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千葉大学を定年退職し、その2〜3日後に鹿島労災病院に赴任し、4年間病院長職を勤めあげました。一部具合の悪い事もありましたが、全体としては「大過なく過ごせた」と言えると思います。4年間、遂に一度も黒字経営にすることは出来ませんでしたが、赤字と言っても年間1億円に満たない額であり、地理的条件、準公務員であることなどを考慮に入れれば仕方の無いことではないかと自分では勝手に思っています。
卒後2年間臨床研修必修化で全国の大学病院、研修病院による医学部卒業生の奪い合いが起こり、それがそれより以前に医学部を卒業した医師達にも悪影響を及ぼし、医師は医局とは関係なく自分で何処の病院に行っても、開業しても良いのだという風潮を生み、地理的条件や給与を含めた待遇などにより、医師の偏在を生み、それよりなにより、結論的には開業医が一番儲かるという事を全ての医師が知ることとなり、非常に多くの医師が開業に走ったのが現在の医師不足の現状では無いかと思っています。その結果、鹿島労災病院などは医師が極端に不足しました。しかし、医師の絶対数の不足ではありません。高度な検査が必要な患者さんにはそのような検査をしたり、手術が必要な患者さんには手術をするのが本来の医師の務めであるのに、そういう事をする勤務医が不足しているのです。開業医は赤髭先生を目指し、志高く開業に踏み切っても、どうしても現在の高額医療機器や手術設備を備え、医院を運営する事は困難であり、やりたい診断や治療には不本意ながら関与出来ず、難しい患者さんに対してすることは、ただ紹介状を書いてしかるべき病院に送っているのが現状です。でも、紹介状を書いて下さる開業医はまだ良い方で、それもしてくれない開業医の方が結構いるのではないかと思います。
私は医学部卒業後4年目に教授の命令で大学に無給医局員で帰ってきました。高い家賃は払えなかったので、2DKの千葉市低所得者用高層住宅に入れてもらいました。その頃、既に一件家を持っていた友人が御夫妻で拙宅へ遊びに来て、奥さんが2DKを見渡して「全部でこれだけ?」と言われたのを今でも良く覚えています。もの凄く悔しかったのですが、それが現状でした。でも、それから歯を食いしばって勉強し、医学博士号を取り、留学もし、大いに運にも恵まれ、助手、講師、助教授、教授となることが出来ました。
そしてその後に鹿島労災病院に行ったのです。鹿島でも良く働きました。最初の頃から当直や待機こそしませんでしたが、週に5~6例の手術をこなし、2~3回外来をしたりなどしました。一方でしばらく休んでいたリニアックを修復し稼働させたり、CT,MRIをバージョン・アップしたり、和式しかなかったトイレを徐々に洋式にしたり、などなどした為に、患者さんからは喜ばれましたが、収とし支は毎年赤字でした。しかし、何より私が嬉しかったのはほとんどの職員が元気よく生き生きと働いてくれたことです。現在の診療報酬支払制度では鹿島労災病院の様な所を黒字にするのは至難の技のように思います。後任の廣瀬彰先生は私より5歳若く、千葉市立病院で病院長も経験しており、病院長室のドアーを閉めて、どこかのホテルから失敬してきたような「ただいま就眠中」という札をドアノブに掛けて昼寝をしていた、私とは違い、良く働いてくれると思いますので、後は任せて、私は千葉に帰ります。
皆様、お元気で。
大変な地震でした。地震発生時に私は千葉市役所前のコミュニティー・センターの10階に設置したばかりの「千葉市病院事業室」の「病院事業管理者室」で会議をしていました。この建物の立っているところは私の中学時代は海であり、潮干狩りなどを楽しんだところです。そこを高度成長時に埋め立てをして市役所を造り、広大な住宅地を造り、大開発をした所です。その埋め立て地に40年ぐらい前に立てた10階建てのビルの10階に居たのです。揺れた時は机の下に潜り込み5分ぐらい机の前の椅子が右へ行ったり、左へ行ったりするのを見ながら「そろそろ止むかなー」とは思っていましたが、これで死んでしまうとは全く思いませんでした。どうもお目出度くできているようです。揺れが一応治まってから階段で降りるよう館内放送がありましたので、それに従いましたが階段の脇のボードはかなりひび割れしていました。後で考えると良く倒壊しなかったなーという感じです。
それから10mを超すつなみが押し寄せ、あちこちに二次火災、次に原子炉建屋の爆発です。被災された方々は本当に気の毒で、なんとお見舞い申し上げてよいか判りません。翌日の土曜日は家で呆然としていましたが、日曜日はゴルフの約束があったのですが、さすがに行く気になれず、そうこうしているうちに病院から電話があり、月曜日の診療体制をどうするかの相談があり、それなら直ぐに病院へ行くということにして出かけました。すでに副院長、局長、看護部長達で、「明日からは平常業務をする」ということを決めてくださってあり、私はただ、追認するだけのしごとでした。病院は30年前に建てた時にコンクリートを普通の3倍入れたとかで、ほとんど損傷もありませんでした。それにしても日本人は我慢強く頑張り屋だとつくづく思いました。この様な事が外国で起こった場合、確実に暴動、略奪が起こっていたように思いますが、そんな事は全く起こらず、どこでもじっと並んで待っているところは日本人は偉いと思いました。
実は10数年前の阪神淡路大震災の時は関節鏡セミナーの講師として神戸大学の黒坂教授(当時は助教授)と共にアメリカのアイダホ州サンバレーというスキー場にいました。時差ボケで眠れないままにTVを見ていたら神戸の地震の報道があり、次々と被災者が増えていったので、黒坂先生に電話し、翌日一番で帰ってもらいました。あの時は地震とそれに続く火災がひどかったようですが、今回はそれに津波と何といっても原子炉建屋の爆発です。政府ははじめの頃、大したことはないように思っており、そのような官房長官の発表でしたが、徐々に実態を理解できるようになり、1週間後ぐらいにやっと何が起こっているのか理解したような印象でした。そのうえ東京電力の輪番停電です。病院で何が大変かというと手術予定が組めないことでした。当日の朝に東京電力からやるだかやらないだかを発表されても動きようがありませんでした。月曜日の朝に病院で停電は困ると抗議したのですが、技術的に出来ないと言われてしまい、諦めていたのですが、今日あたりは病院は停電から外すとの発表があり、嘘をついていたことが判りました。
今回は菅総理以下、政府の管理能力の欠如、東京電力の無責任さが露呈しました。地震と津波はこの地球のもっとも地盤の不安定な日本に住んでいるのですから、ある程度は仕方ないとしても、指揮官がしっかりしていれば原子炉建屋爆発はこんなに大事にならずに済んだのではないかと思いますし、ガソリン不足や食料品不足などこんなにひどくはならなかったと思います。同時に、日本人は少し節電の気持ちが薄くなっていたように思います。これからは節電を心がけ、もう日本では原子力発電はいらないというようにした方が良いのではないでしょうか。被災地の方々は本当に大変だと思いますが、この際、日本人の底力を世界に見せるべく頑張りましょう。義援金もユニクロの柳井氏は私財10億円を贈るようですが、鹿島労災病院でも年度末のいくつかの飲み会(私の送別会も含めて)を中止とし、その分として多額の義援金が集まり、これを贈ることにしました。みんなで頑張りましょう。
今回は私のゴルフの自慢話を2〜3.
