守屋秀繁名誉教授の独り言
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名誉教授の独り言 (86) 病院事業管理者としての1年
平成24年 3月19日

 千葉市病院事業管理者としての仕事に慣れてきましたので、この1年を総括して、その印象を述べます。これは多くの市民の方も聞きたい事かとも思います。と申しますのは、先日の平成24年第一回千葉市議会での代表質問でも、市民ネットワークの山田京子議員から「病院事業管理者としての1年の感想」を求められました。そうです。私の仕事の一つに市議会出席というのもあるのです。ひな壇の最前列に市長、2人の副市長の隣りに一つ空席があり、その隣りに座っていなければならないのです。元々このような席に座るのは苦手であったので、そのような職種は避けてきた人生だったのに人生最終段階でこんな事になってしまいました。前回の議会ではつい、うたた寝をしてしまい注意されたりなど、誠に居心地の悪い、というか慣れないというか、そういう仕事でもあります。
 山田議員の質問に対する答弁では、「病院事業管理者というのは中々のhard jobだったなー、というのが私の偽らざる感想であります。具体的には、私は始めに両病院の経営分析を詳細に行いましたが、その結果、様々な経営課題の原因は年間40億円前後の繰り入れ金(ここだけは繰り返し言いました)を前提に経営している永年に亘る繰り入れ金依存体質によると考えました。千葉市立病院改革プラン見直しに当たっての基本方針として、市立病院として自立自尊の精神による持続可能な経営体質への転換を目指す事としました。そうすれば千葉市の財政に依存することなく、病院運営を維持・発展させる事が出来ます。ただし、これは‘言うは易く、行うは難し’であり、私の残された3年の任期中に完遂する事は出来ないだろうと考えておりますが、現在、出来るところまでやろうと決意をしているところです。また、実務的には、青葉、海浜の二つの市立病院が一体的に運用されていない事も問題であり、平成24年度当初より、両病院を一体的に運営し、両病院それぞれ得意な分野を専門特化し、医療の質をさらに向上させ、市民の期待に応えたい、と考えております。残任期間、誠心誠意努力するつもりですので、今後とも宜しくお願い申し上げます」というような事を申し上げましたら、何人かの議員さんから拍手を頂きました。
 そもそも繰り入れ金依存体質を作ったのは千葉市であると私は考えています。市民に良い医療を提供して下さい、その後で出た赤字は千葉市が全部負担します、で30年近くやってきて、急に千葉市の財政が逼迫してきたので何とかして下さい、と言われても医師、看護師を始め、現場は戸惑うばかりです。そもそも組織上は無理かとは思いますが、私自身、千葉大学を定年退職後に千葉市の仕事をして頂きたいと教授在任中に言われていればもっとやり方もあっただろうにと思う事が多く、場当たり的な千葉市のやり方に戸惑っているというのが本音です。
 現在、全国の公立病院が医師不足、経営困難で苦慮しています。ただ単に選挙のために、何の考えや裏付けも無く、公立病院の設立や増床を公約し、政争の具にしている政治家もいますが、そもそも公立病院を運営していくなどという事は50年、100年の計でなされるべき事だと私は思っています。個人的には医療をネタに金儲けをしているなどという事は許されるべき事とは到底思えず、基本的には医療は全て国営でなされるべきとは考えていますが、イギリスでの大失敗の歴史を認識していますし、同時に、当然のことながら、両市立病院の職員に稼げ!とか、儲けろ!などと言う事も出来ませんし、私の命令に従えとも言えません。今後ともこの病院で働きたいようでしたら一緒に努力してくれませんか、ぐらいしか言えません。それでも平成21年度の繰り入れ金は50億円弱だったのが平成24年度は37億円弱で予算を組みましたので、職員一同頑張っている事だけは御認め頂きたいと思っています。その他、複雑すぎてここには書けない事もあり、今後については判らないとしか言いようがありません。しかし、兎に角、頑張ります。


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名誉教授の独り言 (85) 医者を選ぶのも寿命のうち
平成24年 3月 5日

 前回の市立病院改革の「独り言」は何時まで経ってもアクセス数が少なくならないという珍しい現象が起こっていたので、意識的に長い間新しい分を書かないでいました。多分、多くの市立病院関係者、市役所職員がアクセスしてくれたせいだろうと思っています。これで、少しでも市立病院の改革が進めば大変有難い限りです。
 話は変わり、本題に入りますが、親しくしているゴルフ仲間の外科医(私より少し若い人)が腰痛・坐骨神経痛で手術を受けたいが、との相談がありました。運良く、彼の同級生が私の弟子のうち1,2を争う脊椎外科の名医であり、彼にやってもらう予定ですが、という事でしたのでそれなら良いでしょう、と返事しました。術後、腰痛・坐骨神経痛は消失し、快適に診療や日常生活をしているようですが、ゴルフ復帰の許可はまだ出ないとかで、うずうずしているようです。今回、手術をしてくれた脊椎外科医は手術はとっても上手なのですが、残念ながらゴルフはしません。と言うより、少しはやったように記憶していますが、直ぐに才能の無さを自覚し辞めてしまったのではないかと思います。そういう訳で、現在ゴルフをしていない名医に手術を含めた治療をして貰うと、たとえ治療後の経過は良くても、中々ゴルフの許可は出ません。同様に、お酒を飲まない名医に診療して頂くと病状が回復しても中々お酒の許可は出ませんし、タバコも同様です。
 学生時代に第2外科の教授であられた食道外科の領域では世界的な権威だった中山恒明教授が「医者を選ぶのも寿命のうち」と、しばしば言っていたというのを聞いた事があります。中山教授は私の学生時代にはポリクリという外来実習で診察台の上でお腹を出して横になっている4~5人の患者さんのところに行き、「はい、何々」と診断をおっしゃり、入院の予定にしているのを見ましたが、講義で「医者を選ぶのも寿命のうち」という内容の話を聞いた記憶はありません。でも、中山教授は患者さんの病状を把握するのは上手であり、予後の悪そうな患者さんには自分で手術をする事はなかった、とある中山教授の高弟の方から聞いた事があります。中山教授が専門としていた領域は食道癌であり、従って命に関係する病気であり、確かに診断・治療の上手下手で生命予後が変わってきますので、「医者を選ぶのも寿命のうち」と言ったのかもしれません。
 幸いにして私は整形外科医であり生命に関係するような病気を治療する機会は多くありません。しかし、その分、元気で生きているのに身体不自由という事が起こってしまう事もあります。その場合は寿命とは関係ありませんが、患者さんに快適な人生を過ごして頂くことの障害となってしまいます。そういう意味では中山教授のおっしゃっていた言葉と同意義ではないかと思います。
 私自身はもう70歳ですし、多くの患者さんを診ることや手術をする事はありませんので、「医者を選ぶのも寿命のうち」の対象になる事はあまり考えられませんが、これから長く医師として働かなければならない方達は、是非とも、広い視野で体に悪くない程度に色々な経験を積み、その結果として、選ばれる方の医師になって頂きたいと願っています。


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名誉教授の独り言 (84) 市立病院改革・先ず隗より始めよ
平成24年 2月3日

 平成24年度の千葉市立病院の運営方針が決まりました。今まで、両千葉市立病院は良い医療を市民に提供することを求められ、実際、素晴らしい医療を提供してきましたが、千葉市が経済的に豊かだった時は、それだけで良かったのですが、千葉市が全国の政令指定都市で最下位の財政状態の現在、良い医療を提供し、あとの経済的な事は千葉市にお任せという訳にはいかなくなってしまいました。良い医療を提供する中で、両市立病院の診療特化を計り、青葉・海浜両病院の一体的運営により、病床利用率のupを目指し、その為に医師、看護師を増員し、収益の拡大再生産を基本計画とする事としました。合わせて10年後の目指すべき病院像を描き、平成24年から26年までの運営方針を策定しました。その結果として以下の5項目を掲げました。

 1.  医療安全の取り組みをより強化すること

これまでも医療安全対策はなされていましたが、今後、「安全第一」を病院運営上の原点に位置付けます。安心・安全な医療を提供する事は病院の基本的使命であり、健全経営の大前提であります。

 2.  人材育成の取り組みをより強化すること

医師だけではなく、看護師、co-medicalの職員も含めて、積極的に研修・研究を行って頂きたく、予算の大幅な増額をいたしました。

 3.  人材の確保と適正配置に取り組むこと

事業計画の確実な推進のために職種別の所要人材の確保に努めること、特に看護師は7:1看護体制を両病院とも4月1日から開始するために可能な限りの努力をすること。

 4.  「カイゼン」活動の全病院的な推進に取り組むこと

職種別管理者別に業務の改善活動とPDCA(Plan, Do, Check, Action)サイクルの徹底に努めること。そのための一つとしてクリニカルパスの適正な運用に努めること。

 5.  地域医療連携の推進をより強化すること

紹介患者、逆紹介患者の増加を計り、地域連携室の組織的な活動の活性化を図ること。


今迄の市立病院では良い医療を行っていれば誰も文句を言いませんでした。言っている人はいたかも知れませんが、聞く耳を持たなかったのかも知れません。収支が合わない時は、千葉市が何か文句を言ったかも知れませんが、面倒はみてくれていたようです。従って私が病院事業管理者に就任し、私の意見を言った時は反発を感じた職員もいたようです。それも当然だと思います。入院診療の報酬請求に包括支払制度(DPC)を採用しているのは青葉病院だけで、海浜病院はいまだに出来高払いですし、両病院とも10:1の看護体制でやっており、その他に施設基準などというのをあまり気にすることなど無く、やや時流に乗り遅れた感があります。現在の日本の医療制度がどうなっているのか、今後どうなるかなどを考える必要性はほとんどなかったのではないかと思います。市立病院の職員が意識して悪い事をしていたのではなく、お金が足りなくなれば千葉市が払ってくれていたので、自分で良いと思っている医療を提供していれば、それで良いと思っていたのだろうと思います。私が病院事業管理者に就任した直後は千葉市立病院のOBの方から「市立病院をspoilするつもりか?」と言われたり、私を鬼のように思っていた職員もいたようですが、最近では私の意見を受け入れて下さる方が徐々に増えてきたように感じています。私は10年後、20年後に永続性を持って、両千葉市立病院が今より立派になり、市民からより信頼される病院になってくれるのを祈るばかりです。その為なら、下げたくない頭でも下げますし、行きたくない所でも行きます。私は4年契約ですので、残りは後3年です。「先ず、隗より始めよ」です。やれることからやっていけば、その内に人材も患者さんも集まってくるのではないかと考えております。


