴルフツアー機構の医事委員長を仰せつかったと書きましたが、その委員長は自動的にアンチドーピング委員を務めるという事で、先週末に名古屋で行われた「東海クラシック」へ、日本で初めてのプロゴルファーのドーピングチェックをする為に行ってきました。私自身はドーピングチェックをする資格である「ドーピング・コントロール・オフィサー」の資格を持っていませんので、今回はその点ではベテランである川鉄病院の森川、園田両先生にお手伝い頂き、私は「ドーピング・コントロール・ドクター」として、監督的立場で見ていただけでした。
最終日にドーピングチェックをするという事で土曜日の夕方に名古屋に行き、少し打ち合わせをしてからこちら3名と事務局の3名、計6名で楽しい食事会を行い、そのままホテルの部屋に入り、翌日に備えました。
日曜日は絶好の秋晴れであり、三好カントリークラブは名門だけあって素晴らしいコースでした。日本ゴルフツアー機構会長の小泉氏に名古屋財界の高名な方をご紹介頂き、挨拶をさせていただいてから、スタートホールのティーグラウンドの後方に張られたテントの中の特別観覧席に座らせて頂き、何名かの選手のスタートを見させていただきました。最終組に石川遼選手(というより爽やかな好青年で遼君と言った方が良い感じでした)が来て、役員達に丁寧な挨拶をしてからティーショットを打ちました。ボールは不運にも右の林の方に行ってしまい、もしかしたらボギーかなと思っていましたが、そこをバーディーで上がったと聞いて驚きました。同じ組の選手がそれ程礼儀正しくなかったのに、ティーショットはフェアーウェイ真ん中に行ったのとは対照的でした。全員のティーショットが終わってからドーピングチェックをする部屋に帰り、森川、園田両先生が色々と器具を準備しているのをただ見ていました。早めの昼食を取り、今度は後半スタートの10番ティーグラウンドで、又も遼君のティーショットを見ました。アドレスに入る前にギャラリーがビデオを撮っていたので、遼君が辞めてくれるようにお願いし、あまり間合いを置くこと無く打ってしまいました。ボールは大きく右にスライスしOBでした。それでも遼君は何事もなかったように打ち直しをして出て行きました。私だけでなく、他の選手だったら何か怒りを表すことをしただろうにと思い、改めて、遼君の凄さに感心しました。
最後はクラブハウスの2階に作られた特別観覧席から18番の第2打からを観戦しました。最終組の梶川剛奨選手と池田勇太選手と遼君の3名だけが13アンダー、1位タイで並んでおり、どの人にドーピングチェックをするべきか色々と考えながら観戦していました。1打目を梶川選手はフェアーウェイ中央、池田選手が左の林に打ち込んでしまいましたが、遼君は右のラフでした。梶川選手はウッドでグリーン左端にon, 池田選手がなかなか第2打を打てないでいる間、遼君は素振りをしたりして待っていましたが、池田選手の第2打の池ポチャを見てためらうことなく190ヤード、ラフから7番アイアンで大きく打ちました。ボールは高く上がり、ピンそばにピタリ。あまりの凄さに全身に鳥肌が立ちました。カップインを見るまでもなくドーピングチェック室に行きました。遼君今季4勝目でした。
その後、ドーピングチェック室に来ても遼君は他の3名の選手たちが「不公平だ」、「来週やればよかったのに」などと、ふてくされた態度でいたのと違って、礼儀正しく対応してくれて、本当に凄いと思いました。自分の18歳の時と比べる気にもなりませんでした。今回は大変感動的なシーンを見せて頂いたのに、新幹線往復グリーン、前日の夕食会、ホテル代などを払ってもらい、日当まで頂き、大変得をした気分で帰ってきました。
最近、以前から行きつけの床屋で「先生、少し黒い毛が生えてきましたね!」と言われてしまいました。大学を定年退職し、精神的には1/10ぐらい楽になったので黒髪が戻ってきたのかもしれませんが、肉体的には実際の仕事量は減るどころか、何だか益々忙しくなってきて多少辛く感じています。もちろん鹿島労災病院長が本職で、外来も手術も、まだやっており、それなりに十分忙しいのですが、来年は千葉国体がある関係で千葉県体育協会理事として、そちらもぼちぼち忙しくなってきました。精神的に一番楽しいのは横審であり、来年からは東京場所には指定席を砂かぶりに確保できましたので、益々楽しめるのではないかと思っています。
そして、今度は日本ゴルフツアー機構の医事委員長及びアンチドーピング委員を仰せつかってしまいました。アメリカでは筋力増強剤を使っているツアープロがいる、という噂を聞いたこともありますし、もしかしてオリンピックの種目になるかも知れないという報道もあり、そろそろ日本でもドーピングチェックをすべきではないかと思っていましたし、何よりもこの話は私が学会などで親しくお付き合いをさせていただいている日本大学整形外科の斎藤明義教授からの依頼であったので、喜んでお引き受けいたしました。こんなにゴルフが下手なのに務まるかな、とも思いましたが、100を切って喜んでいる人やゴルフを全くやら無い人も医事委員に入っていたりするので何とかやっていけるのではないかと思っています。