私がゴルフのラウンドを始めてしたのは入局して3年目に栃木県の上都賀病院に出張中でした。昭和46年1月末に鹿沼カントリークラブで病院コンペがあり、初出場しました。学生時代に実家の庭に兄が買ってきた打ちっぱなしのいわゆる「鳥かご」があり、病理学の勉強を冬休み中、籠ってやっていて飽きるとそこへ行って思いっきり打ってはいましたが、誰に教わるでもなく、ただ打っていただけでした。その初ラウンドでは短いミドルホールで寄せが直接カップインしてしまいバーディーも一つ取ってしまいました。終わってみたら57、57でした。初ラウンドのスコアーが114というのは私のゴルフに関する自慢の一つですが、それから丁度40年間、それ以上は打った事が無いというのも自慢話の一つです。でも、残念なことにその年の5月に恩師井上教授からお電話を頂き「明日から教室に戻ってくるように」と命令され、4〜5日の猶予を懇願し、その週末に急遽、日通に頼んで千葉に戻ってきました。教室に帰って知った事ですが、4月1日付けで医員第1号になっていたようでした。以後、自分が教授になるまで17年間、井上教授の運転手兼同伴競技者(球拾い)で年に1〜2回のラウンドでした。46歳で教授になってからも当初は非常に多忙だった事もあり、中々ゴルフをやろうという気になれませんでした。しかし講演などで呼ばれるとゴルフ付きの事が多く、仕方なくラウンドし、終わると何時も悔しい思いばかりでした。教授職にもある程度慣れてきた50代半ばに、それではもう少し真面目にゴルフをしてみようかと思ったのですが、時すでに遅しで、結局、上手くならずじまいのゴルフ人生になってしまいました。
次の自慢話は私のベストスコアーです。
10年ぐらい前に市原の方のゴルフ場で現在、千葉大学学長をしている斎藤康先生らとラウンドする機会があり、例によって冗談を言いながらスタートしました。第1ホール、パー5で3打目に左からの風を計算し、8番アイアンで打った球が旗竿に当たって直接入ってしまいました。出だしからイーグルでした。2番ホールでティーグランドに立った時は足の震えが止まりませんでした。前半にもう一つバーディーを取り、終わったら38でした。私ぐらいのへぼゴルファーだと、普通は前半38だと後半は45とかで今日も80を切れなかった、で終わってしまう事が多いのですが、この日は違いました。昼にちゃんとビールも飲んだのですが、後半も、寄るし長いパットも良く入り、バーディーを2ヶ取り、37でした。結局、38,37の75が私のベストスコアーです。75も自分としては自慢話ですが、後半の方が良かったというのが、我ながらニンマリしているところです。
次の自慢話はホールインワンですがそれは昨年この「独り言」に書きましたのでそれを読んでもらう事とし、最近のダメ具合についてのぼやきです。昨年5月4日にはホールインワンをしたのに、その翌月辺りから理由は不明ですが、突然、みじめな状態のゴルフになってしまいました。さすがに114迄は行きませんでしたが100をちょっとだけオーバーというゴルフがずっと続いています。ドライバーを2本買い替え、パターをかつて使っていたのに戻しましたが効果はありませんでした。ただ、今年に入ってそれなりに開き直り、ドライバーもパターも前のに戻したら、3回ラウンドしましたが全て90台であり、先週はハーフ44というスコアー(もう一つは51でしたが…)も出て、少しは良くいなったかなと思いつつ、春の来るのを待っている間に、先週の土曜日は空振り1回を入れて104、日曜日は103も打ってしまいました。もう、ダメだー。
鹿島労災病院退職の日まで2ヶ月を切ってしまいました。鹿島労災病院へは初代病院長坂巻皓先生のご下命で勤務するようになりましたが、私が赴任した4年前は、卒後臨床研修制度が始まって2年目であり、医師がどんどん少なくなってきた頃であり、当初は本当に参ってしまいました。私と入れ替えに常勤の泌尿器科医が辞職し、週2階の非常勤となり、それ以前に耳鼻咽喉科は常勤医がいなくなり非常勤が週3回、眼科は2名いた常勤医が1名になっており、病院は右肩下がりで全国34あった労災病院の中で収支状況は下から2番目であり、何時廃院の知らせが来るかという状況だったようです。その後、2つの労災病院が実際に廃院になりましたので、あのままだったら当院も廃院となっていたのではないかと思います。現在は下から8番目ぐらいですので当分は大丈夫だと思います。
そんな状況でスタートしましたが、ただ、整形外科だけは2名の専門医と4名の研修医でやっていたのを、私の着任時から、8名の専門医と2名の研修医でやるようになり、病院の沈滞ムードも一掃され、右肩上がりになってきました。更に、幸か不幸か、銚子市立病院が休院となりかつて当院にいた2名の脳外科医が戻ってきて下さる事になり、さらに外科医1名、整形外科医1名を当院に呼ぶ事に成功し、更に看護師さんも10数名来て頂き、一息つく事が出来ました。その後は頑張って色々な手を打って来たのですが、とうとう1名の常勤眼科医も退職し、現在は非常勤でつないでいる状態であり、全体としての業績は横ばい状態です。
しかし、私としては鹿島労災病院に来て本当に良かったと思っています。教授時代には知らなかった事や社会的一般論をいろいろと学ぶ事が出来ましたし、今後の人生をより豊かなものにする基礎を習得出来たと思っています。一番良かった事は、人間ドックで消化器内科の先生が自分の胃がんを見つけてくれて、徳元先生以下、外科の先生方の総力を挙げてのご尽力で、大変良い手術をして頂き、非常に元気になれたことです。当初は他での手術も勧められましたが、鹿島労災病院で手術をして頂き、本当に良かったと思っています。胃袋が1 /4になってしまったせいで術後は食欲が以前より落ち、食べられる量も減少し、術前最高6.7だったHgA1cも現在は5.1前後に改善し、糖尿病の心配が全くなくなってしまいました。このおまけは本当に有難いと思っています。
家内の腰部椎間関節滑膜嚢腫の発見、手術も本当にラッキーだったと思っています。平成20年5月にL4/5右側の椎間関節滑膜嚢腫切除のオペを私は前打ちをし、岡本先生執刀で行って貰い、すっかり良くなったと思ったら、今度は一度目になかった椎間関節滑膜嚢腫がL4/5左側に出来てしまい、9月に2度目のオペをして貰い、今ではほとんど症状もなく、全ての仕事をこなしています。岡本先生には御負担をおかけしましたが、大変有難く思っています。
在任中に最も残念だったのは愛犬コロが昨年5月10日に亡くなった事とゴルフが年のせいで下手になった事でした。ゴルフは仕方ない事として、コロはかわいそうでした。元気な頃は家内とコロと私でプリウスに乗り込み千葉と神栖の往復を週1回以上はしました。2年ぐらい前から、一般道では咳込んだりしましたが、不思議と高速道路では静かにしていたのは何故だったか未だに判りません。途中で用事がありそうな気配を感じて高速道路のパーキングエリアで一休みし、千葉へ帰った事も何度もありました。小倉台に着くと私とコロだけ自宅まで2Kmぐらい手前の所で車から降り、散歩しながら用事を済ませて帰宅したのが常でした。一昨年8月頃から夜間の咳込みが激しくなり、院長宿舎では小生の睡眠障害となってしまったため、千葉に於いておく事とし、家内は老犬介護で千葉にとどまる事としました。
従って、亡くなるまでの約9ヵ月間のweek dayは時々家内が来てくれるという状態で、ほぼ単身赴任状態でした。昨年4月にはコロも16歳になりましたし、亡くなる半年ぐらい前から昼間の呼吸も苦しそうだったので、寿命だったのかなーと諦めてはいますが、未だに何となく寂しい感じが残っています。
何といっても心から感謝しているのは家内の協力です。着任1日目に院長宿舎のガス漏れが判り、暗くなる迄、電気もつけられずに部屋の隅っこで泣きながら私を待っていてくれた日が、忘れられません。始めの頃こそ千葉と神栖の間の運転は私がしましたが、しばらくしてからはほとんど家内が運転してくれ、私は助手席でうとうとしながら乗せてもらっていました。家内が運転してくれなかったら、事故を起こすか、仕事をさぼるかのどちらかだったと思います。
年も明け、あと4ヶ月も経つと70歳です。自分では信じられません。でも酒も弱くなったし、疲れやすくなったし、何よりもゴルフが下手になってしまい、年を取るという事はこういう事かと日々実感しています。もうやりたくない事は出来るだけしないで済ますように、○○委員とか○○会長とかを辞めさせて頂き、人生の軽量化に日々努力しています。年末には整形外科の手術ビデオの企画委員を降ろさせてもらおうと思っていたら、偶然にもスポンサーがこの企画に一区切りをつけたいとのことで喜んで了解しましたし、更に年明けにラジオ放送の企画を担当していた分もそろそろ終了にしたいとのことで、こちらも喜んで賛成しました。講演も疲れそうなのは断るようにしていますが、横綱審議委員や日本プロゴルフツアー機構(JGTO)医事委員長などをしている関係でそちら方面の話を依頼されることが時々あり、困っています。「それなら文化講演だからギャラは高いぞ」といって脅すのですが、相手は教授時代の講演料で頼めると思っているようで、中々話が通じません。
年末、年始に2つの企画委員を辞めることが出来、年が明けてから、更に「千葉国体」も終わった事だし、千葉県体育協会医事科学研究委員会会長と千葉スポーツ医学研究会会長も辞めさせて頂く事として、共に後任は聖隷佐倉病院長の南昌平先生にお願いし、了承を頂きました。
これでだいぶ人生の軽量化が図れたと思っていますが、困っているのは日本柔道整復接骨医学会会長と千葉市病院事業管理者です。日本柔道整復接骨医学会会長は前任者が信原克哉先生であり、若い頃に何かとお世話になった関係で、お引受せざるを得ず、引き受けてみたものの、ほとんどの予定が日曜日であり、それも日本全国あちこちへ行くことになってしまい、困っています。昨年10月から2期目に入りましたので来年の10月で終わりにさせていただこうかと思っているところです。
千葉市病院事業管理者がこんなに大変な仕事だとは思っていませんでした。かつて麻生太郎氏が「医者ぐらいわがままな人種はいない」と言ったそうですが、9月から2市立病院の医師達と面談をしており、改めて私も同感と言わざるを得ません。さらに鹿島労災病院の職員は市立病院の職員と比べて、大変忍耐強く、良く頑張ってくれていますが、市立病院の職員はそれ程には頑張っているとは思えません。具体的な事は避けるとして、今ではこの仕事は引き受けるべきではなかったかもしれないと後悔しています。でも、4月から毎日勤務するようになれば、今とは違う感じ方をするかもしれないので、それに期待しています。