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名誉教授の独り言 (83) 木鶏
平成24年 1月20日

 何となく相撲関係者とのお付き合いが多くなり、色々の事を彼らから教えて頂き、大変勉強になっています。今日はその中の一つで双葉山が70連勝ならなかった時に、言ったといわれている「我いまだ木鶏足りえず」についてです。当時は結びの一番が双葉山だとお客さんはどうせ双葉山の勝ちに決まっているからと言って観戦せずに帰ってしまう人が多かったという事です。そのような時に、安藝ノ海に敗れたのです。双葉山は表情一つ変えずに何時ものようにお辞儀をして土俵を去って行って行き、人生の師であった陽明学者安岡正篤氏に「我いまだ木鶏足りえず」と電報を打ったそうです。この言葉は、元々は中国の荘子という古い書物(約2300年前の物)に書かれていた言葉だそうで、元々、暴れん坊の闘鶏が訓練の結果、どんな相手を見ても微動だにしない木彫りの鶏のようになった話から出た言葉のようです。ちなみにこの双葉山対安藝ノ海戦を澤村田ノ助さんは観戦されていたというのですから、田ノ助さんの相撲好きは昨日今日始まったものではない事が判ります。
今場所の白鵬の相撲を観ていると前半には既に木鶏に近づいたかと思わせる雰囲気を感じてしまいましたが、後半に何処かを怪我したらしく振るわず、把瑠都に優勝されてしまいました。しかし、白鵬は、千秋楽で把瑠都を寄り切りましたし、まだ若いので、怪我を直して今後更に活躍して頂きたいですし、若手でも稀勢の里を始め、多くの有望力士が台頭してきているので、今後が楽しみです。
病院事業管理者を引き受けてから、どうしたら良いのか考え、精神的には大変ストレスでした。「でした」と過去形で書くのは、過去30年、市民に優良な医療を提供しさえすれば良く、赤字については市が補填するという伝統について、「これで良いのだ」という職員の考えを変えてもらわないと真の改革は出来ないと思っていたので、その辺をお願いして来ましたが、その意識改革も大分進んだように私は思っているからです。私自身は、もちろん、双葉山や白鵬のような大物ではない事は十二分に自覚していますが、もう免疫力も体力も低下している70歳の身としては、細かな事に一喜一憂していては体がもちませんので、両病院首脳部に、大筋については相談に乗るが細かな事は自分たちで決めて下さるようにお願いし、叶わぬ事とは判っていますが、自分自身は一応木鶏を目指して行こうと考えています。4月からは新体制でスタートしますので、私の出番は大幅に減る事になるだろうと期待しています。
禁酒を始めて2週間が経ちました。どなたも信じないでしょうが、それが続いているのです。飲み過ぎの弊害だったと思われる事が次々と自覚出来ています。一番は良く寝むれる事、精神科の先生にご処方頂いた入眠剤は服用していますが、アルコール無しで良く眠れています。従って昼間、時々何もすることが無いと居眠りをしてしまいますが、前ほどは眠くはありません。次に、食事どきに汗をかく事がほとんどなくなりました。多分、お湯割りでウイスキーか焼酎を飲んでいた時は水分の取り過ぎだったのか、血管に何か悪い作用があったのだと思います。尾籠な話で恐縮ですが、同様の機序が腸管でも働いていたのでしょうか、度々水様便が出る事があったのですが、それも無くなりました。全体として体調はすこぶる良好です。それに伴って精神的にも落ち着き、以前のように直ぐカーッとなる事が無くなりました。もちろん、いまだ木鶏の域には達していませんが、自分では自分の人生で今迄こんなに穏やかな精神状態で日々を過ごした時は無かったと感じています。ただ一つの弊害は食欲が余り出ないという事で体重が1.5Kgぐらい減ってしまいました。それも胃の手術を受ける前は糖尿病だったので、増えるより良いかなと思っています。もちろん「節酒」なら、私の父親の言っていた通り「酒は百薬の長」だと思いますが、自分としては当分、この禁酒によると思われる爽快感を持ち続けたいと思っています。昨日まで初場所中だったので、(土)、(日)は国技館へ行っており、その上、寒いという事もあり、この2週間はゴルフをしていませんが、来週あたりはゴルフを楽しもうかなと思っています。


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名誉教授の独り言 (82) 新年のご挨拶
平成24年 1月10日

 新年明けましておめでとうございます。
 今年は昨年9月に兄が他界したこともあり、賀状を失礼してしまい申し訳ございませんでした。私が中学3年の時に蓮沼中学から千葉市の緑町中学に転校した時に、轟町のお寺の6畳一間の離れを借り、亡くなった兄が大学4年生であり、色々と忙しかったと思いますが、私の食事を作ってくれたり、色々と母親代わりの事をしてくれた事に改めて感謝しながら、改めて御冥福を祈っています。
 さて今年はどんな年になるでしょうか。ギリシャに端を発したユーロ安、それに引きずられるような円高、遅々として進まない東北の復興、福島原発の先の見えない終焉、などなど、どれを見ても余り良い気分にはなれません。何とかして日本経済が復興してくれる事を祈るばかりです。
 身辺に起こったつまらない事を書きます。実は昨年4月に千葉市病院事業管理者をお引き受けしましたが、これが中々のもので、ストレスが強く、年のせいかストレスに弱くなり、考えていると夜中々眠れず、つい軽い眠剤とアルコールで寝ようとして、徐々に量が増えてしまい、昨年12月ごろには朝起きるのが辛い状態でした。年が明けて、我ながら、これではまずいと思い、信頼できる精神科の医師に相談したところ、「最も効果的なのはアルコールを辞める事です」、とはっきりと言われてしまいました。かつて自己診断で禁酒をした事がありますが、1日は出来るものの2日と続かなかったことが何回かあり、禁酒と言われても、持続して出来る自信は無いと答えました。それに私は造り酒屋の三男坊であり、酒を辞めるのは親不孝をしているような感じもあり、実際に全く自信がありませんでした。2日程お茶を飲みながら夕食を摂りましたが、何とも手持無沙汰でこれは続かないなーと覚悟していました。そこへ息子からメールがあり、お嫁さんと可愛い孫と正月の挨拶に泊まりで来てくれるという知らせがありました。孫はまだ5ヶ月であり、授乳中ですので、当然の事としてお嫁さんはアルコールを飲めないのでウーロン茶を用意する事とし、そのついでにノンアルコールビールを買ってきました。飲んでみると何となくビールを飲んでいるような気分になり、驚きとともに嬉しくなってしまいました。
 アルコールを断ってまだ5日しかたっていませんが、家内はノンアルコールビールを1箱買ってきて、台所の中央にでんと置いてあります。これは飲み干すまで飲まなければなりません。5日の禁酒で変わった事と言えば、夜、良く眠れるようになり、お腹の具合も良くなり、朝、罪悪感なく自分で起きられる事です。更に驚いた事に、昨日は新袖コースに行きラウンドしましたが、最終18番ホールのパー5で久しぶりにバーディーを取り、前半も後半も久しぶりに50を切り、この半年ぐらいはずっと酔っぱらってゴルフをしていたのかと思い知らされました。何より家内の機嫌が良くなったのが良かったと思っています。
 孫が来てくれた事でノンアルコールビールを思い付き、禁酒が出来ており、最高のお年玉と思って、孫に感謝しています。この孫が本当に可愛いんです。「ジジだよ!ババだよ!」と言うと我々の顔を見てニコッと笑ってくれます。今まで色々な人に孫は可愛いと自慢されましたが、こんなに可愛いとは思っていませんでした。これからもっと可愛くなるのであれば今回のお礼に禁酒を続けられそうです。それよりもこの孫が安心して暮らせるような日本に早くなってくれる事を心から祈念しています。


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名誉教授の独り言 (81) 人生終焉の迎え方
平成23年12月25日

