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名誉教授の独り言(203) 人生100年時代(3)

更新日 令和1年6月19日

 前回の(202)は原稿をupしてからトランプ大統領の写真を入手したので、それをupしました。見ていない人は見て下さい。

 それでは「人生100年時代」の続きを書きます。

 インターンが終わったら千葉大学整形外科に入局するつもりでした。自分が整形外科医としてやっていけるかどうか自信が無かったので整形外科医局に行って「自分は力持ちではないのですが、務まるでしょうか?」と、そこにいた医局員に聞きました。「大丈夫だよ!」と答えてくれた人が小松崎先生で、何と医局で一番の力持ちの先輩でした。ところが入局直前の1月に鈴木次郎教授が東京駅で心筋梗塞にて急逝されてしまいました。困ってしまい国立千葉病院鈴木五郎院長(当時、親友の一郎の父親)のところへ相談に行きました。五郎先生は「自分が整形外科をやりたいのならやったら良い。教授なんて誰だって同じだよ」とお答えくださいました。結局教授不在の医局に入局しました。当時は全国で整形外科の振興期でした。多くの関連病院で整形外科医を求めており、医局長から7月から関連病院に出張するように言われました。ただその病院数が12だったので同期入局者は13名であったため私は大学に残ることを認めてもらいました。その分、医局の雑用係を一手に引き受けさせられました。手術の日は出血量の測定、術者の汗拭き、術後の手術器具の洗浄・油拭き・手術器具入れへの格納など一人でやりました。

 7月の教授会で井上駿一助教授が教授に選出されました。

 その晩に医局の風呂に皆で入ったのを覚えています。その後、井上教授の命令には余り従わなかったのに、イギリスに留学させて下さり、帰国したら講師にして下さりました。井上教授の専門は脊椎外科でしたが、私は関節外科を専門として勉強・研究をしていました。松井先生が名古屋市立大学の教授になり、玉置先生が和歌山県立医大の教授になった後に井上教授は私を助教授にして下さりました。その10ヶ月後に井上教授が急逝され、自分としては大変困った立場になってしまいました。田舎に亡くなった父が買ってあった土地があり、兄名義だったので、そこを借りて開業することも考え、下見にも行きました。でも何人かの教授が私を押してくれたので、思い切って教授戦に立候補しました。色々ありましたが結果としては選出して下さり、もともと教授になろうなどとは全く思っていなかったので、何とも分不相応の教授という事になってしまいました。教授に選出頂いたときは46歳と11ヶ月、任命頂いた時が満47歳でした。それからが大変でした。でも世の中がバブルに入ったころであり、何でも押せ押せで過ごすことが出来ました。教室員に自分が興味を持ったことを積極的にさせていたら何となく守備範囲の広い教室になって行きました。私は1年間イギリスに留学させて頂き英語は全く不自由なくなりましたので、教室員にも希望する人は出来るだけ留学するように取り計らいました。お陰様で60歳の時に日本整形外科学会学術集会会長を始め多くの学会長を務めさせて頂きました。更に千葉大学定年直前に「横綱審議委員」を仰せつかり、最後の2年間は委員長までさせていただき、身に余る光栄でした。結局、千葉大学医学部整形外科教授を19年間務めました。いろいろと苦労はありましたが楽しく充実した教授としての人生でした。その後13年経って現在78歳です。もうボケ老人です。でも先週は袖ケ浦CCで49,49でした。自慢話はこの辺でお仕舞にします。