一応、このように人生の軽量化を図っているのですが、横審と日本ゴルフツアー機構(JGTO)医事委員長は色々と楽しい事もあるので、今しばらくは継続しようと思っています。横審は任期が10年であり、現在4年経過したところで残り6年間は続け、4月からはもっと時間が取れると思うので、横審とは関係なく持っている砂かぶり最前列の維持員席の権利も持続させて貰おうかと思っています。JGTOの方は遼ちゃんを始め多くのプロ達と仲良くなれるので、それも老後の楽しみの一つであり、任期を言われてない事もあり、今しばらく続けさせてもらおうかと思っています。その他にもまだまだ沢山やっているような気がしますが、「年を取ったら無報酬でどれだけ多くの仕事をやっているかが人間の価値だ」と諦めて、ぼちぼちやろうかなーと思っています。
前回の「独り言」は続きものだったので、年明けにそのまま載せてしまいましたので、改めて「新年明けましておめでとうございます」と言わせて頂きます。私の鹿島労災病院勤務も残すところ3ヶ月弱となり、少しあわただしくなってきました。私が4年前に赴任した時に一緒に来てくれたT先生とM先生はこのまま残ってくれるので、一安心しています。コロが病気で一昨年5月頃から昨年の5月まで家内が老犬介護で千葉の自宅にいたこともあり、院長宿舎での宴会をしないでいましたが、家内もfreeになり、久し振りに院長宿舎で新年会を行いました。
今回は、整形外科第一部長であるO先生がオーストラリアでの3ヶ月間の留学も終わり12月に帰って来てくれたことに対する歓迎会と、I先生が1月中旬から2カ月間上海に留学する歓送会を兼ね、そしてついでに4月から私の代わりに病院長として赴任してくれるH先生の歓迎会も兼ねた宴会でした。元々、労災病院には長期間勤務医師には有給での3ヶ月以内の留学制度があり、お二人ともその制度を利用させて頂いて勉強をしてきてもらう事にしたものでした。O先生は大変勉強になったし、楽しかったと大満足のようでした。詳しくは次回の臨床カンファレンスで話して下さるようです。I先生はお子様方の受験があるのですが、そちらは奥様に任せて、上海に行ってくるとの事で多少心配しています。
今回は諸般の理由でアルコールを飲まずに出席していた先生が3人おり、奥様方もO夫人だけが出席だったので、いつも大変賑やかな宴会になるのですが、今回だけは割と静かな会で、楽しかったとはいえ、いつもと少し雰囲気が違うものでした。食べ物もそろそろ無くなりそうになった頃に、私がM先生に「M先生、これで暗くて寒い所へ帰るわけね?」と言いましたら「いえ、違います」との返事で、「電気を消し忘れてきたの?」と追い打ちをかけたら、何と「昨年末に結婚しましたから」との返事が来て、一同ビックリ。その日は車を運転して千葉へ帰らなければならずウーロン茶で宴会に出席していたK先生は一瞬信じられないようで「え?」でした。続いて「それは無いでしょう。ずっと机も隣で、手術も一緒にやっているのに、何も言わないで、そんな、そんな」とむしろ怒っていました。何はともあれお目出度いことであり、それから急に会が盛り上がり、なかなか終わりになりませんでした。最後にM先生を中心にして写真を撮って、一応お開きとしました。私としても、本当に良かったと思っています。
翌日、病院へ行って「M先生が結婚したんだって」と看護師さん達に言ったら「そうですか。先日来、電気屋などで可愛い女性と買い物をしているのを何度か見受けましたので、そうだろうと思っていました。」とのことでした。結局、知らなかったのは整形外科のスタッフだけだったようです。これで、M先生も今迄以上に頑張ってお仕事をして下さると信じています。年明け早々お目出度い話でした。
前回の後篇です。
「1972年に、CoventryらがGeomedic Kneeとしてhingeless 人工膝関節をClinical Orthopaedics and Related Researchに発表し、それを目にした時のショックを今でも鮮明に記憶しております。Geomedic Kneeのコンセプトは、
1. 人工膝関節自体に前後、回旋の安定性を有していること
2. 前後十字靭帯と側副靭帯は残せるなら残すこと
3. 出来るだけ少量の骨切除とすること
4. 術後可動域は最低0°から90°あること
5. 内反、外反、屈曲変形の矯正可能であること
6. Intramedullary implantation でないこと
7. ポリエチレンが摩耗しやすいようなデザインでないこと
などであり、実物は非常に美しい人工膝関節でした。しかし、Geomedic kneeは人工膝関節内に全く遊びの無いデザインの為、術後、経過とともに固定に用いたセメントと骨との間でlooseningを生じ、全滅という結果が待っていました。
以来、biomechanicsや臨床成績に基づき、多くのデザインの人工膝関節が発表されました。
もちろん日本でも西法正先生による西式人工膝関節、児玉俊夫教授と山本純己先生などによる岡山大学式人工膝関節など独自の研究が続けられました。
我々も多くの外国製の人工膝関節を使用してきましたが、それらのポリエチレンは劣悪なものであり、層状破壊が原因で再手術を余儀なくされた症例も多くありました。
摘出したポリエチレンにはfusion defectやvoidが見られ、その脆弱性を物語っていました。
我々も約30年前から独自の人工膝関節の開発の構想があり、1985年1月に恩師井上駿一教授の御指導のもと、本格的な研究を開始し、試行錯誤を繰り返しながらハイテクニーにたどりつきました。
我々の人工膝関節開発のコンセプトはGeomedic Kneeとは多少異なるものでした。
1. 人間は遊びも大切であるように、人工膝関節自体も前後、回旋に遊びのあること
2. 長期的にlooseningを起こさない為にセメントを用いないで骨と人工膝関節がself rockingされること
3. 耐久性のあるポリエチレンを用いること
などを基本に考えました。それらの為には大腿骨コンポーネントと脛骨トレーは骨と組織親和性の良いチタンを用いること、
bone ingrowthを期待して、チタンメシュを人工関節の裏に貼ること、
初期固定を良くする為に脛骨ベースプレートにアンカースクリューを用いること、
ポリエチレンの製造方法をラム押し出し法からdirect compression molding製法にし、flat surfaceにすること、などを採用しました。
その結果として出来た人工膝関節を当時開発に協力してくれた川崎製鉄株式会社ハイテク研究所にちなんで「ハイテクニー」と名付け、当時の厚生省から1990年製造許可を獲得し、その後、このプロジェクト全体の製造場所がナカシマプロペラに売られてしまった為に、改めて「ハイテクニーU」と名称を変更し、1994年4月から臨床使用を開始しました。
平成23年の日本整形外科学会学術総会で、シンポジウム「整形外科原点と挑戦」という企画をしたので関節再建についてのシンポジストになってくれと、夏より少し前に慶応大学の戸山教授から電話を頂きました。最近は、もう研究などという面倒なことはやってないので固辞したのですが、他も年寄りが演者なので、とかいう理由で、無理やり押し付けられてしまいました。若い時なら、「来たぞー!」と思い頑張ったのでしょうが、もうそんな気力はありません。それから気になって気になって仕方ないので、20分持つだけの粗筋だけを作りました。
「私に与えられたテーマは関節再建術です。整形外科領域のここ50年の進歩は著しいものがあり、関節外科もその一つであります。私は整形外科医として外傷はもちろん、脊椎、股関節、膝、肩、肘、足関節など、手の外科を除いて、全てに関与し、手術もしてきましたが、私のメイン・テーマは膝関節外科でありましたので、今日は膝関節外科の原点と挑戦について話をさせて頂きます。
この50年の膝関節外科を進歩させてきた大きな原動力であり、原点と言うべき研究は関節鏡の開発と人工膝関節の開発であると思います。
関節鏡は世界中で開発が試みられましたが、臨床的に利用可能な関節鏡は日本で開発され、それは日本整形外科学会が世界に最も誇れる業績です。
関節鏡の開発は1918年、東京大学の高木憲次教授が膀腔鏡を用いて結核性膝関節炎の瘻孔から関節内を鏡視したことから始まりました。その後、関節内を鏡視する専用の関節鏡の開発が始まり、改良を重ねつつ幾多の研究が積み重ねられました。
関節鏡改良の研究は第2次世界大戦から帰国した高木憲次教授の高弟で東京逓信病院に就職した渡辺正毅先生に引き継がれました。
その頃、東大整形外科医局では関節鏡は「教授のおもちゃ」或いは「ゲレスコ」という侮蔑的な表現さえされ、高木教授以外一人の教室員も、その後の関節鏡の発展を信じる者はいなかったと、私は渡辺先生から直接お話しを伺った事があります。
それにも拘わらず渡辺正毅先生は関節鏡開発の研究を継続なされ、1959年、武田栄先生と共に、本格的に臨床使用可能な渡辺式21号関節鏡を開発しました。
渡辺式21号関節鏡はTelescope, Light carrier,直径6mmのTrocar sheathからなり、組み合わせるとLight carrierがRetracterの役割をして半月板前角の鏡視に大変役に立ちました。
この渡辺式21号関節鏡は日本国内はもちろん、北米でも広く使用されました。それを用いて膝関節の多くの病変の解明がなされ、さらに鏡視下手術へと発展していき、1962年に渡辺先生による世界第一例の鏡視下半月板切除術も行われました。さらに1970年には渡辺式24号関節鏡としてselfoc rod lensを用いた小関節鏡を開発され、手指の関節などの小関節も含め多くの関節を鏡視可能としました。
1966年渡辺式21号関節鏡のLight carrierの頸部が破損しやすいという欠点を補う、rod lens とglass fiberを用いたStortz関節鏡が開発され、世界中の整形外科で関節鏡がブームとなり、膝はもちろん、その他の多くの関節での多くの鏡視下手術が開発、改良され、今や半月板切除術などはopenではなされないようになってしまいました。
一方人工膝関節の開発はそれまで行われていた結核性膝強直などに対するresection arthroplastyや皮膚や筋膜、OMS膜、JK膜などを使ったmemmbranous interposition arthroplasty に代わり1951年Walldius ,1953年Shiers,1970年GUEPARに代表されるhinged人工膝関節が開発され、多くの臨床応用がなされました。さらに1972年にさらなる術後成績の向上を目指し、CoventryらがGeomedic Kneeとしてhingeless 人工膝関節をClinical Orthopaedics and Related Researchに発表し、それを目にした時のショックを今でも鮮明に記憶しております。」