 今年は東日本大震災があり、更に、永年、糖尿病で色々と苦労していた兄が他界した事などもあり、自分の人生の終焉についても色々と考えさせられました。現在、当然のことのように行われている終末期医療はどうあるべきか、マスコミでも取り上げられる事が多くなっているように思いますし、それに従い一般の方々も考えるようになってきたように思います。私が医師になったころは、どう考えても救命できない状態で心肺停止になった患者さんに対し、背中に引く板を倉庫から持って来て、心臓マッサージを肋骨2~3本折るぐらいまで行い、時々休んでは心電計を見て、御家族がもう心臓は動かないなと思った頃に、一瞬、間を置いて「御臨終です」と申し上げる先輩の姿を見て、そうするものだと思っていました。しかし、実際にはどんなに心臓マッサージをしても、助かった患者さんは居なかったように記憶しています。その頃は病気で無くなるのは病院でというのが常識でした。もちろんその頃には老人保健施設や特別養護老人ホームなどはありませんでしたので、寝たきりになってしまうと家庭で数年から十数年面倒をみる事も稀ではありませんでした。
 社会の構造の変化とともに家庭で寝たきりの患者さんの面倒を見る事が困難な場合も出てきて、最初は昭和38年に老人保健法が出来、以後改定を続け、現在のように具合の悪いお年寄りの面倒を見て下さるような制度になりました。病人を抱えた家族にとって大変有難い法律ですが、でも、現状には疑問を持たざるを得ません。寝たきりで、意識も朦朧としている患者さんに、胃瘻を造設し、点滴を行い、時には気管切開までして、回復の見込みのない患者さんに苦痛を与える期間をただ長くしているだけの行為は医療とは言わないのではないかと思います。
  以前にも書きましたが、私の兄は永年の糖尿病との闘いで、眼底出血による視野狭窄、脳梗塞による軽い四肢麻痺を3度、繰り返す心筋梗塞に対するバイパス手術、閉塞性動脈硬化症による足底から徐々に上行し、最終的には膝当たりまでに及んだ壊死、最後の一撃は昨年10月末に起こった心筋梗塞でした。大学病院での奇跡的技術による心臓カテーテルで血栓が解除され、一命は取り留めましたが、左半身麻痺という後遺症が残り、その後の懸命なリハビリテーションでも遂に立つ事も出来ず、本人はしきりに家に帰りたがっていました。この時代なのに、誠に申し訳なかったのですが、大学病院で半年間もお世話になってしまい、その後、2つの病院にお世話になり9月に亡くなりました。その間、3週間だけ在宅介護が出来、それがせめてもの慰めかなと思っています。
自分の時はどうするでしょうか。今世の中で、最後にはこうしてほしいというような事を書いておく、いわゆるエンディングノートとかいうのが流行っているようですが、自分は「回復の見込みが無くなったら延命処置だけはしないで下さい」、と書いたものを家内に渡してあるので、そういう苦しみは味わわなくて済むし、家族にも迷惑をかけないのではないかと思っています。これから日本での老齢人口は更に増加の一途をたどりますが、特別養護老人ホームや老人保健施設に入っても、回復の見込みが無いようであれば、無駄な延命処置をしないようにすれば、本人にとり苦痛でしかない期間を過ごさないで済むでしょうし、莫大にかかっているであろう老人医療費も削減できるのではないでしょうか。
今年の「独り言」は今回が最後となるでしょうが、皆様には良いお年をお迎え下さるよう心より祈念申し上げます。


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名誉教授の独り言 (80) 地球の問題
平成23年12月14日

 10年以上前の事ですが、故東京大学名誉教授津山直一先生からこれからの地球の問題は、地球の環境汚染と人口の爆発的増加だと聞かされました。そんな事を考えていない頃でしたので、「へ~」と思うだけでしたが、今頃になって「なるほど」と思えるようになりました。
 そして、今年3月11日にはあの東日本大震災が起こり、引き続いての津波、福島原子力発電所の爆発、その後の次々起こる放射能被災の報道と確実に地球は汚染され続けています。この放射能災害のほとんどを除染と称して洗って流していますが、あれは一体何処へ行っているのでしょう。所詮放射能ですから半減期になれば半分になりますが、半減期が何十年というのもありますので、地球は完全に汚染され続けられているおり、除染したらそれでお終いというものでは無いと思います。今は放射能被曝一色ですが、かつて、千葉市では川崎製鉄という会社があり、その工場の出す排気ガスが大きな問題になった時期がありました。公害訴訟が起こり、私の出身高校の先生も訴訟団の一員に加わっていました。今はもうそのような事は無くなり、と言うか川崎製鉄という会社もなくなり、JFE(株)となってやっているようですが、工場のあった大部分の所がサッカー場や市民の憩いの場になっています。自然が持つ自己修復能で環境汚染が改善する事はあるようですが、それ以上に環境汚染は世界中では、まだまだ増え続いているように思います。
 かつて、太平洋の魚と日本海の魚はどちらがきれいかという話を聞いた事があります。太平洋側に住んでいる魚は太平洋に面した国々の産業廃棄物に汚染された水が流れ込んでいるので、日本海側の魚の方がきれいなのだと教えられましたが、最近では日本海側は放射能汚染があるとかいう噂もあり、どちらも地球を徐々に汚染しているように感じています。
 地球上の現在の人口は約70億人だそうで、年間7000万人増えているそうです。日本の人口減少をどう考え、どう対処すべきか、食糧事情はどうなるのか、何とも考えにくい問題のように思います。兎に角、それだけの人間が環境を汚染し続けている事は事実であり、本当に地球は今後どうなってしまうのか、解決策の思いつかない問題のように思います。人口が爆発的に増加しているのは南半球の発展途上国であり、そのような地域に最も大切なのは教育だという事を先日TVで放映していました。文明国になると人口は減っていくようですので、世界中で発展途上国を助けて、環境汚染を防止し、食糧事情が悪化するのを防ぎ、この地球の危機を救わなければならないと感じています。
 多分、現在が地球誕生から今迄で、最も幸せな時代ではないでしょうか。約500年前の織田信長の時代には人生長くても50年と言われた日本人の平均寿命は、今や男性は79.0歳、女性は86.2歳だそうで、それも地球始まって以来の幸福な日々のなせる技のように思います。あと数年で無くなってしまうという人もいる原油も、今は、十分にあるし、食べたいものはふんだんにあり、日本人の3人に1人が糖尿病ないしはその予備軍で、ダイエットが大流行りであり、こんな状態が環境汚染と人口急増の時代に、そんなに長く続くとは思えません。小手先の儲け仕事や権力争いにばかり目が行き、日本の将来、地球の将来を考える政治家は居ないのでしょうか。 


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名誉教授の独り言 (79) ゴルフ後の腰痛
平成23年11月15日

 先日65歳の男性から「胃の全摘を受けてから、余り運動をしていないせいもあるかもしれませんが、ゴルフ後に腰痛が強いのですがどうしたら良いでしょう?」と質問がありました。「多分、背骨全体の加齢変化に加えて、運動不足による腹筋や背筋の衰えが、最も考えられる原因だと思います。」と答えました。胃を全摘してしまうと食事量そのものも減少し、胃酸の不足も加わりカルシウムやビタミンDの吸収障害が起こり、骨が脆くなり、骨粗鬆症傾向になってしまう事も考えられ、骨粗鬆症は初期には無症状ですが、ある程度進行すると、それ自体、腰や背中の痛みを伴いますし、脊椎などが力学的に弱くなるので尻もちをついたりすると脊椎の圧迫骨折を起こしたりします注意して下さい。」とも述べておきました。「その時に非常に強い腰痛と共に下肢の痛みやしびれを伴う場合もありますが、その際は手術が必要になる事もありますよ。」と付け加えておきました。
 胃切除後にしなければならない事は何と言っても運動です。早期に運動をすれば筋力も回復し、骨も強くなる上に、腸管の癒着による腸閉塞の予防にもなるように思います。将来的には。先ずすべき事は歩くなどの余り負担ならない運動や腹筋や背筋の強化運動をする事です。腸管も動き便通も改善し、気持ちよく大きなオナラをする事もできます。散歩中に日光にあったたりする事は筋力の回復とともに、体内のビタミンDを活性化し、骨粗鬆症の予防や改善に役立ちお勧めです。走る事が出来るようであれば更に良いと思います。運動後に腰痛が持続するようでしたら、腰筋や股関節周囲の筋肉のストレッチングをした方が良いです。私自身は胃の3/4切除術を受けましたが、術翌日には点滴台を引っ張ってと言うより、点滴台に寄りかかりながら勤務室に行き、看護師さん達に「働いているか?」などと冗談を言い、術後2ヵ日目からゴルフのパターの練習を開始、2ヵ月目からゴルフボールを打つ事を再開、術後3ヶ月目の病院コンペでは執刀してくれた外科の先生に8打差つけた41,46でベスグロ優勝しました。現在でも週1回はゴルフをしていますが、脊椎の加齢変性があり、ラウンド後には必ず腰痛が起こりますので、ゆっくりと入浴し、入浴後に腰部の筋肉や股関節の筋肉のストレッチングを必ずしていますし、それでも腰痛の強い時は消炎鎮痛剤を服用しています。歩いたり、走ったり、ゴルフをしたりする事も良い事ですが、水泳は腹筋や背筋を強化するという意味で大変お勧めのようですが、自分では中々機会がありません。また、歩いていてふくらはぎのあたりが痛くなり、前かがみになって休んでいると改善するという症状の脊柱管狭窄症にはなっていないようですので私の腰痛はただ単に脊椎の加齢変性だと思っています。
 私は胃癌の手術をして頂いてからもう4年経ち筋力も可なり回復していますが、困っている事が一つだけあります。8番と9番のアイアンの飛距離が術直後より伸びてしまい、グリーンをオーバーしてしまったり、短めに打とうとするとグリーンに届かなかったりで、今は100を切るのに苦労している状態です。先週は珍しく前半46,後半47で上出来でした。しかも最終ホールは残り130ヤードが直接カップインしてしまいました。パー5でしたので何人かから「イーグル?」と聞かれましたが、第1打が林ぎりぎりで、出すだけ。4打目が入り、単なるバーディーでした。しかし、これも胃癌から回復したので出来た事で唯々感謝の毎日です。


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名誉教授の独り言 (78) 産業医
平成23年11月 3日