個人的には28歳で初ラウンドをしてから間もなく帰局したこともあり、その後は年に1〜2度のラウンドしかできませんでしたが、出来たらもっとゴルフをしたいとずっと思っていました。千葉大を定年退職する前は年間100ラウンド、100手術を目標にしたこともありましたが、両方ともせいぜい80止まりでした。鹿島労災病院に来て糖尿病との診断が下ってからは、治療を口実に出来るだけラウンドをするようにしていました。その後、胃癌の手術を受けたことによる体力低下、飛距離低下、技術力低下(具体的には寄せが非常に下手になった)などで、思ったほどラウンドできませんでしたが、多くラウンドするとHbA1cが明らかに下がります。それまで6%台だったHbA1cが7月は9回ラウンドしたら5.2%に改善していましたし、8月は何となく忙しく、5回しかラウンドしなかったら6.1%に戻ってしまいました。という事で本当は横綱審議委員よりゴルフ関係の役員になりたかったぐらいでしたので、今回のお話は喜んでお引き受けした次第です。
私は横綱審議委員の中のただ一人の医師として日本相撲協会のアンチドーピング委員会にも属しています。ただ、相撲界は大麻騒ぎが先行してしまい、そちらの対策で手一杯のようで、マスコミに「相撲界薬物疑惑一掃」などと出ていますが、あれは正しくは「麻薬疑惑」であり、本当の意味での筋肉増強剤や興奮剤などのドーピング・チェックをしている訳ではありません。私は一委員として早く本格的なドーピングチェックをすべきと考えていますが、日本相撲協会は諸般の事情で、今はとてもそこまでは手が回らないようです。
ゴルフ界は現在、石川遼君の大活躍で何となく人気を回復しつつありますが、こういう時こそ襟を正し、アンチドーピングを徹底すべきと思います。
日本ゴルフツアー機構では今年の始めからプロ選手にドーピングに対する教育を何度も行い、今年からドーピングチェックを年に数回やるからと伝えてあるそうで、近々、第1回を行うようです。その際には私はトーナメント会場に(土)、(日)と行かなければならない様で、また忙しくなりそうですが、一人の選手も陽性でないことを心より願っています。
横綱審議委員もボランティアでしたが、日本ゴルフツアー機構も文部科学省の下部組織だそうで、またまたボランティアです。私の年齢になると、どうもそういう仕事が増えるようですが、これを名誉と受取り頑張ろうかと思っています。
8月の最後の日曜日は恒例の夏季研修会でした。そもそも、この研修会は今でこそ千葉県整形外科医会が主催ですが、第1回は千葉県リハビリテーションセンターのできた28年前の開業直前に井上教授が付き添いの方が宿泊できる所に泊まって1泊2日で始めたものです。私は当時、講師を仰せつかっており、当然のこととして参加の義務があり、不承無精行きました。住まいが近い事もあり、宿泊はしたくないと言ったのですが、「全員宿泊だ!」と教授に言われ、不満を言いながら泊まりました。講義は全員教室員を含めた同門の人達が行いましたが、内容的に面白くない人が多く、今となっては何を勉強したのか全く覚えていません。その後、リハセンターが開業したこともあり、強制宿泊はなくなりましたが、井上教授がご存命中は(土)、(日)の2日間で続きました。井上教授が主催した昭和62年の最後の研修会には東京大学の黒川教授が御講演に来てくださったのですが、その時には井上教授は入院中であり、しかも世間にはそれを伏せていたので、全て私が対応し、しかも黒川教授にも井上教授が病気入院中であることを隠して、最後までお会いして頂く事無く、お帰りいただいた事を覚えています。
私の代になってから、日整会の研修単位にする都合で、主催を千葉県整形外科医会とし、当時の会長の石橋文太先生に責任者となって頂き、私の勉強嫌いのせいで1日だけの研修会としました。夏休みの最後の週末の(土)、(日)を2日続けて潰される事は無くなったと言う事で教室員のご家族には好評だった様です。私より先輩の先生方はウラ研修会と称して袖ヶ浦CCでお集まりのようでした。
今年は第29回でしたが、最近の医療情勢を憂いて私の方から高橋教授に申し出て「医の倫理―若き整形外科医が元気である為に」という題下に話をさせてもらいました。医療訴訟を恐れて萎縮医療になってしまう事を避けなければならないと思ったからです。医療過誤が起こってしまった場合は、どんなことでも患者さんやご家族に誠意を尽くし、心からお詫びしなければなりません。そのような結果でも、不幸にも医療訴訟になった場合には刑事訴訟と民事訴訟があります。刑事訴訟は現在、年間100件ぐらいあるものの、医療行為で罰せられる事はほとんど無く、福島県立大野病院事件や東京女子医大の心臓手術事件、杏林大学の割り箸事件などのような一部の医事評論家が判決前には有罪だろうと言っていた事件も次々と無罪判決になっているように、ちゃんとした研修をし、正しい医療をしていればほとんど罰せられないようだと述べました。民事訴訟は年間1000例ぐらいですが、患者さんにとって不満足な結果となってしまった場合には、もちろん心からお詫びしなければなりませんが、それで納得していただけない場合は、損害賠償で争われる事になります。そのような事態に対応する為には、正しいinformed concentを行い(ムンテラではない)、カルテは正しく記載し、万が一に備えて医療過誤保険には入っておくように、というような事も自分の苦い経験も含めて話しました。
