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名誉教授の独り言(193) 関節鏡

更新日 平成30年11月9日

最近、横綱白鵬が関節鏡で関節ネズミの除去手術を受けたという報道を目にしました。力士が必要に応じ関節鏡視下手術を受ける時代になったことを感慨深く受け止めています。

 

私は昭和42年(1967年)3月に千葉大学医学部を卒業しインターン生活に入りましたが、その頃は学園紛争真っ盛りで、突然規則が変わり、最後のインターン生となってしまいました。翌年1月に、鈴木次郎教授が東京駅で心筋梗塞で急逝しており、千葉大学医学部整形外科は教授不在でした。当時、国立千葉病院の病院長だった鈴木五郎先生のところへ相談に上ったら「君は整形外科をやりたいんだろう。教授なんて誰だって同じだよ」と言って下さり、そのまま千葉大学医学部整形外科教室に入局しました。

 

翌年4月に川鉄病院に出張に出て、8か月後に上都賀病院に転勤になった時に当時の上都賀病院整形外科部長の大井利夫先生から「何か特別に用意してもらいたいものはあるか?」と聞かれたので「関節鏡を買ってください」とお願いしました。それから1年半、主に関節鏡をやっていました。帰局し主に膝の研究、勉強をしていたら井上教授から東京逓信病院へ行くように命じられました。当時、関節の内視鏡検査は膝がほとんどでした。関節の内視鏡器具は日本で初めて作られていましたが、その後は外国製の方が使い良い関節鏡になっしまいました。関節鏡の対象関節はほとんど膝だけであり、それも検査だけがほとんどでした。ごく稀に足関節などにも行われていました。鏡視下手術は盲目的な滑膜切除術ぐらいで現在のように半月板切除術や前十字靱帯再建術などは一般的には行われていませんでした。関節鏡を開発した渡辺正毅先生に1年半ご指導を頂き、自分の我儘で帰局しました。その後、LondonのRoyal National Orthopaedic Hospitalに留学しました。そこでは私の指導医であったMr.Lordon Tricky先生から親切にして頂き、特に関節鏡の時には「私は更衣室でコーヒーを飲んでるから関節鏡をして結果を教えてくれ」と言ってくれており、大変嬉しかったことを覚えています。イギリス留学中は整形外科はあまり学ばず、英会話だけ学んだような気がしています。留学から帰ってからは英語は全く不自由なくなり、井上教授から「自分も留学していれば君ぐらいになったのに」と言われてしまったことを覚えています。帰国後間も無くに開催されたSICOT KYOTOでは渡辺先生から共同座長にご指名頂き、無事勤めました。その後、関節鏡は益々進歩し、多くの関節で鏡視下手術が当たり前になり、私も教授にさせていただいた事もあり、関節鏡部門で国内だけではなく国際的にも色々と活躍させて頂きました。72歳の時にゴルフが大変下手になったので、関節鏡を含め一切の手術も下手になったと思い、辞めました。力士が躊躇なく受けてくれるようになった関節鏡視下手術が更に多くの患者さんが受けてくれるようになることを願っています。