 最近、大変疲れ易くなってきてしまいました。70歳の身で月曜日の朝から金曜日の夕方まで働き、(土)、(日)に用事があると、というより、自分でゴルフの予定などを入れてしまうと、一層疲れてしまいます。先日などは無理を承知で2日続けてゴルフをしたら疲労困憊でした。これからは、もうゴルフは週1にする事に決めました。この先、もうそう長くはないかなと思っていたら、久し振りに千葉大学医学部の同窓会名簿が送られてきました。同級生の動向を改めて見ていたら、93名の同級生の内、もう15名が亡くなっていました。平成21年の簡易生命表では70歳まで生きられる人の割合は79.9%だそうですから我々の生存率は83.9%なので、医師以外の方より少しだけ長生きのようです。ちなみに、70歳の人の平均余命は15年位のようです。そういえば私も胃癌の手術を4年前に受け、取りあえずは生きていますし、同級生で同じ胃癌の手術を受け死んでしまった人もいますが、生きている人も私の知っている人だけで2名います。その他に心臓のバイパスの手術を受け、今では多少大好きなお酒を飲んでいる人もいますし、医師はやはり激務ではありますが医療の現場にいるだけ、健康には留意し、検査などを受けやすいのかも知れません。
 先日、私が現在所属している千葉市病院局が何の理由か判りませんが、産業医が必要になったようで、課長が私に「産業医」の資格を持っているかどうか聞いてきました。そう言えば、鹿島労災病院長の頃に産業医と言うのは一体何をしているのか知りたくて夏のお盆週間の暑い時に東京医科歯科大学で日曜日昼から一週間後の土曜日昼までの丸々一週間講義を受け取得した産業医の資格を持っている事を思い出しましたが、それがこんなところで生かされるとは思ってもいませんでした。資格は5年間有効ですが、自分では更新する時には73歳ですし、更新はしないと決めていましたので、更新の単位取得は全くしていませんでした。病院局としては更新して貰いたいようで、今後、何時、何処で講習を受ければ良いかは事務サイドで探すので、行って下さいと言われてしまいました。有効期限まで後2年半あるので間に合いそうですので、更新の為の講習を受ける事にしました。
 最近は学会に行っても発表する事も無く、特別講演もせずに済み、先ず出席するかどうか、出席するとしたら、どのセッションに行くか、大変気楽な学会参加ばかりです。今回は興味があろうが無かろうが、秘書の作ってくれた工程に則り、ただ受講してきます。
 産業医を含む幾つかの資格はこれを持ってないと出来ないというもので、それはそれなりに意味のある制度ですが、ほとんどの学会認定専門医は、ある事はあるがほとんど役に立たない称号です。例えば「日本整形外科学会認定専門医」などは持っていても経済的には何らメリットが無く、もしかして医療過誤裁判になった時にだけ「専門医がやったのだから」という言い訳に使えるかもしれないぐらいしか役に立たないというのが日本での実情です。その分、専門医の取得や継続は容易であり、私の弟子にも「お前も専門医か?」と言いたくなるような全く勉強しない者まで「日本整形外科学会認定専門医」を名乗っています。現在、専門医をどうするか検討している国家的委員会もあるようですが、ただ単に引き算だけをするような「専門医制度」にするのではなく、取得すればこういう良い点があるという制度を作って頂きたいと願っています。


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名誉教授の独り言 (77) 膝関節外科専門医
平成23年10月13日

 私が医学部を卒業したのは昭和42年3月でした。整形外科の卒業試験では鈴木次郎教授の口頭試験のヤマ中のヤマである「椎間板ヘルニアの手術法」について質問されましたが、これすらも勉強しておらず、従って全く答えられず、級友の女性が「前から…」と、小さい声で助け船を出してくれたのですが、「椎間板ヘルニアを前から?」と言ってしまい、鈴木次郎教授から整形外科に入局するなら合格にしてやると言うお言葉を頂き、「入局します」と答えて、通して頂きました。それやこれやで何とか卒業させて頂き、その後、インターンの1年間を東京で過ごしました。そこの整形外科ではインターン生が見ても首をかしげたくなるような手術をしており、自分が整形外科医になればもう少しましな手術ができるかなと思い、改めて整形外科を志すこととしました。
 しかし、インターン終了直前の昭和43年1月に鈴木次郎教授が東京駅で心筋梗塞にて急逝してしまいました。自分の進路をどうしたものか大変迷いましたが、同級生の鈴木一郎君の父君は千葉医学会では有名な国立千葉病院長の鈴木五郎先生でしたので相談に上がりました。五郎先生は、その数年前に私の兄の交通事故による膵臓破裂の診断・治療をして下さり、一命を救ってくれた大先生でした。「自分が整形外科をやりたいのなら、誰が教授になっても同じだよ。やりたい事をやりなさい」と言って下さいました。
 実際に入局してから数ヵ月後に、当時、助教授だった井上駿一先生が教授に選出されました。井上教授は選出されたころは38歳だったと記憶していますが、若さとやる気で猛烈な勢いで働いていました。世間ではSeven Elevenとか言っていたようですが、実際はそれよりもずっと働き者で、朝7時ごろから夜は1時か2時ごろまで勤務しており、私はほとんど先に帰宅していました。私が入局した昭和43年ごろは日本経済が右肩上がりで新設の病院もあちこちに出来ていました。従って、今とは違った意味で医師不足であり、特に、当時は交通事故や産業災害も多く、整形外科医の需要は高く、同期で13名入局しましたが、関連病院からは早く出張に出してくれと矢の催促でした。私達は5月の連休明けに入局しましたが、その1ヶ月後の6月の第1日曜日の昼ごろに2日前に全身麻酔で手の手術を受けた少年が咽頭腫脹で痰が詰まってしまい、呼吸停止となり、勤務中の看護婦さんから医局でのんびりとスポーツ新聞を読んでいた私に緊急の気管切開をするよう命令があり、慌ててやりましたが、まだ止血の方法を知らず、ただガーゼで押さえながら「誰か先生を呼んできてくれ」と頼み、麻酔科の当直医が駆け付けてきてくれて、事なきを得た記憶があります。そのような事もあり、私以外は7月から関連病院へ出張に出ましたが、私は入局して2カ月で医師として何もできないまま高給を頂く事は不本意だったので1年間は大学で先輩から手取り足取り御指導頂きたいとお願いし、お許しを頂きました。当時は生活費も安かったのでしょうか、アルバイトのお金だけで十分に暮らしていけました。その間に徹底的に教え込まれたのが「義理と人情」と「下働きの大切さ」でした。先輩のお供でアルバイトに行く時には、朝、先輩の下宿にボロ車でお迎えに行き、一日仕事が終わったら、午前様(しばしばでした)になっても、送り届けるのは当たり前でした。大学病院での手術日は手術の外回りで血液の付いたガーゼを計量し、出血量を麻酔医に報告する事と術者の汗ふき、全ての手術が終わった後は全ての手術器具をお湯洗いし、それを油拭きし、棚にならべ、手術室の床掃除と術者の使ったスリッパも奇麗に洗い、壁に立てかけて乾かしておくこともしました。このような仕事のせいか、現在でも家で食後に食器を洗うのは全く苦痛ではありません。でも、実際には余りしませんが…。
 1年間大学での研修後、川鉄病院に行く事になりましたが、当時、川鉄病院の整形外科の常勤医は坂巻皓先生(病院長代理)お一人でした。でも、数か月してもう二人程、先輩が来て下さり、やっと体制が整いました。当時の千葉大学整形外科では脊椎外科医でなければ整形外科医では無い、という雰囲気でした。そのような中、坂巻先生はご自分が横須賀の病院におられた時に米軍キャンプ内の病院では膝疾患に対し積極的に関節切開をしていたのを見ておられ、私に膝関節外科をすることを勧めて下さいました。ただ、坂巻先生は関節鏡よりは関節切開を好み、原稿などに関節鏡の事を書くとその部分は必ず直されてしまいました。
 川鉄病院の後、上都賀総合病院へ出張しましたが、そこで渡辺式21号関節鏡を買ってもらい、手術室での仕事はほとんど関節鏡検査でした。上都賀の後、側彎症花盛りの大学に1年半いて関節鏡と膝関節外科、その後、東京逓信病院で渡辺正毅先生に関節鏡を直接ご指導頂き、その後も留学中を含めずっと関節外科を続けていました。恩師井上駿一教授には誠に申し訳なかったですが、結局、五郎先生の言った通り、「誰が教授になっても、自分のやりたい事をする」人生になってしまいました。


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名誉教授の独り言 (76) 日本人は何故長生きか
平成23年10月 3日

 英国の超一流医学誌であるLancetが「日本での国民皆保険施行50周年記念号」を出版してくれました。日本の前参議院議員である武見敬三氏の全面協力により、出来上がったもののようです。武見氏は御存じ武見太郎氏の三男であり、医学より国際政治に興味がおありで、医学の道には進まなかったようです。御自分では慶応義塾大学でラグビー選手として大活躍し、「自分は医者になるには、ラグビー選手として優秀すぎた」と言っているそうです。私はある会で武見敬三氏と知り合いになり、何度かお話をさせていただいた事がありますが、常に国際的視野で物事をとらえており、かつ、日本の医療行政に詳しく、色々と御指導頂きましたので、今回のLancetを楽しく読ませていただきました。
 日本人の終戦直後の平均寿命は男性50歳、女性54歳であったのが、2010年には男性79.6歳、女性86.4歳になった理由について色々と述べられています。もちろん「日本での国民皆保険施行50周年記念号」ですから、収載された論文により順位は異なりますが、ほとんどの論文で日本人が世界一長寿になった要因は何と言っても、日本での国民皆保険施行にあり、患者はどこの病院にも何時でも行く事が出来、初めこそ自己負担が半額であったものの、その後、経済成長とともに勤労者は無料となり、その後、一割負担、三割負担となったものの、アメリカのように医療難民が出るという事も無く、国民の健康が守られている、と述べられています。その他に、日本での義務教育の徹底が日本人の文盲率を下げ、感染症対策や公衆衛生が進んで、特に母親が育児をする上で役に立っているとも述べています。これは少し奇異な感じがしましたが、考えようによっては納得のいく話だと思いました。
 その他に日本人の食生活が長寿につながっており、特に以前は高かった塩分の取り過ぎに警鐘が鳴らされてからは、脳血管疾患による死亡率が激減し、更に日本は長寿国になり、同時に世界に日本食を広める原因になったとのことです。その他に日本人は元々虚血性心疾患や一部のがんの危険因子が低かった事を述べている筆者もいます。
 これらに目を通していると、自分を含め、日本の医師がしてきた医療は一体何だったのを考えさせられてしまいました。確かに寿命とは関係しませんが、2007年に調べた日本人の健康寿命は男性73歳、女性78歳だったそうで、それが年々延びており、その方々のQOLの向上には少なくとも役立ったのではないかと自分を慰めています。
 先月の兄の死は自分の死に方についても考えさせられてしまいました。口からは何も食べられず、腸瘻から流動食を入れてもらい、気管切開で話も出来ず、半身不随と両下腿の壊死で立つ事も出来ず、ただ寝たきりの兄の最後は可哀そうの一言でした。自分の時はもう少しましな時に結論を出して頂きたいと思っています。ちなみに、先進40カ国中「死の質の評価」では23位だそうで、私も現在の医療の現状は納得のいくものではありません。
 最後の方の論文にこの日本での長寿社会形成の成功モデルを発展途上国に指導していく必要性が述べられていますが、是非とも長すぎる寿命の失敗を繰り返すこと無く、無用な死を迎えてしまう発展途上国に協力していくべきと痛感しました。