医療を行う上ではどんなに注意深く行っても何が起こるか判りません。何が起こっても最も大事な事は充分な体力と気力を持って事に当たらなければならないという事です。健康管理の為には勤労者に義務付けられている年1〜2回の健康診断では肺癌(日本人死亡原因1位)、糖尿病、メタボぐらいが発見されますが、人間ドックなどでは胃カメラで胃癌(同2位)を、大腸カメラで大腸癌(同3位)を、女性は更に乳癌、子宮癌を早期に発見してもらえば、長生きできるのではないかと話しました。一般的に医師は精神的に弱いように思います。気力が充実するように自分自身の努力も大切だと思っています。
私自身は1年8ヶ月前に症状は全く無かったのですが、胃カメラで胃癌を発見してもらい、手術を受け、絶対に良くなるという強い気力を持ち続け、現在、大変元気である、で締めました。
今回は例年より少し参加者が少なかったような気がしました。今回の「独り言」が色々な事情で来られなかった人の参考になれば、と願っています。
大学を定年退職したら、後は週に2〜3回パートで何処かに雇って貰って後はのんびりしようと考えていたので、まさか自分が産業医の資格を取ることになるとは思ってもいなかった。しかし、大学を定年退職後、恩師坂巻皓先生の御下命で鹿島労災病院に赴任する事となり、産業医という言葉に触れることが多くなり、大学時代は馬鹿にすることはなかったものの、全く興味の無かった産業医とは一体何なのか職務上、気になっていた。鹿島に赴任してから、始めの2年間は右も左も分からず、自分の胃癌騒動もあり、全く余裕のない毎日だったが、3年目に入り、病院はこの調子でいけば、少なくとも自分の任期である5年間のうちの残り2年半は何とかなりそうだと精神的に余裕が出てきた。その結果として常々気になっていた産業医講習会に行ってみようかなという気になった。
産業医になる為に最も容易に研修単位を取得する方法は産業医大か東京医科歯科大でやっている7日間で50単位を取得する講義を聴くことである。今回、私は東京医科歯科大学に日曜日の午後1時から次の土曜日の午後1時までびっしり詰まった講義を聞く方に申し込んだ。かつての経験者達から「大変ですよ」と脅されていたが、やはりかなりしんどかった。特に1日目の午後の講義の時は講義室の空調が利かず、蒸し風呂のような講義室に300名以上の受講者が詰め込まれ、蒸し暑さはピークだった。2日目からは冷房も良く効き、むしろ寒いくらいだったので、その点は楽だった。
その他に、いくつか参ったなーと思った事があった。一番は講議の仕方が下手なことであった。「…である」のか「…でない」のか語尾がはっきりせず、その上スライドは30行ぐらいがびっしりと書かれており、「読みづらくて済みませんが…」と言うなら、「そんなスライドを出すな!」と言いたくなるようなスライドも多く「マーその程度の人が講師になっているんだ」と自分を納得させざるをえなかった。栄養指導の講義では寿司を食べる時は野菜が足りなくなるからという事で寿司の隣に野菜ジュースが置いてあるスライドやアルコールを止められない人はその前に水をたくさん飲むようになどという机上の空論を述べる栄養士さんもいて「そんなこと出来る訳無いよね」と隣にいた同僚に言ったら「先生、講師の人に聞こえますよ」と注意されてしまった。出来たら聞こえた方が良いと思っていたので講師の顔を見ていたが、あちらさんは講義をすることで手一杯で何の反応もなかった。その他に細かい事は多々あったが、後は推して知るべしである。もちろん、非常に勉強になる興味ある講義もあった。しかし、押し並べて、今どき医学部であんな講義をしていたら教授を首になってしまうのではないかと思うほど下手な講義が多かった。それだけでなく、内容が同じような講義が最高4回ぐらいあった事もいらいらした。他の講師がどんな話をするのか、レジメに目を通していないのかどうか判らないが、不愉快になるほどであった。特に最終日の最終講義の死者にホルマリンを注入して腐敗を防ぐという講義は、その直前にもあり、ただ単に50単位にするためにやっているとしか思えなかった。それらの結果かもしれないが、7日間を通して、出席者の約8割は寝ており、起きている2割のうち、半分は関係のない本(若い人はほとんどがマンが本)を読んでいた。
兎にも角にも、これで産業医の資格を頂けることになった。全体としては自分なりに大変勉強になったし、今後の病院運営に役立つことが多かったと思っている。現在、日本で医者になってからの資格で何らかの役に立つのは麻酔科の標榜医か専門医以外は、この産業医だけのように思う。いろいろな学会が専門医制度を作っているが、あれはあくまでも自己満足であり、患者さんに納得してもらうための制度で、診療範囲の制限があるわけでもないし、診療報酬が変わるわけでもない。そのせいか日本医師会が認定している産業医講習会は全国で頻繁に行なわれているにも拘らず、応募者もそれなりに多く、直ぐに締切りになってしまう様である。ただし、労災病院からの受講申し込みは優先して貰っているので、その点は労災病院のメリットだと思っている。