後編をお楽しみに。
私の鹿島労災病院勤務も残すところ4ヶ月を切りました。当院勤務の初日に院長宿舎がガス漏れで入居できず、怒って千葉に帰ってから、もう4年近く経ってしまったのを考えると、この4年間は早かったと感じています。遂にこの4年間、病院収支を黒字にすることは出来ませんでしたが、精一杯の努力はしたつもりです。黒字にならなかった最大の原因はやはり医師不足です。現在の診療報酬支払制度と医師に対する報酬の決まり(国家公務員の報酬に準じている)では勤務医不足は解消されないのではないかと感じています。
私は遂に一生勤務医をしてしまいましたが、それはそれで医師として本来行うべきことが出来たので良かったと思っています。それにしても勤務医は手術等を含めた日常業務の他に当直、待機等の時間外労働も多く、その割に報酬は少ないと感じています。
医学部教授も似たようなものです。先日、日本で最も入学試験の難しい医学部を卒業し、その医学部の臨床系の教授を10年以上やった方にお会いする機会があり、たまたま話が年俸の事になり、その元教授は一千万円に届かなかったと言っていました。医師は若い時にあちこちの病院で研修を重ね、時には外国へ留学という形で勉強に行ったりしますので、たとえ教授になったとしても同一の病院勤務は長くなく、むしろ医師以外の職種の方でずっと同じ病院で働いている人の方が高級になり、退職金も多くなるという現象が起こってしまいます。その元教授も退職金は一千万円に満たなかったそうです。当院でも医師以外の永年勤続者の中には年俸一千万円以上の人もいるのではないかと思います。医学部教授もそろそろ待遇改善を叫ばなければならないのではないでしょうか。医学部で教授をしている人なら、医学生や若い研修医の指導もありますし、臨床の責任者でもあり、更に現在の医学を進歩させなければならないという責任もあるのに、そんなに安い給料で仕事をしていると辞めたくなってしまうのもうなずけないでもありません。
全く別の医学部教授の話ですが、その方は毎日朝早く大学病院に近いJR駅で降り、都バスで大学まで通っていて、何時しかそのバスの運転手さんと親しくなり、2人が同時に定年退職する事を知り、2人だけで飲み会をしたそうです。その時の話で教授は「私は大学を辞めても、まだ働けるので次の病院が決まっているけど、運転手さんはどうするの?」と聞いたところ、運転手さんは「私は退職金も出たことですし、しばらくは遊んで暮らします」、と答えたそうです。その後、お互いの退職金の額についての話になり、医学部教授は一千万円にも届かなかったのに、運転手さんは四千万円を超えていたという事で、医学部教授はがっくりきたという事でした。
私は運転手さんの待遇が良すぎると言っているのではありません。しかるべき仕事をやっている人はそれなりの待遇をすべきだと思っています。現実には医学部教官への希望者が段々少なくなっており、特に優秀な人は先を見て、もっと世の中を楽に暮らせる方へ行ってしまいます。そういう事が結局は大学に研修医が集まらなくなり、関連病院で医師不足という結果になってしまうと思っています。私は医学部卒業後、入局もしないで、医師であるという事だけで気楽な人生を歩むよりは、大学の医局に入局し、一時期は研究にも従事し、出来たら留学し、世界を知り、外国から日本を見るという機会を持つなどして、医師は始めて一人前になっていくと考えています。若い医師たちには目先のお金にだまされる事無く「自分は何をするために医師の道を選んだのか」もう一度、考えて頂きたいと願っています。
私は千葉大学を平成19年3月に定年退職し、4月から鹿島労災病院に赴任しました。千葉大学医学部整形外科学教室の初代鈴木次郎教授は56歳の時、東京駅で心筋梗塞により急逝なされましたし、二代目の井上駿一教授は57歳の時に肝細胞癌で他界されました。そのように歴代の教授は短命でしたが、三代目の私は幸いにも定年まで勤めることが出来ました。定年退職まで自覚的には心身ともに元気なつもりで働いていたのですが、鹿島労災病院でいちおう「人間ドック」を受けてみるか、というような安易な気持ちで胃カメラをして貰いましたら、何と胃癌が見つかってしまい、当院の徳元副院長・外科部長にお願いし、平成19年12月20日に開腹手術で胃の4分の3を摘出して貰いました。
術後は「自分は絶対に治るんだ」と信じて日々努力しました。術後の硬膜外麻酔が非常に効果を発揮し、術翌日から点滴スタンドを引っ張りながらナースステーションに顔を出し、看護師さん達に声をかけたり、2日目からは病院の廊下を歩き回ったり、院長室でメールチェックをしたりしました。 術後1週目でリハビリテーションとして病室でパターの練習をし、術後3週間で退院しました。
術後に投与された抗癌剤は外出時にもゴルフに行く時も術後2年間ほとんど忘れずに服用しました。術後2ヶ月からラウンド開始、3月末の病院コンペでは41,46のベスグロで主治医の徳元先生に8打勝ちベスグロ優勝しました。その後もゴルフは出来るだけやるようにしているのですが、大分下手になりました。術直後は9番アイアンの飛距離が20ヤード位落ちたのでクラブ選択で凌いでいたのですが、最近は体力が回復したのか、10ヤード位落ちる程度にまで飛距離も回復しました。しかし、最近は年のせいか「寄せ」が失敗続きで、「寄せイップス」になってしまいました。でも、キャディーさん達からは「 とても胃癌の術後3年とは信じられません」と言われる事がしばしばあります。以前にも「独り言」に書きましたが、今年5月4日には袖ヶ浦CCで168ヤード、谷越えのショートホールでホールインワンをしてしまいました。先月は(土)、(日)と2日続きでラウンドしてしまいました。ゴルフは完全に復調です。ビールは術後4ヶ月ぐらいまでは、直ぐに泡で腹一杯になってしまい、その後の食事はもちろん、翌日の朝食も食べられなくなってしまいましたので、止めていましたが、半年ぐらい経ってからは大丈夫になり、今は毎晩飲んでいます。
ラーメンは良く噛まずに食べてしまうので消化不良になってしまうと管理栄養士さんから言われていましたので、我慢していましたが、術後9ヶ月頃から食べ始めました。でも、ゴルフ場での昼食としての麺類は、午後2〜3ホール回ったところで急にトイレをもよおし、難渋したことが数回ありましたので、以後ゴルフ場の昼食に麺類を食べることは止めています。
最近、一寸疲れ易く、食欲もなかったので、徳元先生に相談したところ、直ぐに術後3年の胃カメラ、造影CT, 腫瘍マーカー等をして下さり、全て全く正常であり一安心しました。その後、食欲も回復し短期間で2Kg程体重が増えてしまいました。こんなに元気になれたのは、もちろん上手な手術と術後に適切なご指導をして頂いたお陰だと感謝していますが、自覚的にはもう一つ、「自分は絶対に治るのだ」という「気力」も大切だったと思っています。
先日、朝早く「先生、今朝、若い猪を仕留めましたので、お約束通り送りますが、自宅へ送りますか、病院へ送りますか?」とのお電話を頂きました。何だか良く判らないまま「自宅へ送って下さい」と答えてしまいました。すると「一頭丸ごとですよ」と言われたので、家内にその旨伝えると「とんでもない」と言下に断られてしまい、慌てて電話の主である長野県柔道整復師会会長さんに電話をかけ直し、「病院の栄養管理室へ送って下さい」とお願いしました。そう言えば4月に長野へ柔道整復師会研修会で講演を依頼され、日帰りで行った時に講演を終わって、名物の信州そばを頂きながら、「秋に来てくれれば美味しい猪を御馳走出来たのに…」と言われ、「猪はまだ食べたことが無いのですが、食べたいですねー」と言ったら会長さんが「では、捕れたら送ります」と確かに言っていました。それが来たのです。
直ぐに病院の栄養管理室に行き、「大変だ!イノシシ一頭贈ってくるって!」と伝えました。それからが大変でした。イノシシ一頭がどんな格好で送ってこられるのか、議論になり、両手、両足を縛られて天秤棒に吊り下げられて来るのか、毛皮は何処で剥いでもらうのか、内臓はどうするのか、などなど大騒ぎになってしまいました。結果として毛皮は剥いであり、内臓も全て取り除いてある状態で骨つき肉の状態で送られてきました。それを知り合いのお肉屋さんに骨を外してもらい、冷凍の状態で持ってきてもらいました。
猪のお肉と一緒にリブステーキ、イノカツ、ボタン鍋がお勧めとのお手紙も入っており、その通りに栄養管理室のスタッフが料理してくれくれる事になりました。職員全員にその旨伝え、当日を待ちました。参加者が少なくて折角用意してくれた料理が残ってしまったらどうしようという心配があり、私自身も会う職員には全て当日来るように伝えました。家内にも来るように言いましたので、家内は開始が5時半なのに5時には院長室に来てくれました。家内も来てくれたので職員食堂に5時10分頃に行ったら、まだ、誰もいませんでしたが、調理室では栄養管理室長が一人でボタン鍋を作ってくれていました。時間とともに職員が続々と集合し、それなりの広さの職員食堂は一杯になってしまいました。栄養管理室のスタッフが御忠告通り、リブステーキとイノカツと牡丹鍋を作ってくれ、皆で頂きました。牡丹鍋は大鍋2杯半作ったのに職員150人ぐらいでペロッと食べてしまいました。若い猪だったせいか料理の仕方が上手だったせいか臭い事はなく、大変美味しく頂きました。特にリブステーキは美味しくて何時までも骨をしゃぶっている人もいました。病院の忘年会でも150人は集まらないのに、今回の企画は大成功でした。こんな田舎に住んでいるので、たまにはこんな行事があっても良いかなーと思いましたし、色々な人と付き合いがあると、こういう楽しい事もあるんだと、リブステーキを肴にビールを飲みながら若い人達には訓示しました。
後日、北海道の柔道整復師の方にお会いした時に「今年は熊が取れるのですが…」と言われたのですが、さすがにそれは丁重にお断りしました。
民主党の代表者選挙が行われ、大差で菅氏が再選されました。今回の結果は、多くの国民の声が反映されたものと思っています。これで少しずつでも日本の政治・経済が改善する事を心から願っています。ただ、これだけ激しい14日間の戦いの後だけに、今後、上手く行くのかなーという一抹の心配があるのも事実です。今回の民主党の代表者を決定する選挙は2名の候補者がお互いの主張を繰り返し言っていましたので、それらを聞いて投票した結果として菅氏が勝利を収めたものと理解しています。結果として国民の感覚は正しかったのではないかと私も思っています。