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名誉教授の独り言 (75) 輪廻転生
平成23年 9月22日

 自分が中学生の頃、母から田舎の中学校にいては医学部へ行けるような高校には行けないと言われ、蓮沼中学3年の5月に千葉市立緑町中学校に転校しました。緑中の近くのお寺の離れを借り、大学生の兄と自炊生活をし、通学しました。と言っても、私には料理は何も出来なかったし、当時はコンビニも無かったので、兄がもっぱら食事はもちろん、お弁当まで作ってくれて、私は緑中へ通う事が出来ました。お陰で千葉一高に行く事が出来、結果として千葉大医学部に合格することが出来ました。私が医師の道に進む事が出来たのは、一重に兄のお陰でした。兄は大学卒業後、家業を継ぎ、働き通しの人生でした。兄は20代後半から糖尿病を患っており、ずっと通院治療をしていたと思いますが、常に側にいた訳ではないので、詳細は知らないままでした。数年前から糖尿病の合併症が色々と出てきました。脳梗塞を数回、網膜出血による視野狭窄、心筋梗塞を数回、心臓のバイパス手術も受けていました。最終的には昨年の10月末に何回目かの心筋梗塞を起こし、大学病院に担ぎ込まれ、心カテで再開通したものの、その後、右半身不随、肺炎で気管切開、当初こそ車椅子でリハビリを出来ていましたが、それも出来なくなり、両下肢が膝あたり迄、壊疽になり、気管切開、腸瘻、鎖骨下静脈栄養を受け、寝たきりとなってしまい、青葉病院、千葉南病院と転院し、先日、遂に帰らぬ人となってしまいました。お知らせを受け、直ぐに病院に駆け付けたのですが、既に亡くなっており、大変悲しく寂しい思いをしましたが、不思議と涙は出ず、むしろ、これで兄は楽になっただろうと思いました。
 翌日、我が家の長男の息子のお宮参りで、改めて舐めたいほど可愛い孫だと思い、祝福しました。自分としては胃癌の手術を受けてもいますし、孫のお宮参りに行ける幸せを味わえるとは思ってもいなかったので、この孫は兄の生まれ変わりかな、と思ったりもしました。
 孫のお宮参りから帰ると、数日来、虫の息だった金魚の息が途絶え浮き上がってしまっていました。我が家のアイドルとして17年生きた金ちゃんでした。昨年14歳で昇天したコロに続き、悲しい出来事でした。これで我が家は夫婦2人だけになってしまいました。家内は金魚を2匹位買ってこようかと言っています。犬では我々が先に逝ってしまいそうで、改めて飼う勇気はありませんが、金魚なら残しても最終的には川にでも放してくれれば良いのではないかと思いますので、敢えて反対していません。
 人生70年も生きていれば色々な事があるものです。亡くなる人もいて、生まれてくる命もあり、昇天する動物もいて、新たに我が家の一員に加わるかもしれないペットもいて、正に輪廻転生を実感しました。残された人生をどう生きるか改めて考えさせられました。現在している千葉市立病院の再生プランの見直しには、何人もの人が不本意と思っています。自分としては今やっている事は、やがて彼らに感謝されると確信しています。残された人生もそんなには長く無いように思いますが、後悔の無いような生き方をしたいと思っています。



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名誉教授の独り言 (74) 何故、今、千葉市立病院改革プラン見直しか
平成23年 9月 2日

 10日程前のある新聞に「ここ5年程の間に全国にあった約5000の自治体病院・診療所のうち400の施設が統廃合・民間移譲になった」という記事が載っていました。「自治体の財政悪化や医師不足で赤字病院を維持出来なくなったから」だそうです。では、私が現在、病院事業管理者を仰せつかっている千葉市立病院はどうでしょうか。両市立病院の平成22年度の病院事業決算は収入総額約169憶円に対し、支出総額約166億円で差し引き約3億円の黒字でした。一見、安心するような数字ですが、この収入の中には総額の約1/4に当たる41億4100万円の千葉市の一般会計からの繰入金が入っていて、そのおかげで黒字になっているのです。果たしてこのような事が今後も続けていけるのでしょうか。
 千葉市の平成23年度の予算は3582億円(予算は収入と支出同額)ですが、税金などの収入が不足し、出来るだけ削った支出額に足らず、仕方なく収入に市債の387億円を入れて帳尻を合わせたのだそうです。熊谷千葉市長は平成21年10月に「脱・財政危機宣言」を発せられ、削れる予算は出来るだけ削るようにしましたが、それでも予算の1割以上が借金です。今までに貯まりにたまった千葉市の借金は1兆927億円だそうです。千葉市民一人当たり約80万円です。私が病院事業管理者を依頼された時には多少は財政的な事も知らされていましたが、ここまで詳しくは知らされておらず、「両病院の面倒を見てくれ」ぐらいの感じでした。市立病院が開設以来ずっと「繰入金依存症」を続けてきた事など、全く知りませんでしたし、千葉市がそんな財政危機にあるとは知りませんでした。今、このアッと驚くような実態を知らされて、少なくとも病院の経営を改善するにはどうしたらよいか日夜考えています。千葉市は現在、財政健全化の為に市債の支払いを必死になっています。収入に対する返済金の割合を「実質公債費比率」というのだそうですが、これが平成21年度は21.1%、平成22年度は21.4%であり、平成27年度は24%を超える予想だそうです。この数字が25%を超えるとイエローカード(早期健全化団体)となり、35%を超えるとレッドカード(財政再建団体)となってしまいます。そうです、夕張市と同様の財政再建団体に転落してしまうのです。そうすると毎年40億円前後繰入金を必要としている市立病院をサポートする事は困難になり、結果として廃院になってしまう危険性があります。そうならない為にも市立病院の職員は繰入金を少しでも少なくする努力をし、市の財政を少しでも助ける事が、市立病院を継続していく方法ですし、出来たら繰入金なしで両市立病院を運営出来れば、市の財政がどうであれ、我々は胸を張って堂々と病院を続けられます。
 このように考えて市立病院改革プラン見直しにあたっては、テーマを"自立"と設定し取り組む事としました。自尊心を持って市立病院で働き、繰入金依存体質を自立体質に変えていくという事です。これは「言うは易くして、行うは難い」であり、私の4年間の任期中には完遂する事は困難かもしれませんが、その決意を持って行う事としました。それには職員一人ひとりの協力が必要です。今までも一生懸命働いて来てくれたと思っていますが、市全体の財政や市立病院の会計については知らされていない部分、あるいはそのような事を知ろうとする努力が足りなかった部分があったのではないかと思います。千葉市の財政は瀬戸際に来ています。今後は市役所の職員はもちろん、両市立病院の職員全員が情報を共有し、同じ目標に向かって頑張って行かなければならないと思っています。
 ちなみに救急医療などの不採算部門と言われている政策医療も担っている独立行政法人国立病院機構や独立行政法人労働者健康福祉機構などに属している病院の多くは運営費交付金(繰入金)など、ほとんど無しで運営していますし、しかも黒字経営の病院も数多くあります。これは必至の努力をした結果だろうと思っていますが、千葉市立病院も職員全員で知恵を出し合い、汗を流し、市民に安心・安全な医療を提供しながら永続性を持った経営改善に努力していこうと考えています。


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名誉教授の独り言 (73) 教授流出
平成23年 8月28日

 最近、齢70歳のせいか前より疲れやすくなってしまいました。当然と言えば当然ですが、(月)から(金)までのfull time job は途中で手を抜きたくなってしまいます。今年の3月まで病院長をしていた鹿島労災病院ではしばしば病院長室の応接セットで昼寝をして、何とか仕事をこなしていましたが、千葉市病院局では、そのような家具は置いていません。そのうち持っていこうかと思っていますが、まだ、持って行っていません。何はともあれ、70歳でのこの様な状況は多くの方にお許し頂けるのでは無いかと思っていますが、困ったことに国立大学機構の医学部臨床系教授の65歳の定年前の転職が相次いでいます。私が3月までいた病院の独立行政法人の本部理事長も58歳の若さで超一流大学の医学部教授を辞して、転出された方でした。その他、多くの例を、大学を定年退職し5年も経っている私が知っているのですから、恐ろしい事です。確かに医学部臨床系教授は激務です。医師としての外来や入院患者の診療、外科系なら手術などの他に、学生や研修医の教育、研究の指導、学会の運営、関連病院を維持する為の努力、その他、一人の教室員の媒酌人を二度お願いされた事など、思いもつかない用事まで多忙を極めます。それでいて給料は医師手当と言う名目で月数万円が加算されているだけで国立大学の医学部以外の教員とほぼ同じです。私が医学薬学府長として定年退職した年の年俸も退職金も恥ずかしくて、ここには書けない程です。でも、臨床系教授は講演などでそれなりの収入もありますので、何とかなる場合が多いのではないかとも思いますが、更に基礎系の医学部教授はもっと大変なのではないかと思います。
 私が大学教授をしていた時も多くの優秀な人材が経済的な理由で大学を去り、非常に残念な思いをした記憶があります。大学にいてくれれば学問という何事にも変えられない喜びを得る事が出来ます。ただし、その喜びではご飯は食べられません。やはり、付いてくるものがないと万人には受け入れられないと思います。医学部の教授なのだからと言って、べらぼうな給料をくれ、とは言いませんが、今のままでは気のきく教授は大学を去ってしまうのではないかと憂慮しています。
 大学には優秀な人は残らず、たとえ優秀な人が教授になっても途中で教授職を投げ出してしまい、残されたスタッフがどんなに頑張っても、診療も教育も研究も質が低下してしまうのではないかと心配してしまいます。現在叫ばれている医師不足に対し、数だけ増やせば事が足りるとお役人は考えているようですが、弁護士を急増させて弁護士の質が低下したと言っていた弁護士さんがいました。医師も足りた数の分、質の低下は避けられないようになるのではないでしょうか。
 かつて、日本を科学立国にすると言った総理大臣がいましたが、とてもではありがせんが、このような状況では無理としか言いようがないように思います。私はもう教授を定年退職した身なので、直接的には恩恵に与る事はありませんが、医学を進歩させる義務がある現役の教授を辞めさせるような事が無いように、世間的に納得のいく遇し方をして頂きたいと心から願っています。


