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名誉教授の独り言(200) 人生100年時代(1)

更新日 平成31年4月11日

 先日、中学時代の仲間5人で恒例の昼食会をしました。そこで「何故、守屋は中学3年で千葉市の緑中に転校してきたのか」聞かれました。同時に「その辺の事を書いて残しておくように」と命じられました。という事で今回から、その辺を書きます。

 

 私は昭和16年 5月13日に千葉県山武郡蓮沼村(現山武市蓮沼)に生を受けました。その年の12月に太平洋戦争が始まりましたが、実家が造り酒屋だったこともあり、食べるものに苦労したという記憶はありません。大した病気もせずに大きくなりました。村立蓮沼小学校に入学し、大した勉強もしないでいましたが、小学校4年の頃に母親から「あなたは医者に向いていると思いますが、親戚縁者に医者はいないし、私にも何の助言も出来ないので成東駅前の本屋さんからこの本を買ってきたので読んでみて下さい。それで医者に成たかったら成れるように自分で努力して下さい」と言われました。「野口英世の伝記」でした。2回読んで、医者も良さそうだなと思いましたが、その後も大した勉強もせず、村立蓮沼中学校に進みました。中学生になり、将来の事も考えるようになりましたが、医者になるという事はすっかり忘れ、TVなどを見て噺家も良いなと考え柳家金語楼師匠に手紙を書きましたら、何と返事が来ました。曰く「これからは噺家も教養が必要です。大学で勉強して下さい。大学を卒業しても、まだ噺家になりたかったら、また手紙を下さい」、でした。中学3年の5月に、このまま蓮沼にいたのでは医者になれない、と思っていたら母親から千葉の中学に転校手続きをしたから行くように言われ、東京の大学に行っていた長兄が飯炊きをしてくれるという事で千葉市轟町のお寺の離れを借りてくれ、そこから千葉大学を突っ切って緑町中学校に通いました。転校した1週後に1学期の中間試験でした。蓮沼中ではJack and BettyはLesson2だったのに緑中ではLesson6でした。試験の結果は500名中250番ぐらいでした。そのころ緑中から千葉一高(現在の千葉高)には50名ぐらいしか合格していませんでした。これは大変だと思いました。それからは死に物狂いで夜中まで勉強しました。その結果、1学期の期末試験で120番ぐらいに上がりました。8月には蓮沼の2人の同級生と付属中学の夏季セミナーに出席しました。2学期の中間試験で60番ぐらいになり、期末試験で50番ぐらいになったのですが、担任の先生からは一高では無く、三高を受験するように言われました。でも一高を受験しました。倍率が幸いにして1.1倍でした。合格はしましたが、4月から自律神経失調症になってしまいました。これは医者になってから、自分で診断したものです。授業が始まると訳もなく汗びっしょりになってしまう事が繰り返されましたが、何の治療もしないで半年ぐらいで治りました。色々な生活の変化についていけなかったのだと思います。 学校の成績は相変わらず上昇し続けました。でも、最高で学年3番でした。そのまま千葉大学医学部の入試に突入しました。1年目は落ちました。浪人です。でも、予備校に行って初めて点の取れそうな勉強の仕方を学びました。その結果、1浪の後に千葉大学医学部に合格させて頂きました。(続く)