ただ、小沢氏としては彼が国会議員の立候補者として選出し、昨年の衆議院選挙や今年の参議院選挙で資金はもちろん、選挙のやり方から何から色々と面倒を見て、当選させた議員の何人かが、まさか自分を裏切るとは思っていなかったのではないのかと思います。小沢氏は41年間も国会議員を務め、常に陽のあたる場所にいた人なのに政治家が嘘つきではないと思っていたのでしょうか。私は政治家になりそうになったことはありますが、実際にはなりませんでしたので、政治家の人達の実態は知りません。それにも拘わらず政治家が嘘つきと書いたのは昨年の民主党のマニュフェストとその後の実際の行政との違いに呆れているからです。
私は大学に長くいましたが、そこで今回の選挙後の小沢氏のような心境になったことがしばしばありました。入局してから何かと面倒を見て、医学博士の学位を取ってもらうような段取りをしてやり、希望があれば出来るだけ留学の機会を作ってやり、専門医にしてやり、やっと一人前になったかなー、と思ったら教室の意向とは関係ない所に就職したり、開業したりして、以前にも書きましたが、私がこれだけ面倒見たのに、とがっかりしたことは度々でした。もちろん一人前になるのに最も必要なことは本人の努力なので、全て私がやってやったとは少しも思っていませんが、でも、がっかりするものです。中には本当に出来が悪く、何かと手がかかった人が今でも私を慕ってくれ、時ある毎に近付いてきてくれたりして、正に「出来の悪い弟子ほど可愛い」という人達も何人かはいます。そういう人達は本当にわが子の様に可愛いと思います。
千葉大学医学部整形外科学教室の教室訓は「義理と人情」です。御世話になった先輩を裏切るような教室員は教室訓に反します。先輩や教授の期待を裏切り、一時は得したような人生の歩み方をしても、長い目で見ると損をしている人が多いのでないかと、私は思っています。先日も数年前に北里大学整形外科の糸満教授から脊椎を専門とする人を送ってもらえないかとの御依頼を頂き、熟慮の結果、高相昌士先生に行ってもらいましたら、彼は期待に違わず、頑張ってくれて、先日、主任教授に昇進させて頂きました。高相先生は「義理と人情」と書いた看板を背中にしょって頑張ってくれたから、今回の様な素晴らしい結果をもたらしたものと思っています。今後の彼の御健闘をお祈りいたします。
今年の夏は例年になく猛暑の日が続いていますが、そのせいか、あるいは自分が年をとったせいか、多分両方が重なって、先日、不覚にも熱中症になってしまいました。こう書くと多くの方は、「この暑いのにゴルフのやり過ぎ…」と御思いになるでしょうが、ゴルフとは全く関係なく、熱中症になってしまったのです。
週末の土曜日の午前中一杯かかる仕事があり、ゴルフには行かず、翌日の日曜日の昼過ぎから千葉県国体のトレナーの結団式があり、千葉県体協のスポーツ医事科学研究委員会委員長として、ゴルフにも行かずにその団結式に出席し、引き続き夕方から国体用のスポーツ医学研修会に途中まで出席し、その後、教室の佐粧先生と来年の日整会のシンポジウムの打ち合わせと称してイタリアンレストランでワインを飲みながら2時間ぐらい過ごし、帰宅しました。火曜日に国体の千葉県選手の結団式があり、それも出席しなければならず、月曜日は夏休みを取り、朝から大学で古い文献などを見ながら前日打ち合わせたシンポジウムの抄録を書くという大変幸福感いっぱいの半日を過ごしました。午後は自宅でぶらぶらして早めの夕食で2日続きの一寸多めのアルコールが入ってしまいました。9時ごろには疲れてベッドに入り、午前2時ごろにトイレに行きたくなり、起きて用事を済ませ、明日は昼からの用事なので、このまま寝るのは少しもったいないような気がして、焼酎の水割を一杯ゆっくり飲み、何だか2階の寝室に行くのが面倒になり、1階の応接間のソファーにクーラーのスイッチを入れずに寝てしまいました。
朝早くに目が覚めたのですが、何としても起きられない、2時間ぐらいもそもそしてから、やっと起きたのですが何かボーッとしたまま朝食を取りましたが、全身倦怠感で起きて居られず、2階の寝室に行き、横になったら、今度は激しい頭痛と頻脈に気付きました。もしかしたら血圧が急に上がったかと思い、自宅の血圧計で測定したら上が100、下が30、脈拍134、この時点で何か変だとは思いましたが、まだ熱中症は頭の中にはありませんでした。近くで開業しているゴルフ仲間で千葉大の後輩の古川先生の医院に家内の運転する車で駆け込み、急患として診察して貰ったら「典型的な年寄りの熱中症」との診断で、点滴をしてくれました。点滴が500cc終わったぐらいのところで、口唇が乾いているのに気付き家内にスポーツドリンクと御茶のペットボトルを買ってきてもらい少しずつ飲みました。その頃には頭痛も少しずつ改善し、脈拍も100を切り、血圧もかなり正常まで上がってきました。もう一本点滴が必要との診断で2本目の点滴をして貰いましたが、その間はぐっすりと寝てしまいました。結局、点滴1000cc、ペットボトル2本でやっと回復しました。あのままもう3時間も放っておいたら命も危なかったのではないかと思いました。と同時に週末に京都に講演に行く分はどうしようか、その次の週の週末はゴルフ遠征が予定されており、その次の週の連休は確か富山だった、などというのが頭をよぎり、古川先生に週末の京都の話をしたら、「良いんじゃないですか、ただし、アルコールはほどほどに」と言われてしまい、行かざるを得ない事になってしまいました。
年寄りが朝方「熱中症」になるとは聞いていましたが、それまでは他人事の様に思っていました。考えてみると私も、もう69歳と4カ月の身で若くはありません。週に2〜3例の手術をしたり、外来を週に何回もしたり、色々の会合に出たり、講演に行ったりなどで疲れていたことも事実です。多忙になると、どうしても気分転換と称してアルコールを多少多めに飲んでしまいます。自分の身の危険を察知する能力も老化し減退しているのではないかと思います。もう、何時失っても良い命とは思っていますが、不本意な失い方はしたいとは思っていません。家内からはかなりお叱りを頂戴しました。これからは気をつけますのでお許し下さい。
すでにお聞きおよびの方も多いと思いますが、私は来年4月から千葉市立病院事業管理者になることを千葉市長から依頼され、それを了承しました。元々、鹿島労災病院長はもう1年残任期間があったのですが私が正規に平成24年3月で辞めた時には現千葉市立海浜病院長の廣瀬彰先生に後任として来て下さることの内諾を頂いていたので、今度の話を受けて、それを一年前倒しにして下さるように廣瀬先生にお願いし了解を頂きました。廣瀬先生は千葉一高、千葉大学医学部、千葉大学医学部整形外科教室と私の五年後輩であり、病院長経験者ですし、我々の師匠である井上駿一教授に特別に可愛がられた素晴らしいお人柄ですし、適任だと思っています。
元々横着者の私としては、これから1年半ぐらい働けば後は遊んで暮せると思っていたのですが、とんだ考え違いで、どういう訳かもう4年千葉市で働く事となってしまいました。誰がどう考えて今回の話が纏まったのか知りませんが、多分、自分が長く大学で教授をしていたこと、千葉県医師会の副会長を2年間していたこと、鹿島労災病院長を3年ちょっとしていたことなどを考慮に入れて決めて下さったのだろうと推察しております。私としては鹿島労災病院は千葉の自宅からは少し遠いので、その点は多少楽になるのではないかと思っています。
それにしても私の人生は自分の予期せぬ方向に色々と進んでいきます。横綱審議委員も予想外の展開で就任させていただきましたし、その結果として内舘牧子女史や山田洋次監督を始め、多くの有名な方と知り合いになることが出来、土俵際で相撲を見る事が出来る維持員になることも出来ました。昨年には、日本プロゴルフツアー機構の医事委員長も御指名頂き、石川遼ちゃんを始め多くのプロゴルファーにも会う事が出来ましたし、現在は大変幸せな人生だと心から思っています。なぜ、こんなことになってしまったのか、改めて考えてみましたが、教授時代は病院長選挙に3度立候補し(立候補させられ?)全敗、学長選挙にも立候補して敗北、この頃は何となく気が滅入ってしまう感じでしたが、今考えてみると、学長選挙の敗北が自分の考え方を大きく変えたように思います。それまでは自分の考え方は間違っていないと常に思って行動していましたが、それからは他の人はどう考えているのか、を常に考慮するようになりました。これがいうなれば人生のturning pointだったように思います。
元々、今回の話は千葉市立2病院の財政再建をお願いされて出た話ですが、現在の診療報酬支払制度ではどんなに頑張っても、悪いことでもしない限り収支は黒字にならないのではないかと思っています。教授時代は多少経済的な事も考えながら主に医学をしていましたが、病院長になってからは常に経済を考えた医療をしていて、こんなに働いているのにどうしてこんなに給料が安いのかが、最近やっと判りました。病院というのは診療報酬による収入の割に、何と多くの支出項目のあることか、これでは医師の給料が安くても仕方がない、という感じです。厚労省は病院を存続させる為に、医師、研修医、看護師、緒設備などをそろえていると、何とか加算が出来るというのを沢山並べていますが、ド田舎の鹿島労災病院では医師は集まらないし、看護師も10対1をやっと守るぐらいしか集まらないし、研修医はここ2年全く来ませんし、何とか加算の適応になるものはほとんど無く経営は非常に苦しい状態です。
来年4月から千葉市病院事業管理者という事で、どれだけ財政再建が出来るか、千葉市民の健康維持に貢献できるか判りません。少なくとも自分の健康には良いんじゃないかと考えて、やっていこうと思っています。
開催が危ぶまれていた大相撲名古屋場所も白鵬の全勝優勝で終わり、昨日、恒例の横綱審議委員会が両国の国技館2階会議室で日本相撲協会から村山弘義理事長代行の他、謹慎明けの出羽海親方、陸奥親方、八角親方、謹慎とは関係なかった山科親方、尾車親方らが同席し行われました。冒頭に武蔵川理事長のメッセージを山科親方が代読し、「本来なら出席しなければならないところ、病気療養中であり、失礼します。今場所は特に諮問することはありません」との事でありました。
次いで村山理事長代行が「色々と世間をお騒がせして申し訳ございません。白鵬が15戦全勝で優勝し、47連勝したのは大変立派でした。これからは二度と今回の様な不祥事が起こらないように、ガバナンスの整備に関する独立委員会が頑張ってくれると思いますので、その提言を受けて反社会的勢力と手を切るように努力します。」との挨拶がありました。