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名誉教授の独り言 (72) 初孫誕生
平成23年 7月28日
01

 昨日、息子のところに長男が生まれました。息子は一人っ子で、今回は一人目の子供ですので、我々夫婦にとっては初孫です。予定日を1週間過ぎても知らせが無いので、この数日は何となく落ち着かない毎日でした。それが、昨日の夕方、そろそろという事で、病院に駆け付けたら出産直後であり、可愛い孫の顔を見ることが出来ました。母子ともに元気で、孫の出生時体重は3050g、とても手足が大きくて、活発に手を動かしており一安心しました。息子のあかちゃんの時とそっくりの顔で、何か不思議な感じがしましたが、心から幸せを感じました。お嫁さんには「御苦労様!」としか言いようがありませんでした。この孫がいっぱしの口を利くようになったら、もっとかわいいのだろうと想像しています。そのころにはジージ、バーバとしてはおもちゃでしか釣れないのではないかとも思っています。
 我々夫婦が息子を授かったのは我々が結婚してから12年目位だったように記憶していますが、当時は現在のように人工授精の技術もなく、もうとうの昔に諦めていた頃でしたので、大変嬉しかったのは今でも鮮明に覚えています。我々夫婦は息子を思いっきり可愛がって育てました。親ばか丸出しですが、良い青年に育ってくれましたし、お嫁さんは中学・高校と同級生の大変賢い美人の女性で、思いやりもあり、息子には良い伴侶を見つけてくれたと感謝しています。
 まだ孫の名前も決まってないようですが、それも若い2人に任せています。息子は今年大学院に入ったばかりでこれからが大変ですが、今回、人の親になった事で一回り大きな人間に成長してくれる事を願っています。
 それにしてもこれからの子育ては大変だろうと思います。我々は息子を育てる中で「好きな事をやりなさい」と言っていたのですが、家内が薬剤師であることもあり、家の中の会話が医学関係の事が多かったせいで、息子からは「医学部以外の選択肢は自分には思いつかない」と言われてしまいました。その結果、息子は一浪して医学部に行き、しかも私と同じ整形外科を選択したので、何処へ行っても肩身の狭い思いをしているのではないかと思います。でも、息子はもう父親になったのですから、今後の人生は自分で決めていってほしいと願っています。そのような姿を見て育つ孫はどのように考え、どのように決めていくか、多少、可愛そうな気もしますが、頑張ってほしいと願わずにはいられません。
 最近はゴルフもすっかり落ちぶれてしまい、100を切ると大満足のような体たらくです。3週間程前に宮崎へ講演で行った時に、ついでだからという事で、朝7時20分羽田発の飛行機に乗り、9時宮崎空港着、10時スタートの予定でフェニックスCCへ行くつもりでしたが、あいにくと宮崎空港上空の霧が強く着陸できず、鹿児島空港に着陸してしまい、そこから高速バスで1時間30分かけて宮崎に行き、12時半スタートに変更したりで、あわててラウンドした所為もあり、折角の素晴らしいコースだったのに51,57というみっともないスコアーを打ってしまい、もうゴルフを辞めようかと思うほどでした。その後に懸案だった調停事例が、有難いことに終了し、大変気が楽になった事もあり、これからはゴルフも良くなるのを期待していましたが、その後の教授会コンペも51,48で、その2日後の「もりや杯」では46、46で、少し良くなったとはいえ90を切れるようなゴルフではありませんでした。でも、体調、筋力ともにだいぶ回復し、直近の新袖でのラウンドは41,46でしたし、これからもっと良くなりそうですので、ゴルフは辞めません。せいぜい孫に遊んでもらって余った時間にはゴルフをしようかなと思っています。


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名誉教授の独り言 (71) 尊敬する先輩へ
平成23年 7月 8日

○○先生

 つまらないお中元をお送りしましたのに、いつも通りご丁寧な礼状を頂き、大変恐縮しております。御手紙を拝読させて頂き、何となく寂しい気持ちになり、返信を書きたくなりました。御一読頂けますと幸いです。
 暑い日が続いておりますが、御健勝のことと拝察申し上げます。小生も胃癌術後3年半が経ち、ゴルフが下手になった以外はこれといった後遺症も無く元気にしております。
 先生が御指摘のように、ここ数年医療を取り巻く環境は激変してしまいました。教室も、もう先生が長年貢献した病院に教室員を出す余裕はないようですし、今回私がお引き受けした千葉市立病院にも今まで通り派遣医が来るかどうか判らない状態です。整形外科ですらそんな状態ですので、他科は言うまでもありません。教授選の時はどうしたら良いか相談に来て、結果として教授になった人達に、今度は私の方からペコペコと頭を下げ、医師の派遣をお願いしている自分の姿は、我ながら滑稽そのものです。自分でも何の為に、あるいは誰の為にやっているのか判らない状態です。
 6年前に新臨床研修制度が始まった時にはここまで地方はもちろん都市部でも医療崩壊が起こるとは私も予想しておりませんでした。従って、若い時に面倒を見て下さり、鹿島労災病院の初代病院長であった先輩から定年の1年4ヵ月前(今から約5年前です)に定年退職後に鹿島労災病院に行ってくれとお願いされた時には、さしたる問題意識も無く、お引き受けしてしまいました。鹿島では、着任した年の12月に胃癌の手術を受け、その後、1ヵ月位は休みましたが、それなりに頑張り業績も上がり、地域医療に貢献できたのではないかと思っています。でも、私が引き揚げ、後任の先生に託した後は入院患者も大分減ってしまったと聞いており、何時、身売りあるいは廃院になるか判らない状態ではないかと案じています。
 現在の医療崩壊の犠牲者は多分この6年間に医学部を卒業し、余り世間を知らないままに、ずる賢い大人に騙され、現在の所に落ち着いてしまった若い研修医ではないかと私は思っています。私がいた鹿島労災病院の近くにも全国的に有名な大病院があり、そこに医学部卒業後からずっといる医師は大学が関係している病院なら2~3年生がするような手術ぐらいしか出来ないようで、非常にかわいそうでした。研修医はそういう上司から教わるわけですから,もっとかわいそうでした。多くの研修医を集めている病院や、私立であれ公立であれ病院を全国展開している組織では前期研修医を甘い言葉や高い給料で出来るだけ多く集め、その研修医達を出来るだけ後期研修医として残すよう本部からの指示が来て、現場はそうなるように努力しています。
 立派な医師を育てる為には、たとえ臨床医でも、一般的には若い時にある一定期間基礎的な研究に従事し物事の考え方を身に付け、出来たら視野を広めるために海外留学をするぐらいの事をすると良いのではないかと私は常々思っています。そのような事をすると医師とは言え経済的にも家庭的にも恵まれない日々が続きます。医学部卒業後に経済的な面を最優先しなければならない研修医もいるとは思いますし、その人達はその時点では仕方ありませんが、もし状況が許すなら、若い時は目先のお金や高待遇に目がくらみ安易な道を選ぶべきではありません。良識ある大人が自分のいる病院を良くする為だけに甘言を弄して若い研修医をたぶらかし囲い込みなぞすることなどは、もっての他で、もっと広い視野で若い人たちを育てるべきです。研修医自身が一日も早く、こういう事に気附いてくれる事を祈るばかりですし、医学部教育の中で知らせる努力をすべきと考えています。
 現在の医療崩壊は、これで終わりではなく、始まりのように思います。国民の健康は無視され、営利優先の医療がはびこり、国民の医療不信はさらに増強するという悪循環に陥るように思います。私はもう70歳ですし、私が子供の頃から考えていた医療と現実の医療が余りにもかけ離れてしまった状況では、今回お引き受けした仕事が終わったら、医療からは手を引きたいと思っています。それまで、もう少し頑張ります。
 先輩に出す手紙としては不適切だとは思いましたが、どうぞお許し下さい。
 節電、節電と蝉が鳴いているような暑い夏になりそうです。
 くれぐれもご自愛下さい。


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名誉教授の独り言 (70) 楽になりそうです。
平成23年 6月27日