7日間の受講終了後、少し疑問がわいてきた。講習会への若い医師の参加が目立った点である。日本の産業を守り、日本を豊かな国にするために尽力したいなら、それも素晴らしいことだと思うが、休み時間の若手の参加者の会話からはそのような心意気は感じられなかった。それよりは、むしろ産業医は(土)、(日)の勤務や当直が無い、常勤産業医だと病院に勤務するのと同じぐらいの給料が貰える、いくつかの事業所と契約し、それ以上の収入になっているような若い医師もいるなど、若い人にとっては女房・子供への家庭サービスも十分に出来そうで、家族には大変喜ばれそうな職種である、という認識のように感じた。でも、講習の内容からあんなことばかりやっていて本当に良い医者になれるのか、はなはだ疑問を感じた。医学部を卒業した医師には何とかまともな医師になって、本当の患者さんの為に尽くすようになってもらいたいとつくづく思った次第である。
大学に在職していた頃、「忙しいですか?」と良く聞かれた。
「ええ、夏休みの最後の3日のような毎日です」と答えていた。確かに忙しかった。あと3日で夏休みの宿題を終わらせなければと焦るような毎日で、講義の準備、原稿書き、講演の準備、その他に媒酌人130組(中には一人で2回依頼されたこともあり、この2回目の媒酌人の挨拶は非常に話しにくかった。それにも拘わらず、その後の人生で私の指示に従わず、今元気でいることは知っているが精神的に幸せかどうか知らない。以後は2度目はお断りしている。)などもあり、本当に多忙であった。
ちょうど教授になった頃に膝前十字靱帯損傷の病態が明らかになったころであり、「日本で前十字靱帯機能不全という言葉を最初に使ったのは守屋だ」とどなたかが言っていたことがある程、その方面では名前が売れてしまったので研修講演を月に4回、多い時は10回ぐらい行ったように記憶している。当時は学会で「前十字靱帯損傷」という言葉がシンポジウムのタイトルに入っているだけで会場は満員になった。日整会学術総会が5月に行われるようになったのは会計監査の関係で2002年からであり、私が会長をした2001年までは4月に開催されていた。従ってシンポジストは前年の7月ごろに決まるのが常であった。そんなに忙しいのに、毎年7月になるとシンポジスト指名の電話が来るかと首を長くして待っていたのを覚えている。今でも前十字靱帯損傷にこだわって学会活動している人がいるが、私にとっては太い靱帯を一本ちゃんと作っておけば良いと思っているので、もうあまり興味はない。教授職後半は世の中が老齢社会となり、多くの膝の痛い高齢者とのお付き合いが多くなった。たまたまNHKの「今日の健康」でスポーツ選手の損傷半月板の鏡視下手術の話をしたら、数少ないスポーツ選手に交じって非常に多くの高齢者の方が来院したり、手紙をくれたりで、多忙を極める事となってしまった。この頃に変性半月板切除術、膝後内側乖離術、脛骨高位骨切り術、人工関節置換術などを積極的に行った。さらにその知見を広める為に海外の学会に年平均3回ぐらい出席した。それらが忙しさに拍車をかけた。
自分自身は子供の頃に夏休みの宿題は始めの3日ぐらいは一生懸命にやったが、完了するのはやはり最後の3日間だった。工作だけは苦手でなかなかアイデアも浮かばないし、そんな事をやっても頭が良くなるわけではないし、と思うと益々やる気にもならなかった。その頃、実家に何故だか判らないが、夕方になると毎日出入りの大工さんが顔を出し、少し仕事をして皆の仕事が終わるのを待って、一杯やっていた。その大工さんが自分の仕事が無くなると、決まって「今年は何にする?」と私に聞いてくれた。「去年はアルプスの山小屋だったから今年はヨット!」と答えると夏休み後半までには、ちゃんと作っておいてくれ「色ぐらい自分で塗れ!」と言って白木の船を渡してくれた。私はその船に帆を張り、上半分を白、下半分を赤に塗り、夏休みの工作として学校に持っていった。夏休みの工作の宿題はいつも金賞だった。
整形外科医になって指導的立場で若い人の手術の指導をする事が多々あったし、今でもある。あまり勉強はしないが手術の上手い人もいれば、研究心は旺盛だが手術が中々上手にならない人もいる。私は子供の頃の夏休みの宿題は出入りの大工さんにやってもらってしまったが、手術そのものは自分で言うのはおこがましいが下手な方ではないように思っている。特に「空間認識能」は何だか判らないが持ち合わせているように思っている。骨切りの角度やスクリューの刺入方向などにほとんどイメージは使わない。整形外科医に向いていたのかも知れない。
手術がなかなか上手くならない人に、何度か宿題として工作を作ってくるように命じたが、いまだ作ってきた人はいない。
今でこそ横綱審議委員を仰せつかっているので、「そんなに相撲が好きなんですか?」と聞かれることが多いが、小学校の校庭に円を描き、相撲を取った以外は相撲の経験は無く、何と答えてよいやら、しばし返事に窮す。「本当に好きなスポーツは?」と言われたら、自分もプレー出来ることも含めてゴルフのような気がする。
医学生だった頃、田舎の自宅の庭にゴルフ練習用のいわゆる鳥籠があり、勉強に飽きると一人で打っていた。そんな経験があったおかげだと思うが、医者になって2年目に出張に行った栃木の病院で、病院コンペに出させてもらい、初めてラウンドした。結果はバーディー1ヶを含んで57,57だった(これは私のゴルフに関しての自慢話の一つである)。私が28歳の時であり、丁度40年前の話である。私はその後、一度もそれ以上を打った事がない(これも私の自慢話の一つ)。もしかしたら、あるのかもしれないが記憶には残っていない。初ラウンドの好成績に気を良くして「サー練習をしよう!」と張り切っていたら、その2ヶ月後に井上教授から電話があり、「明日から医局に帰るように」とのことであった。教授に懇願して、帰局は1週間後にして頂いた。それから19年間、年に1〜2回、井上教授が次郎杯に出る時に運転手兼同伴競技者(早い話が玉拾い)としてゴルフ場に行くだけだった。井上教授もゴルフは嫌いではなかった。昭和62年4月に新潟での日整会で「脊柱変形の診断と治療」という素晴らしい教育講演が終わって、その慰労会で「そろそろゴルフでもやろうかな」と呟いていた。それから間もなく体調を崩され、ご存知のように帰らぬ人となってしまった。