横審側からは、先ず始めに鶴田委員長から「白鵬があんな立派な成績を収めたのに何故天皇賜杯をあげなかったの?」の質問があり、それに対しては、「文部科学省から総理大臣杯をあげない、という話があり、それなら天皇賜杯も遠慮しよう、それならその他も辞退して表彰状と優勝旗だけにしよう」という事になったとの説明でした。TV放送をしなかったことに関してはNHKの福地会長が「視聴者の声です」と確信を持って発言していました。さらに「ダイジェスト版も気合を入れて作るように指示しました」と言っていましたが、「相撲のTV放送を楽しみにしている方は全国に沢山おり、今回中止したことは大変残念だ」との意見が複数委員から出されました。特に相撲の大好きな澤村委員から「相撲はダイジェスト版などで見るものではなく力士が花道から入ってくるところから見るのが楽しいのに、今回のTV放送のダイジェスト版は見る気がしなかった」、と大変立腹して言っていました。私も1回だけダイジェスト版を見ましたが、とってもつまらないものだったので、2度と見ませんでした。受信料を取っている公共放送なら放送するのが当たり前だと私は思っています。長いものには巻かれろ的な体質は止めて、九月場所は是非、TV中継をしていただきたいと思っています。
「これだけの不祥事があったにも係らず横審委員に何の連絡もなかったのはどうしてか?」との質問が山田洋次監督らからあり、村山代行が「それは広報部の不手際で誠に申し訳ありませんでした」と述べ、同時に広報部担当理事の陸奥親方から「すみませんでした」、とのお詫びがありました。さらに山田委員から、「頂いた手紙も木で鼻を括ったような議事録だけで、横審を何と心得ているか」、とのお叱りの言葉がありました。さらに、内山委員から「親方、特に改革を謳って理事になった貴乃花親方などはマスコミで色々報じられているが、自ら身ぎれいにならなければなりません」とのきついお言葉がありました。
最後の方に私から「ガバナンスの整備に関する独立委員会という名前は大相撲に非常に似つかわしくない名前の様に思いますが、誰が付けたのか、そして誰が何処から独立するのか?」と聞いたのですが、「特別調査委員会がそのようにしなさい」と言ったからです、との回答だったので、「改革をしなければならない張本人であるお相撲さん達はガバナンスという意味が判っているのですか?」と言いましたら村山代行が「今、流行の言葉なので…」と言葉を濁していました。その辺でいつもよりかなり長い約50分の横審が終わりました。何時も横審の後には懇親会があるのですが、私は今回だけは懇親会に出席する気になれず、そのまま帰宅してしまいました。
そういえば大学在職中に工学部と医学部で共同研究をするような施設を作る時に当時の文部省の役人さんから既存の名前では許可が出ず「千葉大学フロンティア・メディカル工学研究センター」というやたらに長い名前にさせられたという事を聞いたこともありますし、医学部が全て大学院となった時に各科が競って長い名前になり、整形外科も運動器機能再建外科と名前を変えましたが、「何それ?」と言われ続け、1年で元に戻しました。現在では同様に元に戻している科が沢山あります。
今回の「ガバナンスの整備に関する独立委員会」も多分文部科学省あたりの入れ知恵で名前が付いたのではないかと推測しますが、何をしたら良いか判らず、結局、何も出来ずに終わらなければ良いが、と案じています。
私が横綱審議委員を務めている事は何度か書きましたので、多くの方はご存知の事と思います。横審はそれなりに楽しく務めさせていただいております。その楽しさの中には山田洋二監督や内舘牧子女史、澤村田之助氏らと場所総見の後の食事会なども含まれています。横審は毎場所後の月曜日の夕方5時半から両国国技館の2階会議室で行われます。今回の名古屋場所後にも開催されるかようですが、委員会には出席しますが、さすがに宴会気分にはなれないので、委員会後の懇親会は欠席することになりそうです。
朝青龍が色々と問題を起こした頃は少し早めに集まり、控室で雑談風に話をまとめてから会議に入りました。ただ、朝青龍に引退勧告を出した2月4日の臨時横審の時は鶴田委員長が「今日は引退勧告を出しますが、委員の皆様宜しいですね」と言い出して決まってしまいました。その直後の横審で鶴田委員長が発言する前に武蔵川理事長から「本人からご迷惑をお掛けしたので引退したい、と申し出がありましたので、受理しました」、との発言があり、朝青龍引退が決まってしまいました。
それにしても相撲界では色々の事が起こります。昨年の名古屋場所で暴力団組長が維持員席で相撲を観戦していたとして問題になりましたが、それ以上に今回の野球賭博はどれだけ根が深いのか判りません。そもそも横綱審議委員会が出来たのはやくざと深いかかわりがあったからです。1789年に吉田司家が谷風・小野川に横綱の免許皆伝を出して以来、60年前の1950年までは優勝などしなくとも大関で人気があれば横綱免許授与式・奉納土俵入りを熊本の吉田司家で行い、横綱として認められていました。それが、1950年に3横綱が相次いで休場し、横綱土俵入りが無いまま本場所が行われる事態になってしまい、その陰にやくざとの関係が噂され、吉田司家と手を切るために外部の有識者だけによる横綱審議委員会を作り、日本相撲協会審判部が横綱にふさわしい人を推薦し、それを理事会で協議し、結果を横綱審議委員会に諮問し、決定するという手続きにしたようです。そのようにして完全にやくざと手を切ったはずでしたが、まだ何かあったのでしょうか。
話しは変わりますが、鹿島労災病院では東京で場所が行われる時には桝席を7枡か8枡購入し、マイクロバスを借りて、両国国技館 へ職員バスツアーを企画して、楽しんでいます。私がチケット確保を協会にお願いするので色々と便宜を図ってくれるのですが、一つ変なのは桝席料を前もって現金書留で送らなければならないことです。今の時代、銀行振り込みとかは出来ないのかと聞いてみたこともあるのですが、協会は全てこのようにしていますので、との答えでした。このような体質が今回のような野球賭博と何ら関係が無いとは言えないのではないでしょうか。事務そのものも現代風にしていかないと、現実の世界とはかけ離れた存在のままになってしまうような気がします。その点、今回、代理とはいえ村山氏が理事長になったのは良かったのではないかと思っています。
あれだけ大きな体をして、ちょんまげを結っていたら、どこへ行っても目立ってしまい、社会生活も相当制限されてしまうのではないかと思います。そういう点では可哀そうな気もしますが、それはその他のタレントさんでも同じなのではないでしょうか。そうだからと言って野球賭博をし、そのお金の一部が暴力団に行っていたのなら、それはやってはならないことです。しかし、日本人は相撲が大好きなので、たとえ横綱・大関陣に日本人は魁皇一人になっても、相撲のTV中継を楽しみにしている人は非常に多いと思います。今回NHKがTV中継を中止した事は個人的には大変残念に思っていますが、お相撲さん達のやっていた事は悪い事です。この際、出すべき膿は全て出して、出直して頂きたいと思っています。
いつの間にか、千葉大学医学部卒業の同期クラス会の万年幹事となってしまい、幸いにして元気なので、昨年のクラス会で「毎年6月の第1日曜日にやる」と決めた事を受け、今年は6月6日の日曜日に開催しました。現在、既に物故者となっている人が10名おり、残りの85名に往復はがきを出しましたが、3名は宛先に住人が居なく、33名から出席の返事を頂き、36名が欠席の返事、13名は返事をくれませんでした。手紙ですから着かないという事もあるかも知れませんが、往復はがきなので返事ぐらいくれれば良いのにと、思いました。
結局、当日は例年通りドタキャンが2名あり、31名の出席でした。去年より5名増の出席者でした。今年は幸いにして黙祷をする対象者が無く、皆で無事を祝いました。集合写真を撮った後に、2期8年真岡市長を務め、昨年政界から引退し、今は医者として頑張っている福田武隼君の発声で乾杯し、各々に現況報告をして貰いました。何人かはもう現役引退で悠々自適の生活をしていますが、ほとんどのクラスメートは、そろそろ引退したいが、まだもう少し働くという状況のようでした。皆さんそれぞれ楽しいスピーチをしてくれましたが、金沢医大小児科教授を10年ぐらい勤めて、今は千葉に戻ってきている高橋弘昭君は長くアメリカで医者をしており、最後はジョン・ホプキンス大学で準教授をしていただけあり、欧米文学を原語で読んでいるが、これからはもっとたくさん読むという事と、バイオリンを習っていて演奏会にも出場したという話をしてくれ、谷口克君は得意なNKT細胞でこれからの癌治療法が変わるという話などをしてくれ、皆から拍手を浴びていました。その他に健康増進に気を付けてスポーツジムに通って若いお姉ちゃんにエアロビの指導を受けているとか家庭菜園をしているという話も何人かからあり、難聴になってしまって補聴器を使っているが、そうすると聴診器を使いづらいという哀れな話をしてくれた級友もいました。色々と話が続きましたが、最後に私が横審ウラ話として「どうして朝青龍は引退したか」を話して個々の現状報告は終わりになりました。
次回は1年後の6月5日(日)に開催すると決めましたが、ここでクラスメートの中で1番元気な谷口克君が来年からはクラス会当日早朝ゴルフをしてから集まろうとの提案があり、そちらは伊佐治尚文君が幹事となり、希望者は参加するという事と、もう毎年話すこともない人が増えているので、話したい人だけ話をし、話したく無い人はパスする事が出来るという事を決め、来年も黙祷の無いように元気でいる事を誓い合って、散会となりました。話し足りない人が10数名おり、2階のコーヒーショップで昼間の2次会を行い、1時間ぐらいおしゃべりをして、お開きとなりました。
今回のクラス会では人間70歳前後になってしまうと現役時代に華々しかった人も平凡な医師人生を過ごした人も、皆平等になり、かつての同級生として旧交を温めることが出来るという事を改めて認識しました。人を掻き分けてでも前に出たいと思っている若い後輩達に「そんな事をしても人生最後は同じだよ」と言ってやりたくなりました。今回は今まで出席しなかった人も5人出席してくれ、大変楽しい会であったと自分では感じました。多分、年のせいでお互い元気で会えて良かったなーという気持ちが楽しく感じさせたのだと思いました。