 既に述べましたように私はこの4月1日から千葉市病院事業管理者になりましたが、廣瀬彰先生が海浜病院長から私が辞任した鹿島労災病院長になってくれた為に、海浜病院長が空席になってしまいました。千葉大学医学部付属病院の首脳部にどなたか適任の先生を御推薦頂くようお願いしていましたが、宮崎病院長からやっと御返事を頂き、現在、海浜病院副院長の太枝良夫先生でやって下さい、とのことでしたので、私の海浜病院長は6月一杯で解任という辞令を本日、副市長より頂いてきました。元々、病院事業管理者は病院の経営を考えなければならない立場であり、病院長は管理者に無理を言って新しい医療機器などを買って貰い、より良い医療を市民に提供する役目であり、この2つの職種は市民に良い医療を提供するという目的は同じですが、場合によっては相反する行動を取らなければならない立場でもあります。病院長として種々の会議に出席し、世の中で最もわがままな人種である医師達に色々と注文を出しながら管理者職もこなすという事は、本当に大変な仕事です。海浜病院長を解任して頂き、管理者に専念できるのは本当に有難いことであり、今日から酒の量も減りそうです。
 千葉市立病院の平成22年度の会計を見ますと当初繰り入れ予定金が両病院で約48億円だったのが、全職員の努力の結果として40億円で済み、5億円を市に返し、3億円を市立病院で頂き、海浜病院の積年の赤字の5億円の一部を返還することが出来ました。多分、千葉市民のほとんどの人が、毎年両市立病院で40~50億円の繰り入れ金(赤字補填)が使われている事を知らないのではないかと思いますし、市役所の職員でもこの事を当然の事と思っているのではないかと感じています。かつては赤字の温床のように言われていた国立病院も、現在は国から一銭の援助もなしで堂々と黒字経営している現状を考えると、たとえ両市立病院で政策医療をしているとはいえ、現状のままが許されるとは思ってもいません。両病院とも職員は一所懸命に働いており、決して遊んでいるわけではありません。長い間、このやり方で良いと思ってやっている事が無駄を生んでいるのかもしれません。その辺を、これからは管理者として良く勉強し、研究し、職員とともに改善していきたいと思っています。
 私には親戚縁者に誰も医者がいなかった事もあり、医学界がどうなっているのかは医者になる迄、全く知りませんでした。私は医学部に入学し、卒業すれば直ぐに医師になれると思っていました。まさか無給で働き、生活費はアルバイトで稼いで過ごすなどという事が当たり前だとは思いもよりませんでした。医学部を卒業し、インターンを終了し、医師国家試験に合格した頃に何となくイメージしていた将来像は、実家の近くの成東病院か東金病院に勤務しながら、お嫁さんに迷惑をかけない程度にゴルフ、麻雀、酒などを楽しみつつ人生を過ごすのかなー、というものでした。大学で1年、川鉄病院で8カ月、上都賀病院で1年半研修をして、その後、関節鏡を勉強する為に東京逓信病院の渡辺正毅先生の下に行きました(実はこの辺は書けない事も色々あり、それは後日とします)。1年半経ったところで大学に戻り、学位論文を書き、さてどうしたものかと悩み、どうせだから1年位留学してみようかと思い井上教授にお願いしてイギリスに行かせて貰いました。イギリスは野蛮なアメリカより文化的な感じがあり、家内も花や鳥が好きなので賛成してくれ、ロンドンに行くことになりました。
 これが人生の分かれ目でした。帰国後はロンドンで勉強してきた事をネタに学会発表しまくり、論文を書きまくりました。その頃、千葉大で膝関節外科をしていたのは私一人だったので全てfirst authorでした。暫くして講師、助教授となり、昭和62年9月に恩師井上駿一教授が帰らぬ人となってしまい、その後の教授選で選出されてしまいました。これが苦労の始まりで、その苦労がずっと続きました。しかし、今日は少し気が楽になりました。両市立病院が今後さらに良くなるようもうひと働きするつもりです。


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名誉教授の独り言 (69) 古希を迎えてしまいました。
平成23年 5月23日

 本人としては全く実感がありませんが、先日の誕生日で古希だそうです。病院局のスタッフの方々から立派な花束を頂き、自分が大学にいた時に「還暦だ」、「還暦だ」と言いまわったのに何もなかったのと比べ、病院局の方々は社会をよく知っているなーと感心しました。しかし、私の弟子の一人が親切な事にワインをプレゼントしてくれました。嬉しい限りです。千葉大学整形外科の教授は、初代鈴木次郎先生が56歳の時に東京駅にて心筋梗塞で急逝し、2代目井上駿一教授は57歳の時に肝細胞癌で入院、6週間の後に、お亡くなりになりました。私は3代目となり「58歳ぐらいで、さよならするのかな?」と、思っていましたので、こんなに長生きし、古希を迎えるとは思ってもいませんでした。
 古希とは元々,杜甫の詩の詩句にある「人生七十古来稀」によるものだそうです。古希の祝いに花束やワインを頂くのも嬉しいのですが、古来、着物と座布団と杖を送るのが定番のようです。でも、私は、着物の代わりにゴルフ・ウエアー、座布団の代わりにパターマット、杖の代わりにゴルフクラブなどが良いかな…、などと思ったりしています。有り難い事ですが、色々とする事が多い割に、平均して週1回ぐらいはラウンドしていますし、何やかや週数回ぐらい東京に行く用事をこなしています。元気で古希を迎えている方は今の日本では非常に多いのではないかと思いますが、私は現在、千葉市病院事業管理者、千葉市立海浜病院長、横綱審議委員、日本プロゴルフツアー機構医事委員長、日本柔道整復接骨医学会長、その他もろもろの役職をこなし、更に海浜病院で外来を時々し、手術も週1例ぐらいはやっており、今日も15年前に私が手術した色素絨毛結節性滑膜炎の患者さんを施術してきました。これだけ働いている古希の人はそんなには多くないのではないかと思いますが、別に自分でそんなに働きたくて働いている訳ではないのに、どういう訳か仕事が回ってきてしまいます。この患者さんも探し回って私を見つけ出したようです。
 世の中の景気があまり良くないようですが、元気な老人は沢山います。この老人力をもっと有効に使う方法はないのでしょうか。お年寄りはそれなりに社会経験豊富で何かと役に立つ知恵を若い人達に示して下さるのではないかと思います。もちろん、体力的にも脳みその働きも若い時のようにはいきませんが、「やることがなくて…」、とぼやいている老人達をただ遊ばせているほど日本全体は豊かではないのでないかと思っています。特に今回の東日本大震災での日本全体の出費は莫大であり、それを政府はどうやって工面するのか、心配です。若い人達には若い人にしか出来ない事をして頂き、老人にでも出来る事はもっと老人力を使って老人にやらせて貰うように出来ないものかと、もどかしく思っています。
 自分が子供のころは60歳ぐらいになると縁側で日向ぼっこをしながら猫の頭を撫でているのが当たり前のように思っていましたが、戦後の日本の素晴らしい復興で衛生環境、食糧事情などの目を見張るほどの改善で平均寿命も延び、今や男性の平均寿命は78歳の時代です。私は若い時には言いたい事を我慢せずに、すぐに口にしてしまい、何かと口害を起こしていましたが、最近になって、やっと、言いたい事も我慢するようになり、最近、40年連れ添ってくれた家内に「やっと大人になりましたね」と言われています。私としても、この後、余り役には立ちませんが余計な事を言わずに「生涯現役」を目標として、もう少し頑張りたいと思っています。


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名誉教授の独り言 (68) 海浜病院での人工膝関節第1例
平成23年 5月 8日

 4月からは千葉市病院事業管理者が本職ですが、海浜病院長も兼任しており、非常に多忙な毎日です。朝、市役所の病院局に行き、その後、海浜病院に行き、また、夕方に病院局に戻って来るなど、へとへとになるような毎日です。
  管理者の仕事はまだまだ軌道に乗っていませんが、海浜病院の医者としての仕事は少しは軌道に乗り始め、先日水戸から来てくれた変形性膝関節症の患者さんに海浜病院での第1例の人工膝関節置換術をしました。手術は、予定した通りスムーズに上手く行う事が出来、ホッとしました。術後経過も良好で一安心です。今後も機会があればどんどんやっていこうという気になりました。今回用いた人工膝関節は最初、川崎製鉄(株)で作ってもらったものであり、もう既に20年以上大きなモデルチェンジをする必要もなく、使い続けており、開発に恩師井上教授と共に携わった者の一人として大変誇りに思っています。もう1500例以上の患者さんに手術したと思いますが、99.9%は満足する成績であり、当分、というより、私が手術出来る間はこの人工膝関節を使う事になると思っています。
  このような中、大相撲5月技量審査場所初日に行ってきました。実は金曜日夕方に中学時代の友人が突然我が家に現れ、話をしているうちに、翌日一緒にラウンドする事が決まり、一応やってきたのですが、何打か不本意なショットがあり、それを直すべく、日曜日の午前中に近くのゴルフ練習場に行き、一時間半打ち放題2000円というのをこなしてから両国へ行きました。千葉駅から各駅停車で行き、途中10分ぐらい、うたた寝し、乗り過ごす事なく両国まで行き、国技館に着きました。誰が得しているのかは知りませんが、変な名前の場所にしたせいで、国技館前に力士や部屋ののぼりが無いのはやはり寂しい感じがしましたが、国技館内に入ってからは普段の場所と何ら変わる事無く、取組が行われていました。今回は横綱審査委員としてではなく、内舘牧子女史から譲り受けた砂かぶり一列目の維持員席で観戦して来ました。入場料がただの人も多いようで、いつもより観客は多かったように思いました。取組では、特に幕下上位と十両は来場所の事もあるのでしょうか、好取組ばかりでした。幕内力士も一生懸命やっているようで、それなりの熱戦が続きました。八百長なんて全く信じられないような取組ばかりで、何時になく興奮して観てしまいました。その結果、全取組が終わった時は、連日のゴルフのせいもあるでしょうが、腰痛で立ち上がれませんでした。しかし、これを機会に大相撲が国民に愛されるスポーツに戻ってくれればと願っています。
  医師としてやるべきことは、患者さんが自分の身内だったらどうするかと考えながら治療方針を決め、誠意を尽くして日頃の勉強の成果を全力でやる事と常日頃考えています。医療行為は常に100%上手くいくとは限りません。もしかして上手くいかなかった場合は「済みませんでした」としか言いようがありません。後は第三者に判断して頂くだけです。相撲部屋へ朝稽古を見に行けば判りますが、お相撲さんの日頃の精進も、たいしたものであり、今回色々と取りざたされたような事などを起こす事無く、あとは本場所で全力を尽くして頂きたいと願っています。そうすれば医療も相撲も国民の理解を頂けるようになるのではないかと思っています。


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名誉教授の独り言 (67) 恩師井上駿一教授のニアピン賞
平成23年 4月26日