その後、井上教授の後任になったが、しばらくは多忙を極め、とてもゴルフなど出来る状態ではなかった。教授になって7〜8年してから、少し精神的にゆとりができ、たまにゴルフの練習をするようになった。それから少しずつ上達し、一時は38,37(これも自慢話の一つ)などという今では想像すらできないようなゴルフをしていたが、ここ数年は老化による筋力低下やカンの衰えとの戦いであり、徐々に飛距離は落ち、寄せが下手になってしまっていた。千葉大を定年退職して鹿島に来たらもっとラウンドできるかと思ったら、とんだ思い違いであった。病院長職と横綱審議委員とその他もろもろで、ラウンド数は現職教授の頃の半分ぐらいになってしまった。更に1年半前に胃癌の手術を受けてからは飛距離が2番手ぐらい落ちてしまい、時には100以上を打つような体たらくだった。これではいけないと思い、2ヶ月ぐらい前から練習を再開したら、先週の本袖での第44回守屋杯では38,45の優勝だった。もう少し前から練習しておけば良かった、と反省している。
一時期見る影もなかったTom WatsonがThe Openであれだけの大活躍をした事は感動的であった。大したものだと思うとともに、あれだけの大会を何故‘The British Open’とか’The English Open’とか言わないかを、留学中にイギリス人の友人が得々と説明していたのを思い出した。あの「The」というのは「他に類のない、世界最高の」という意味だそうで、いかにもイギリス人らしい名前の付け方だと思ったのを思い出した。
夏は嫌いな季節ではない。7月は糖尿病の治療と称して9ラウンドした。結果はHbA1cが1か月前は6.3だったのが5.2になった。Tom Watsonを見習い、糖尿病の治療目的も兼ね、もう一度体力と技術力を回復して、往年のゴルフを取り戻したいと考えている。
外で飲んで帰って湯上りの後に、もう1杯水割りを飲みながら、「あいつに電話したいなー」という奴が一人いる。
彼は自分の生い立ちの不幸を、たった一度だけ私に言った事がある。「私は自分が小さい時に父親が死んでしまったので、叔父さんに面倒を見てもらい医学部を卒業したんです」と。
彼との医局生活は楽しかった。彼は諸般の事情で医学部卒業と同時に大学院に進み、その後に入局してきた。私は井上教授とはしばしば意見が違い、整形外科の中でも興味を持つ分野も違ったので、学問的には貢献できなかった。しかし、彼は井上教授の為にという事で側弯症の診療と研究をメインテーマとし、井上教授が大変頼りにしていたほどの勉強家であった。と同時に大変人懐っこい性格であった。そんな彼とは何かと息が合い、個人的に膝関節の外科や関節鏡を指導した記憶がある。同時に麻雀が好きで、当時、土曜日はまだ午前中だけ勤務だったので、午後よく卓を囲んだ。彼の麻雀は好きな割に下手だった。しかし麻雀は私の特技の一つだったので、彼も私もお互いにまだ貧乏だった頃なのに、なにかと物入りだった彼(彼の死後知ったこと)からしばしばかもってしまった。
ある土曜日の午後、例によって入院中の重症患者さんのwatchの為に大学に残っていたが、直ぐに著変はなかろうとの判断の下に一局することにした。半チャン何回目かに部屋の窓ガラスを外から叩く音がしたので「うるせーなー!」と言いながら窓の方を見たら、井上教授がほほ笑みながら、こちらを見ていたのを、今でも鮮明に覚えている。その日も彼はかなり負けた。でも、潔く支払いをして、「楽しかったー」と言って帰った。
井上教授が急逝し、私が教授選に出なければならなくなった時、彼は「自分が出来ることなら何でもします。ゼニが必要だったらいくらでも用意します」と言って応援してくれた。もちろん教授選にお金がかかるのは「白い巨塔」の小説上のことだけであり、そのような心配はしてもらわなかったが、教授選の前に泊まり込みで相談にのってもらった事もあった。
私が教授に選出された時に一番に電話をしたのは家内であったが、二番目は彼であった。彼は殊に外、喜んでくれた。私は教授になってからも、しばしば彼の医院へ手術のお手伝いをしに行った。私が行くと彼のお母さんとお兄さん、お兄さんの奥さんが必ず挨拶に来た。彼は一族を養っていたのである。そうこうする内に彼の医院は膝の名医がいるという評判が立ち、北海道からも患者さんが来るようになってしまった。
そんな彼が救急患者として意識喪失の状態で、ある病院に入院したという電話が入ったのは、その年の4月に私が日本整形外科学会の会長をすることになっていた年の1月のある日の午前4時半頃だった。慌てて病院に駆け付けたが、彼は既にチェーンストークス呼吸状態だった。私は彼がこよなく愛した千葉大学医学部付属病院で息を引き取らせたくて、救急車を頼んで大学病院に運んでもらった。結果は大学病院の救急室で息を引き取った。