今年の春は寒い日があったり、初夏のような日があったり、非常に不安定な天候の日が続きましたが、このような春には花が咲こうか、もう少し待とうか迷うそうで、洒落た言葉で「花惑いの春」というのだと先日TVで言っていました。年のせいで直ぐに忘れてしまうので、敢えて今回のタイトルとさせていただきました。鹿島労災病院のある神栖市の空き地にはあちこちに咲こうかどうか迷った挙句、例年より多少遅めに咲いた大錦鶏菊がやっと満開になり、いよいよ初夏になったという感じがしています。
先日、家内が大錦鶏菊の奇妙な行動(?)に、気付きました。大錦鶏菊は常に陽当たりの良い方を向いているという事です。朝は太陽が出てくるとそちらの方を向き、まだ日が当っていないところの大錦鶏菊はバラバラの方向を向いており、日光がガラスで反射しているところでは、そのガラスの方を向いています。夕方になると、夕陽の方を一斉に向いてしまいます。大錦鶏菊は常に太陽の方を向いているようです。かつて恩師の井上教授がご健在の頃に、私は日陰の大錦鶏菊の様に勝手な方向を向いて行動していましたが、常に井上教授の動向を気にし、井上教授の方を向いていた教室員が居た事を思い出しました。
病院の正面玄関にある患者案内のテーブルに何時も1〜2鉢の花が飾ってあります。現在は、かつての教室員が一昨年私の誕生日に贈ってくれたハイビスカスと前病院長の中島先生が枯らしたまま院長室に置いてあったものを家内が養生して真っ赤な花を咲かせたアマリリスが置いてあります。私は花の手入れなどは全く不得手ですが、病院という性格上、患者さんの慰めになればと思い、家内に協力して貰って肥料をやったり、鉢を植え変えて貰ったりして花が咲くと宿舎から病院へ持ってきています。私は花の名前も余り知りませんし、何時も家内に教えて貰っているのですが、中々覚えられません。もしかしたら覚える努力が足りないのかも知れません。でも、ほとんどの職員は私より花の名前を知りません。先日、私は知ったかぶりをして、「これがハイビスカス、これがグラジョ―ラス」と言って職員に得意げに説明していたら、脇にいた患者さんに「これはアマリリスです」と言われてしまいました。とんだ失態でした。
ホールインワン騒ぎをした6日後に、遂に愛犬コロがあの世に行ってしまいました。昨年夏頃から咳込むようになり、動物病院へ連れて行ったら「気管支狭窄」と言われ、投薬を続けていました。しばらく、その薬を続けており、たまたま家内(薬剤師)が動物病院へ薬を貰いに行くことが出来なかった時に、自宅近くで薬局を開業している元同僚のところへ行って買い求めてビックリ。動物病院では一錠70円だったのが、その薬局では10円でした。確かにその薬は効いていたのですが、徐々に体力が低下、5月10日朝4時頃に激しく咳込み、起きて行ってみたら、もう立つことが出来ず、過呼吸状態であり、その後ゆっくりの呼吸になりました。私はその日はどうしても病院に来なければならず、早めに家を出て、病院で仕事をしていたら、お昼頃に家内から「息をしなくなった」という泣きながらの携帯が入りました。16歳でした。人間に換算すると7を掛けるそうで112歳の大往生でした。ここ1カ月ぐらいは大変苦しそうだったので少しホッとしたところもあります。夕方、仕事終了とともに帰宅。翌日に動物葬儀社に頼んで出棺としました。
もともとコロは16年前に先述の動物病院の院長先生から譲り受けた犬で、血統書つきの柴犬で、それなりのお値段でした。我が家の子供は息子だけでしたので彼が小学生の頃、情操教育の一環として犬を飼うことにしたのですが、初めこそ息子もコロの散歩をしてくれましたが、ほとんどは家内にお願いしてしまいました。コロが我が家に来ると同時に可愛い犬小屋を買い求め、数年はそこで暮らしていましたが、その内に息子は東京の大学に行き都内に住むようになり、私は学会などで家を留守にすることが多く、家内はコロでも家の中にいてくれると多少安心するようでいつの間にか室内犬になってしまいました。息子とコロの関係は兄弟のようで、息子が帰宅し昼寝をしていると、そばでコロが平行になって寝ていることがよくありました。息子がそれなりの優しい子に育ったのもコロのお陰もあったのかもしれません。近所の人達はもちろん、教室員の人達や洗濯屋さん、ダスキンのおばさんなどからも大変可愛がっていただきました。良い一生だったのではないかと思っています。
そもそも、今回亡くなったコロは2代目でした。初代コロは大学にまだ動物舎が無かった頃、整形外科病棟の中庭で実験用の犬を飼っていたのですが、ある時、非常に可愛い犬が生まれ、息子が生まれるかなり前で家内も寂しがっていたので、その子犬を我が家に連れて帰り飼うことにし、コロと命名しました。10年ぐらい飼っていたように思いますが、ずっと庭で飼っており、その頃はフィラリアの予防注射も無く、最後はフィラリアで腹水が貯まり、亡くなりました。初代コロが亡くなった翌年が戌年であり、その年に息子が生まれました。ですから息子は初代コロの生まれ変わりかなーと思ったりした事もありました。従って息子と2代目コロが兄弟のように心が通じ合っているように見えたのは何かの因果かも知れません。
コロは晩年には朝5時と夕方5時、夜9時になる時計が判るのかなと思うほど決まって咳込み、散歩に連れていくと元気に歩き用事を済ませていましたので、近所の人はまだまだ元気だろうと思っているようですが、実は家に帰ってドッグフードを食べ、それ以外の時間はただ寝ていました。散歩はもっぱら家内がしてくれており、よくやってくれたなーとつくづく感謝しています。コロと一緒の16年間には余りにも色々な事がありましたが、コロが居てくれたことで慰められた事が多かったと、今頃になって感じています。コロの居ない自宅や院長宿舎に帰るとどこからかコロが出てきそうで、その度に悲しい気持ちになります。我々夫婦はもうすぐ70歳ですので3代目コロを最後まで面倒を見ることは出来そうもありません。残念ながらもう犬を飼うつもりはありません。そして、残ったのは金魚のキンちゃんだけになってしまいました。
遂にやってしまいました。連休中にコロの具合も良くなく、家内は老犬介護で遠出も出来ず、仕方なく5月1日は旧友の鈴木一郎君の代わりに本袖へ、2日は学生時代からお世話になった茂原の宍倉先生と本袖に、1日休んで(と言っても午後から新袖で練習)、4日は同門先輩の谷口滋先生の命令で林国春先生、山中力先生と4名で、また本袖へ行きました。この同伴競技者が当日の勝因だったのかもしれません。OUTからの出だしはダボの6、谷越えの2番はボギーの6、3番ダボの6、4番もダボの6、ここで山中先生に「全部6だなー。昨日ジャイアンツの脇谷が満塁ホームランを打って、その後変わるでしょうと解説者が言っていたけど、君もこの辺でホールインワンをすると、変わるかもね!」と言われたのが、今思うと前兆だったのでしょうか。5番のショートはかろうじて4で凌ぎ、6番はやっとパーの4.これから4を続けようと思ったらまたダボの6。がっかりして8番に向かいました。168ヤード、ピン奥、ややアゲインスト。胃癌との戦いで、やっと半年前に抗癌剤を終了することが出来、未だ筋力が十分には回復しておらず、175ヤードはスプーンでは無理とは思いましたが、少しクローズドに構えて、エイヤッと打ちました。球は真っ直ぐピンに向かって行き、ワン、ツー、スリーバウンドでカランコロンという音がしました。「アレッ入っちゃった」という感じでした。後ろの組が勝手に「バンザーイ」と言ってくれました。生まれて初めてのホールインワンでした。
そもそも私が始めてラウンドしたのは40年前に栃木の上都賀病院に出張に行っていた時でした。成績は57,57でした。バーディーも一つ取りました。小学校の時から体育は全くダメ。好きだった野球もライトで8番で時々出してもらえるライパチ。運動会でも6人で走って、真面目には走らないのが一人はいて5番。もの凄い運動コンプレィクスでした。体を動かし汗をかくのは好きなのに、運動音痴ばかりの医学部で、卓球部でもスキー部でも何時も控え選手。それが初ラウンドでの57、57で、もしかしたらゴルフの才能はあるかなと自分でも思い、鹿沼のゴルフ練習場に行き始めて3カ月後、井上教授から「明日から教室に帰ってくるように」とのお電話を頂きました。半年前に結婚もしていましたし、当時の引っ越しはそれなりに大変で、翌週に帰局するという事でお許し頂きました。帰局したらゴルフなんて全く頭の中から消えてしまいました。やっとゴルフを復活できたのは、自分が医局長になった頃だったと思います。同門会のコンペの次郎杯に教授が出場する時の運転手あるいは付き人としてお伴しました。井上教授はスケートとボーリングは得意だったと言っていましたが、ゴルフは本当に下手でした。私も年に1〜2回のラウンドではメケメケでした。でも、その頃を含め、我人生で57,57以上は打ったことはありません。
ホールインワンの後に昼食に行く前にそっと家内に「ホールインワン保険入っている?」と携帯して「やっちゃったの?」「うん」 「大丈夫。入っている」ホッとして昼食。ビールで乾杯。さっきバンザ―イと言ってくれた後ろの組のテーブルにビールを届け、ワイワイガヤガヤ昼飯を済ませ、午後のハーフに。そして10番バーディー、11番から3連続パー。どうなっちゃっているの?と思っていたらその後は何時ものゴルフで、終わったら結局40。上出来、上出来。上がって風呂に行ったらもうほとんどの人が知っていました。その後も「ホールインワンしたんですってね。おめでとうございます」と言ってくれたり、メールを下さったりする方がいます。有り難いことと感謝しています。
連休明けに保険会社に電話したら何と手続きの面倒なことか。同伴競技者全員とキャディーさんにサインと捺印を頂き、必要事項を書きいれて保険金請求書を提出するのだそうです。そんなに面倒なら、記念植樹はもちろんせず、パーティーもせず、お祝いを言って下さった方には申し訳ないのですが、以前からお付き合いのあった2つほどの心身障害児者施設に保険金を寄付して済ましてしまおうかなと思ったりしています。
でもゴルフは続けられるだけ続けます。そしてもう一度ホールインワンをしたいと思っています。
以前にも書きましたが、しばらく、と言っても、たったの1ヵ月ですが、絶対的にではなく、少し緩めの禁酒というか節酒と、出来るだけ運動をするようにし、食事は多少カロリーの高いものは避けるようにしていました。最初の3週間は完全に禁酒とし、その後は我慢が出来なかったので節酒として、夕食時の飲み物をウーロン茶で済ませ、寝る前に一寸だけ寝酒を飲む程度にしていました。運動は一日1万歩以上歩くのと週1回のゴルフを心掛けていました。食事も多少気を付けていましたが、後半はトンカツもすき焼も食べてしまいました。その結果、たったの1ヵ月でHbA1cが1ヵ月前の6.6%から、何と5.1%に改善してしまいました。以前から、そんなに酒を飲んでいた訳では無く、ゴルフだって、むしろ大学時代より回数は減っているのですが、何はともあれ改善して良かったです。