 私の恩師である井上駿一教授の唯一の趣味は勉強する事でした。趣味とか遊びなどという事は全く頭に無かったのではないかと思います。正月に3ヶ日休日を取ってしまうと風邪をひいてしまうという事もありました。しかし、日整会を主催する為に同門でやるゴルフコンペ「次郎杯」には不承不精出場しました。当時、日整会を主催すると言う事は同門会から相当の支援を頂かないと出来なかったので、好きでもないゴルフも嫌々ながら参加した訳です。私は、ゴルフをやりたくてしょうがない状態でしたが、お金もありませんでしたし、暇もなかったので、中々ゴルフには行けない状態でした。
 「次郎杯」の幹事はその辺を読み通して、当時、私が医局長であった事もあり、私に運転手兼同伴競技者を数回御下命下さいました。朝、井上教授宅へお迎えに行きましたが、井上教授はゴルフ入門の本と赤鉛筆を持って車に乗り込んできて、後部座席から、「守屋君、バンカーって何だ?」「砂の或る所です」などの会話をしながらゴルフ場に到着しました。一日同伴競技者として、球拾いをし、時にはOBの球に付いている泥を落とし、そっとセーフゾーンに持ってきて、ふんわりした芝の上に置いて、「ラッキーでしたね」などとゴマをすったのを覚えています。
 そんな井上教授がニアピン賞を取った事があるのです。同伴競技者なので、もちろん、私はそのショットを見ていました。そのホールは池越えのショートでした。井上教授は大変、力持ちの先生で、アイアンで打った球がアイアンの歯の部分に当たったものの、水面上50cm ぐらいの所を水面と平行に向こう岸をちょっと超える位に飛んで行き、そのままランし、グリーンの端にやっとですがonしてしまいました。もちろん1組目でしたし、私を含めて外の3名は乗らなかったので、井上教授はニアピン賞のfragに堂々とご自分の名前を書きました。しかし、同伴競技者として誰かがもっと近くに乗せるだろうと思って、そのままラウンドを終わりました。風呂に入って表彰式になったら、何と井上教授がニアピン賞 だったのです。私は不思議に思っていましたが、皆が祝福しているので、私も祝福の拍手をしました。表彰式も終わり、雑談になった頃に、ある先輩が「井上先生、あれはバーディーだったんでしょう?」と聞いたので「変だなー」と思っていました。後日聞いた話ですが、井上教授より近くに乗せた人は皆、自分の名前を書かずにニアピン賞のfragだけ近付けていき、最後には50cmぐらいだったという事です。そんな事とは知らず、井上教授は大変ご機嫌で帰路に着きました。
 帰りの車の中で運転中の私に井上教授は後部座席から「守屋君、うちは助教授も講師もゴルフをやらないなー?ゴルフぐらいしなければなー。」とのお言葉を残し、後はいびきをかいて寝てしまいました。確かにその通りなので、これからは医局でも少しは趣味や遊びの話も出来るかなー、と思ったりもしながら、事故を起こさないように注意しながら運転して帰りました。
 翌週の医局会が一応終わったところで、井上教授が、「その他に何かあるか?」と言われたので、私が「年末でもあるし、マージャン大会などどうでしょうか?」と発言したら、間髪を入れず、「俺の前で遊びの話はしないでくれ!」と怒鳴られ、座っていた椅子を蹴飛ばすようにして教授室に帰ったのを今でも鮮明に記憶しています。私は井上教授とは全く比べようの無いだらしない人間なので、私が教授であった頃の教室員は大変幸せだったのではないかと今でも思っています。


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名誉教授の独り言 (66) 医療はサービス業ではない?
平成23年 4月16日

 若い時から「医療はサービス業」と教えられてきました。従って病院に「患者サービス委員会」や「接遇委員会」などがあっても当然だろうと思っていました。先日、一寸した挨拶をするのに、改めてネットで厚生労働省の職業分類を調べてみましたら、2008年版の分類で医師、看護師、医療技術者などは「サービス業」では無く、「専門的・技術的職業」に分類されていました。言われてみるとそのようにも思いますが、少し驚きました。しかし、たとえ分類が変わったからといって我々が行っている医療行為はなんら変わりません。それよりも今迄、患者さんを大事にして医療をしていた上に、専門的・技術的職業であることを自覚して更にハイレベルの医療を提供しなければならないと改めて思いました。しかし、現実的には、一部の医療機関では必ずしも専門的・技術的職業としての医療を提供できないだろうと思うような状況もあるのは事実です。
 私は、この4月から千葉市病院事業管理者になりましたが、同時に空席になってしまった千葉市立海浜病院長を多分、短期間だと思いますが、兼任しています。現在は院内をあちこち見て回り、色々と教えて頂いている所です。先日、海浜病院の売りの一つである「地域周産期母子医療センター」を見学させて貰いました。「地域周産期母子医療センター」は早産、難産、多胎児(双子、三つ子など)のお産などを扱い、必要なら母親とそのお子さんに入院して頂き、入院から30分以内に帝王切開でお産をして貰う事が出来る施設です。早産のお子さんの中には生まれた時、500gとか600gとかの小さな、小さな命もあります。そのようなお子さん達に本当の専門的・技術的医療をしているのを見たのは、恥ずかしながら初めてでした。医学部学生の時は外来を見たり、手術を遠くから見たりしましたし、インターンの時、出産に立ち会わせて貰ったりしましたが、こんなに難しそうな、しかも医師も看護師もmotivation高く、忙しそうに働いている姿を見た事はありませんでした。もちろんこのような神々しい働きぶりは「サービス業」でもあり、「専門的・技術的職業」でもあります。私は見ていてこんなに素晴らしい仕事をしてくれている事に感銘し、病院の収支なんてどうでも良いのではないかと思いつつ、涙が出てきてしまいました。
 世の中には医師免許証を持っている事を良いことに金儲けに走っている人達がいるのは事実です。私はその手の人達とは出来るだけ付き合わないようにしているつもりです。出来るだけと書いたのはそうではないと思って付き合っていたら、そうだったと後で気付いて慌てて付き合いを辞めた人達もいるからです。日本は戦後、GHQに指図されて、国民皆保険になるまでは「医者は死んで借財を残す」と言われていた職業でした。それが裏目に出てアメリカ流にやれば儲かる仕事になってしまいました。しかし、医療で儲けてはならないと私は今でも思っています。儲けないからといって患者さんを粗末に扱ったり、差別したりしてはいけないことは当然です。法的にも経済的にも最善を尽くして治療に当たるべきです。入院の適応のある患者さんは入院して頂くのは当然ですし、手術の必要な患者さんは手術をすべきと考えています。今回、「地域周産期母子医療センター」を拝見させて頂いて、医療というのは「専門的・技術的職業」を持った「サービス業」であることを再認識しました。


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名誉教授の独り言 (65) 組織改革より意識改革
平成23年 4月 1日

 ピーポー・ピーポーと院長宿舎から聞こえるとあの車は鹿島労災病院に行ってくれるかなーと思っていましたし、ましてや、その救急車が院長宿舎の前で止まった時は5階から慌てて降りて行って鹿島労災病院へ行って下さい、と言ったりしていました。でも、今、千葉に帰り、外で鳴っているピーポーに、鹿島労災病院へ行って下さいとは言えません。心の中で鹿島労災病院に沢山の患者さんが来てくれますように、と祈っているだけです。3月28日で鹿島労災病院の勤務を終わりとさせて頂き、翌日千葉に帰ってきましたが、その後、ドッと疲れが出て、2日ぐらいは寝たり起きたりでした。
でも、今日4月1日から私は千葉市病院事業管理者としての仕事をしなければなりません。千葉市の財政が逼迫(ひっぱく)しており、このままでは財政再建団体になりかねない状態であり、少しでも病院の経費を節減する為にお願いされたものです。昨年9月から毎週金曜日の午後に千葉市立海浜病院と青葉病院の部長以上の方達と面談をさせて頂きましたが、多くの無理難題を申し込まれました。手術室が不足しているので、もう2部屋作ってくれとか、ある科では医師・看護師不足なので増員してくれとか、病室の使い勝手が悪いので、使いやすいようにリフォームしてくれなどなど、言われ放題でした。いくら管理者でもそんなことを安請け合いは出来ないので、ぐっとこらえて話を聞き、直して頂きたいところは、そのようにお願いしました。その結果でしょうか、組織には全く手を付けていないのに、平成22年度の一般会計からの繰り入れ金が両病院で約46億5000万円だったのが、平成23年度は約40億円で良さそうだという計算になったようです。これは職員の方々が努力してくれた結果だと思い、心から感謝しています。組織を改革するのには多大な知恵と労力と犠牲が必要ですが、意識を改革するのにはそれなりの犠牲は必要とはいえ、組織改革よりはやりやすいですし、効果も大きいと思っています。「組織改革より意識改革」を合言葉に今後とも全職員が頑張って下さるようお願いしたいと思っています。
今回、私は病院事業管理者と共に海浜病院長を兼任する事になってしまいました。かなり以前から、大学病院に廣瀬病院長の後任の人選をお願いしていたのですが、直ぐにはいないが、10月からならと言われ、それまでは私も兼任できそうも無いので、丁重にお断りさせて頂き、自分でも何人かに当たったのですが、全て断られてしまい、仕方なく短期間兼任と言う事になってしまいました。大学病院も病院長が交代しましたので、来週アポを頂き、又、お願いに行って来る予定です。
昨日、海浜病院で新入医師に一言と言われたので、
 1.  朝、会ったら「おはようございます」と言って下さい。
 2.  若い人は何を身につけていても格好良いのですが、医師たる者、身ぎれいな服装でいて下さい。
 3.  同僚と仲良く協力し合って仕事をして下さい。
 4.  市立病院の職員は公務員であるという事を忘れないで行動して下さい。
とお願いしました。
家に帰ったら鹿島労災病院では感じなかった疲れがドッと出ました。後1ヵ月で70歳ですから仕方の無い事だろうと思っています。
両市立病院の職員の方々のご協力を心よりお願い申し上げます。


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