私は今でも飲んで一寸一息入れた時に彼に電話をしたくなる。彼は一族の面倒を見ながら、目先の損得や見栄などとは関係なく行動していた。私は彼の「男としての生き方」に惚れていたのかも知れない。
そんな友は他にいない。
6月1日に病院へ来てPCに向かい、インターネットを開こうとしたらどうしても開けません。PCの具合が悪いのかと思い、いつもPCのお手伝いをしてくれている事務の人に尋ねると、「明日、銚子コンピューターの社員が来るから見てもらったら」ということでしたので、そうしようかとも思ったのですが、念の為、千葉大学の「総合メディア基盤センター」へ電話で問い合わせました。そうしたところ「継続を希望する人には継続手続きをしてもらったのに、貴方はしなかったので、削除しました」との返事でした。そんな知らせを貰った記憶はないので「名誉教授は終身、大学のメールアドレスを使えると言われていたので、何もしませんでしたし、貴方は名誉教授が終身、大学のメールアドレスを使えるという事を知っていますか?」と言いましたら、「そんな事は知りません」
「では、どんなメールを出したのか、私の別のメールアドレスに、もう一度メールを下さい」とお願いしましたら、
「こちらは、千葉大学総合メディア基盤センターです。
統合メールシステムのご利用、ありがとうございます。
非常勤教職員、非正規学生等の方々の在職、在籍状況を確認し、メールシステム利用者番号の管理をしております。
平成21年度も引き続き、千葉大学に在職、在籍し、統合メールシステムを利用される方は、継続申請をしてください。
申請は、下記テンプレートの項目を埋め、
▽□×○※◆×@×××.▽□.jp(仮名)までメールで提出ください。」
というメールを4月14日から5月19日までに4回出したのに全く返事がなかったので、
「×○▽□※◆×@×××.▽□.jp (仮名、私のメールアドレス)様
こちらは、千葉大学総合メディア基盤センターです。統合メールシステムのご利用、ありがとうございます。
現在ご利用のメールアドレス
×○▽□※◆×@×××.▽□.jp (仮名)
を6月1日(月)に削除いたします。
ご利用ありがとうございました。
このメールは、非常勤教職員、非正規学生等で申請・登録されている方に送付しています。」
というメールを送って削除したとの返事でした。
千葉大学からは現在の私には全く関係ない事柄のメールも良く来ますので、私の思い違いで削除してしまったのかもしれないと思い、懇願して新しいメールアドレスを発行して貰い、その通知を医局から鹿島労災病院に転送して貰い、元のメールアドレスとパスワードに変更し、1週間ぶりにメール使用可能となりました。
私は千葉大学の非常勤職員ではありませんし、非正規学生でもありません。さらに現在は千葉大学に在職も在籍もしていないので、その旨千葉大学総合メディア基盤センターに言いましたら、彼らは私のことを「非常勤教職員、非正規学生の後の「等」に該当する人だ」との返事でした。
さらに、「こんな事は毎年やっているのか」と聞きましたら、「そうです、来年も4月か5月にお知らせを出しますので、その時は忘れないで手続きをして下さい」、とのことでしたので、「私は大学を2年と少し前に定年で退職しましたが、昨年は何もしなかったのに、このような仕打ちはされませんでした。それはどうしてですか?」と聞きましたら「……」でした。
名誉教授なんてどーってことない,とは思っていますが、何となくがっくりきました。しかもそれまでのメールは完全に消去してしまったので復活は絶対に出来ないとのことでした(これはどう考えても嘘だと思います)。
しかし、現実は大変困りました。
多分、メールを使えなかった期間にメールを下さった方は、undeliveryになってしまい「どうしたんかいな?」(神戸大学黒坂教授談)と、ご迷惑をおかけした事と思います。済みませんでした。
内舘牧子女史からも「だからメールって嫌い。手紙よ!やっぱり!」とお叱りのお手紙を頂いてしまいました。
でも、自分としては千葉大学総合メディア基盤センターの名簿の中の「等」に名誉教授(あるいは私だけ)が入っていなくて、メールをくれなかったのではないかと今でも疑っています。
千葉大学募金があまり集まらなくて苦慮しているという話(私も今回の苦い経験から、今後、絶対に寄付は出しません)や千葉大学医学部を卒業しても千葉大学医学部付属病院で研修する卒業生が少なくて困っているという話を耳にします。今回のような苦い思いを経験すると、大学としてOBを大切にできていない姿勢、同窓会の一体感の欠如などが影響していると言えなくはないかと思っています。
私自身は愛すべき母校の名前を横審や各種学会を通して十分に広報活動していると思っておりましたが、
「老兵は、ただ消えゆくのみ」かな…。