問題はこれからです。夕ご飯の時にアルコールを飲まなくても美味しく頂けることが判り、このところビールも飲まずに夕ご飯や宴会を済ませています。ただし、寝る前に、何も飲まないのは何とも寂しく、少しだけ寝酒を飲むのはどうしても止められません。でももうHbA1cが5.1%だし、空腹時血糖は100以下ですし、この程度の飲酒は許されるのではないかと思っています。運動も最近はゴルフの後に腰痛が起こってしまい、治るのに3〜4日掛かってしまいますが糖尿病の治療と心得て、続けるつもりです。
という訳で、何とも簡単な糖尿病に対する闘病騒ぎでした。父を糖尿病による脳梗塞で亡くし、兄は糖尿病で合併症のデパートのような状態で、血統的には糖尿病になる確率が非常に高い状態ですが、正しい医学知識を持って正しい対応をすれば、こんなに早く良くなるのは驚きですが、この程度の対応で良くなるという事を糖尿病のボーダーラインの人にお知らせしたいと思っています。知人の一人が本を書いたら売れますよ、と言ってくれましたが、3ページぐらいで終わってしまいそうなので、それは止めました。
さらに問題なのはゴルフクラブの買い替えです。先週の土曜日にゴルフショップに行ってどのクラブが良いか試打をしてみたのですが、どのドライバーでも飛距離はやっと200ヤード、これではクラブを買い替える必要性は無いのではないかと思ってしまいました。さらに、その翌日には新袖でラウンドし、ショートアイアンで何度も大ダフリやトップが出てしまい、これはクラブのせいではなく打ち方に問題があるとしか思えず、アイアンも買い替えてもどうしようもないのではないかと思ってしまいました。どなたか良いアドバイスを頂けると有り難いと思っています。
胃癌の手術を受けてから2年と4ヶ月が過ぎ、自覚的にも、月に一度の検査でも、何の異常もなく、そちらは完治したのではないかと勝手に思っていますが、糖尿病は油断すれば何時また再発するか判りません。この際、食事は、ある程度気を付けるぐらいにして、アルコールは今のままの状態で、運動も出来るだけするように心がけていれば、血糖のコントロールは出来るのではないかと思っています。もし、腰痛でゴルフが出来なくなったら、アスレチィククラブに入って、プール通いでもするつもりです。
そして、今回の糖尿病騒ぎで一番効果のあったのはこの「独り言」に書いてしまう事だというのに気が付きました。元々あまり自制心のある方では無いので、ここに書いてしまえば、それを守らなければ誰に何を言われるか判りませんので、最高の抑止力です(何時まで守れるかな…?)。
今日は愛犬「コロ」の16歳の誕生日である。相変わらず散歩は大好きだが、このところ大分ボケが進み、もう神栖には連れてこられない状態であり、家内が千葉で老犬介護をしていて、従って私は老体に鞭打って神栖に単身赴任、自炊生活をしている。今朝などはご飯、油揚げと大根の千切りの味噌汁、納豆、漬物、干物の鯵という健康食であった。
とはいえ年をとると免疫力が低下し、ストレスに対する耐久力も低下するのを最近実感している。今日も、かつての弟子が開業することになったからとの事で挨拶に来られ、大変ショックを受け、がっくりきてしまった。長いこと大学で教授をしていて、がっかりさせられる事は多々あったが、その中でも折角育てた中堅医師が開業してしまう事は、特に全身から力が抜けてしまい、何とも寂しい感じがした。一言で言えば小松秀樹氏が言った「立ち去り型サボタージュ」である。ある程度の知識も備わり、手術もこなせる様になった時に、ふと立ち止まり、このままでよいのかな、と考えると、家には小学生か中学生のお子さんがいて、彼らを育てていかなければならないと考えた時、選択肢の中に開業が浮かんできてしまうのは仕方のない事なのかもしれない。霞が関でも若き有能な官僚の中で、公務員を辞め、自分で会社を興したり、head huntingにあったりすることが頻繁になっているようであり、国策の間違いが全ての根幹にあるように思う。
かくいう私自身、大学で講師をしていた頃、夜中の1時頃に教授室にお伺いし、恩師井上教授に「開業したいがお許しいただけますか」と聞いた事がある。その時は私自身このまま10年以上大学にいた方が良いのかどうか迷っていただけであり、強く開業を希望していた訳でもなかったので、井上教授からお許しが出なかった事を幸いにそのまま大学に残させて頂いた。
出来上がった中堅医師が開業してしまうのは、今の日本での勤務医の待遇では、それが不満の場合はどうしようもない。教授現職中に「この女性と結婚する」というのと「家を新築する」というのと「開業する」というのはカップルの中で夢が膨らんでしまっており、何としても止められなかった。整形外科医のように最終的には手術をして治すという手段を放棄して保存的治療だけをする医師になるのだから、国家的には大変な損失であり、その結果が地方での医療崩壊に直結している。ただ現在の診療報酬支払制度では、経済的には勤務医より開業医の方が圧倒的に有利で、一般的には開業医の所得税ぐらいを勤務医がbefore Taxの年収として得る事が出来れば上出来の状態である。
元々日本では第2次世界大戦終了時まで医療費はタダだった。その為、江戸時代から全国の名医といわれた人達は死んで大きな借財を残したようである。あの花岡青洲が結婚直後に京都へ国内留学していた時は、お父さんが開業していたにも拘わらず、お母さんとお嫁さんは機織の内職をして家計を支えていたといういう有名な話がある。日本人の医師の血の中にそのような志が残ってくれていればと願っているが、終戦後アメリカ軍の指導で国民皆保険となり、出来高払いだったこともあり、開業医はそれなりに裕福になってしまった。勤務医を辞め、全てを自分の責任でやる開業医なのだから、それなりの収入があってもそれは納得のいく話である。しかし、開業医は戦後に、その経済力を背景に医療制度をさらに開業医有利に導き、その結果が現在の「立ち去り型サボタージュ」となってしまった。「医は仁なり」などという言葉はもう死語なのではないだろうか。勤務医にも家族もあり、老後の生活もあるので、開業と決めたことは非難出来無い。鹿島労災病院も今春医師が2名減り、間もなくもう1名退職する。今後当院がどうなるかは全く判らない。
ただ、整形外科医として一生懸命勉強し、それなりの手術も出来るようになった中堅医師が開業すると、患者さんの治療方針を正しく決めることが出来るという点において、素晴らしい面もある。ろくろく勉強をしなかった教室員が開業すると、診断も治療方針もいい加減で困ったものだと思うのと大きな違いである。今日、わざわざ鹿島労災病院まで開業の挨拶に来てくれたS君はもちろん前者であり、今後のご健勝、ご健闘を祈るばかりである。
ご存知の方も多いと思いますが、私は千葉県の片田舎の造り酒屋の3男坊です。母親は非常に酒が強かったのですが、父親は猪口2杯も飲めば真っ赤になり、寝てしまうような下戸でした。私は1年浪人し大学に入学、5月に20歳となり、お酒解禁となりましたが、それまでは父親から法律で酒は20歳になる迄、飲んではいけないと決められているので禁酒と強く言われていました。はじめはビールコップ1杯で真っ赤になり、頭ががんがん痛くなってしまいました。しかし、いつの間にか少しずつ強くなってしまい、夜、酒を飲まないと眠れなくなってしまいました。この辺は父親には似なかったのかも知れませんが、父親と兄2人が糖尿病であったこともあり、自分も糖尿病になってしまうのではないかと心配になり、10年ぐらい前に糖負荷試験を受けたりしたのですが、全く正常で、「絶対大丈夫です」と当時の内科教授に言われ、以後、安心して飲んだり食べたりしていました。千葉大学在職中にも毎年健康診断を受けていて、一回だけ尿糖(+)になり、再検で(−)だったので、自分は糖尿病にはならないと信じていました。
鹿島労災病院に就職した年の6月に健康診断を受け、糖尿病と診断され、以後、食事療法と運動療法を行い、かなり改善しました。その後、胃癌の手術を受けて胃が1/4になったのに、糖尿病の検査であるHbA1cは少しずつ悪くなってきました。特にそれまで6.1%前後(5.8%以上が糖尿病)だったHbA1cの値が3月の検査では6.6%になってしまいました。家内からはこのところ家にあるアルコールの減る量が非常に多い、となじられていました。何故そんなにアルコールを飲んでしまったかと言うと、いろいろ原因はあるのですが、最も大きいのは労災病院について本部で年に一度やる「病院協議」ではなかったかと思っています。どんなやり方をしても、鹿島労災病院の様なところは最終的には赤字になってしまうのが、現在の診療報酬支払制度です。一部の医師は危機感を持ち頑張ってくれているのですが、一部の医師はのほほんとしていて、病院の経営などは全く考えていないとしか思えません。それならそれで良いのですが、自分達の将来像をどう描いているのか理解に苦しみます。そのような事を踏まえ、病院協議でどう言うか、アルコールを飲みながら考えていました。
でも、最近、もうそんな事を心配しないと決めました。病院はなるようにしかならないと考え、余計な努力や心配はしない事として、自分の健康の為にアルコールをしばらく止めて、自分のHbA1cを良くする事に専念する事としました。禁酒7日間、その間出来るだけ歩き、少しジョギングしてHbA1cは6.6%から5.8%に下がりました。でもこの1週間には新高輪グランドプリンスホテルでの整形外科セミナー企画会議後の豪華中華料理フルコース、千葉県整形外科医会の講師をして下さった神戸大学黒坂教授との寿司屋での宴会、横審の後の高級料亭での懇親会、これらを全てウーロン茶で過ごしました。もちろん院長宿舎や自宅で過ごした夕食時もウーロン茶だけでした。
夕食後にTVを見ている時は良いのですが、本を読んだり、書き物をしたりしていると何とも手持無沙汰で、つい、水割りなどがほしくなってしまいます。そこを我慢し、大変無理して禁酒を続けています。でも、禁酒して、翌朝から大変体調が良いのに、初めて気付きました。酒がこんなに悪さをしているとは知りませんでした。
今後は死ぬまで禁酒というわけにはいかないので、先ず1ヵ月だけ禁酒し、結果を見る事としました。次回検査してHbA1cが5.7%(正常値の上限)以下だったら、御褒美として糖尿病の治療の為に続けているゴルフのクラブをセット毎全て新しいのに買い替える事とお酒を少し再開する予定です。
私は何と言っても造り酒屋の3男坊で、親の遺言で酒は止められませんので。後、3週間頑張ってみます。