5月の連休明けからギリシャの軍医さんが鹿島労災病院に研修の為に来ています。4月に大阪で行われたISAKOSの名簿をアテネで見て私のメール・アドレスを見つけて自分がアテネで日本語を教えてもらっている先生にメールをして貰ったようです。断る理由は無いのでお引き受けしましたが、その返事の早さに、間に立った先生が大変感激してくれました。自分の若い時の経験で留学希望の依頼状を出してもなかなか返事を貰えず、いらいらした事を思い出し、現在は20数年前とは違い、メールで返事を出せますので、3月初旬に最初のメールを頂いてから、何度かメールを交換し、5月連休明けの来日ですから、その早さに大変感謝されました。病院の敷地内にある単身者用のone room マンションに住んで頂き(院長裁量費で無料)、1日3食は従業員食(これも無料)を食べて頂く事としました。従業員食は何か不満が出るかなと思いましたが、「美味しい」と言って食べてくれています。「本当に大丈夫?」と聞きましたら、ソマリアの避難民キャンプで暮らしたこともあるし、全く問題ない、何でも食べられるが自分が何を食べているのか判らないのが問題かな、とのことでした。
John Zagas先生(通称ヤニス先生)という45歳、ギリシャ陸軍で中尉ぐらいらしいのですが、英語は全く問題なく通じますし、勉強家ですし、人間的にも体格的にも素晴らしい方です。
ヤニス先生は、ギリシャで日本語を1年半ぐらい勉強していたそうですが、日本語はまだあまり上手ではありません。出来るだけ日本語で話すようにしているのですが、英語の方が通じるので、つい英語で話してしまいます。ヤニス先生は日本の武道に大変興味があり、剣道、なぎなた、居合抜きの練習をギリシャでやっておられたそうで、こちらに来てからも病院の隣にある中学校で早速、剣道の稽古に参加しているようです。なぎなたも近くに稽古場が見つかったようで、近々、行く予定になっているそうです。そのような方なので先日は病院の大相撲観戦バスツアーで両国国技館へ連れて行きました。大変、物珍しく楽しかったようです。鹿島労災病院が片田舎にあり、東京へ一人で行くとなると大変なのですが、自分で病院近くのバス停から東京へ行き、帰ってくる交通手段を調べ上げ、先週は数日ギリシャから来た友人と東京で過ごしてきたようです。
本来の目的は関節鏡を勉強したいという事だったのですが、医師免許証の関係で、残念ながら手術の手洗いができず、見学だけしてもらっています。ただ、当院整形外科は関節鏡だけではなく、色々な手術をしているので、それらを見ているだけでも十分に勉強になっているようです。
毎日、朝8時からのレントゲンmeetingから来て、外来や手術見学、臨床カンファレンス、リハ・カンファレンス、薬の説明会にも出席し、少しでも日本語を上達させようと頑張っています。元々、最初は3カ月滞在と言っていたのですが、3ヶ月で一回帰国し、2週間後ぐらいに、また来て合計6ヶ月近くいることにしたそうです。
同門会のメンバーでしばらくなら面倒を見ても良いという方がおられたら、お声をかけて頂ければ幸いです。
このような方と今後もお付き合いができれば、本当の意味の素晴らしい民間外交だと思っています。
ある雑誌社から「私のターニングポイント」と題して、何か書いてくれと言われたので、その原稿に少し加筆して、ここに転載します。
私は、入局時から膝関節外科の専門家になりたいとは思ってもいなかったし、井上教授の助手、講師、助教授としてかなり脊椎外科の手術もしていた。しかし、私が医師になり、整形外科医になり、膝関節の専門家になった過程ではターニングポイントと考えられる機会は幾つかあった。その幾つかのターニングポイントを神様がくれた幸運で自分の人生を良い方に持って行く事が出来たので、他人にはどのように映っているかは判らないが、自分では納得の行く運の良い人生を歩めたのではないかと思っている。
その幾つかのターニングポイントの内、最初に訪れたターニングポイントは、小学校4年生の時に、母親から「あなたは医者に向いていると思うが親戚縁者に医者は一人もいないので、今日、この本を買ってきたので読んでみなさい」と言われ、野口英世の伝記を渡された。自分は元々千葉県の寒村の小さな造り酒屋の3男坊でそれまでは何となく、将来は酒屋関係の仕事をするのかなー、と思っていたので、大変驚き、その本を2度読み、こんなに世の為、人の為になる仕事があるのなら医者になろうと決めた。
次に訪れたターニングポイントは村の中学から行ける高校からは医学部には入れない、と母親に言われ、中学3年の5月に千葉市内のお寺の離れを借り、大学生の兄と二人で自炊生活をしながら、千葉市内の中学に通うようになった事である。この頃の生活は、始めて家を離れた寂しさと同級生から方言を揶揄された以外は苦労とは思わなかった。
次のターニングポイントは、医学部在学中には将来は小児科医になるつもりであったが、東京第一病院(現在の国立国際医療センター戸山病院)でのインターン中に小児科を回ったら、患者はネフローゼで長期入院の子供ばかりだったのに比べ、その後に整形外科を回ったら、インターン生である自分から見ても下手な手術をしているのに、ほとんどの患者さんが良くなって「有難うございました」と言って退院していくので、もうちょっと上手な手術をすれば並みの整形外科医にはなれるだろうと思い、進路を整形外科に決めた事である。
初期研修が終わり、帰局したものの、これと言ってやる事も無く、悶々としていた時に坂巻皓先生から膝関節外科を専門にしたらと勧められ、丁度その頃、渡辺正毅先生のいた東京逓信病院に千葉大から誰か来てくれないかという要望があり、誰も希望者が無く、先輩に売られた形で行く事になったのも大きなターニングポイントであった。渡辺先生にご指導頂き、東京逓信病院の昔からの資料を毎日終電の時間まで掛かってまとめて学位論文にし、グライル先生に英語を直して貰い、打ち直しの利かないタイプライターで英語論文を書いたのは大変な苦労であった。でも、それは、その後の人生でイギリス留学、鏡視下手術、脛骨高位骨切り術、ACL再建術、人工膝関節置換術へとつながる第一歩であった。
恩師井上駿一教授が急逝するなどという事は想像だにしなかった事であり、その後任になった事もターニングポイントだったかも知れない。教授時代は闇雲に突っ走って全国規模の学会を10回、地方会は数えられない程、主催した。いま考えると良くやったなーという感じである。
千葉大で教授を19年やったが、病院長選挙に3度立候補し、全て落選し、学長選挙にも立候補して落選した。どれも立候補した時は当選を目指して頑張ったので落選した時はガックリきた。しかし、今では、落選して良かったと思っている。お陰で今でも現役で手術もしているし、そういう患者さんの中の一人である澤村田ノ助さんのご推薦で横綱審議委員にもさせて頂き、現在、老後の楽しみとしては最高だと思っている。
自分の人生において、もちろん、その時々で出来るだけの努力をしてきたが、来て欲しいターニングポイントを有効に生かし、来て欲しくないターニングポイントを幸運にも避けることが出来たのは運が良かったとしか言いようがない。若い人には余り参考にならない話かもしれない。
4月5日から9日まで大阪国際会議場で第7回ISAKOS (International Society of Arthroscopy, Knee and Orthopedic Sports)が開催されました。会長はイタリア人のPaolo Aglietti先生でしたが病気で来日できずに、Local Chairmanの史野根生教授、安田和則教授、黒坂昌弘教授、越智光夫教授などが中心になって、この学会を企画・運営して下さいました。大変立派な学会で大成功だったと思います。ただ、アメリカにある学会事務局が大勢で出張してきて何やかや口出しをしてきたのが多少迷惑でした。天気も最高に晴天続きで、正に桜の花も何処へ行っても満開で楽しい毎日でした。学会の内容も豊富でACL再建に始り、肩の鏡視下手術、各種スポーツ障害、人工膝関節まで多岐にわたっており、これ以上の素晴らしい学会は今迄経験した事が無いという感じでした。私は開会式で渡辺正毅先生が関節鏡を開発した経緯を話させてもらったのですが、元々ISAKOSはそれまで国際関節鏡学会(IAA)と国際膝学会(ISK)が合併して1995年に出来たものであり、歴史が浅いとは言え、もう関節鏡の出来た頃の話を正確に知っている人は少なく、大変好評で、ISAKOSの事務局はもちろん、AANA(北米関節鏡学会)もfilm libraryに保管したいので、コピーを欲しいと言われ、その他にも何人もの会員にコピーをお願いされました。大変名誉な事と思い、皆様に贈呈しました。
学会2日目の夕方の会長招宴が太閤園という非常に立派な料亭で行われ、お庭の桜が丁度満開で、外国人参加者も大変感激していました。宴の終わり頃にこれから新しく名誉会員に推薦された人を発表します、ということになり3人目の最後に御指名を頂きました。私としては日本人は、もとより東洋人で初めてですし、会が若いとは言え全世界で9名しかいない名誉会員の仲間入りをさせていただいたので、正に感無量でした。
1973年の6月に突然井上教授から7月1日から東京逓信病院へ出張するように命ぜられ、何で自分なんだと思いながら、複雑な気持ちで行った事を思い出しました。当時の東京逓信病院は非常に閉鎖的であり、毎日が苦痛の連続でした。それらの事を、後に和歌山医大整形外科教授になられた玉置哲也先生にお話ししましたら、「外国留学と同じだね」と言われた事を良く記憶しています。その後、関節鏡、膝関節外科、スポーツ医学などを始めは一人で、その後何人かの仲間と一緒にコツコツとやってきた事が認められたと思うと本当に感激でした。
立派な名誉会員盾を頂き、何か話せと言われたので、英語で簡単なspeechをしました。
「Ladies and gentlemen, thank you very much for nominating me the Honorary Member of ISAKOS. Really it’s my great honor. I learned every things from Prof, Watanabe. At first, he taught me how to stand to do arthroscopy. You have to stand as parallel as patient’s leg. The width of stance should be as wide as shoulder width. Bilateral knees should be slightly flexed. Bilateral shoulders should be relaxed. Then you can start. I followed his teaching whole in my life. Then, I became a good arthroscopist as well as a good golfer. Thank you.」
この話を左手にマイクを持ち右手で関節鏡を挿入する動作から素振りの動作に変えながらしたら、結構多くの拍手を頂きました。