名誉教授の独り言(222)新年のご挨拶
更新日 令和3年1月3日
今年も多くの方から年賀状を頂きましたが、昨年からのコロナ禍に関する記述が最も多く、私の年齢が今年80歳になることもあり、賀状を出すのは今年でおしまいにしますとか、医者を辞めました、あるいは辞める予定です、などの記述も多くみられました。私も同感ですが、年と共に正月の朝に賀状の来るのが待ち遠しくなるのを実感しており、面倒ですが書けるうちは書くつもりです。医者については小学生の時から努力してやっとなれた職業ですし、千葉大学医学部に合格した時は泣いて喜んだのをよく覚えていますので患者さんに頼りにされているうちは続けようと思っています。体力は十分に残っていますのでしばらくは出来ると思いますが、現状でも時に薬の名前が出て来なかったりするので何時までつづけられるか判りません。
スポーツクラブですがコロナ騒ぎが始まってから機械を使った訓練は止めて湿度70%ぐらいのプールでの歩行や少しの泳ぎ、その後のお風呂だけにしていましたが、昨年までの週2~3回だったのを週3~4回にしようと思っています。
ゴルフもずいぶん下手になり、楽しみよりストレスになってきてしまいましたが、お誘い頂ける限り続けるつもりです。
まだ老け込むには早いと思うし、老け込もうとするとどんどん老化現象が進むように思います。新年を迎えもう一度考え直し、若々しく生きて行こうと考えています。
名誉教授の独り言(221)年末のご挨拶
更新日 令和2年12月27日
寒い日が続いていますが、皆様は如何お過ごしですか。令和2年はコロナに振り回された年でした。1月に変なニュースがあり2月から新型コロナ感染だと言われ、それからは一喜一憂しながら奈落の底に落ちていきました。マスクを付けることは現在は常識になっていますが、今年の2月頃迄はマスクを付けても感染を予防出来ないし移す効果も無いというのが医学的常識だったと思います。冬になって寒い日が続き、炬燵を出さずに我慢していたのですが、ついに寒さに耐えきれず、出すことになりました。炬燵は良いものです。ホッとして炬燵で昼寝をしたりしています。
あと5ヶ月で80歳になります。まだ週1日大先輩の病院で非常勤医をして手伝っています。とは言っても、もう2年半前にスポーツクラブの車庫でアクセルとブレーキを踏み違え壁に激突して車をダメにしてから、車を手放し運転を辞めており、このところのコロナ騒ぎの中ではバスやJRでは病院に行けないと事務長に言いましたら2月からは病院車で送り迎えしてくれて何とか行っております。午前中いっぱい患者さんを診察すると疲れ切ってしまい、そろそろ辞め頃かと思っています。
12月になり恩師井上教授の奥様の具合が悪いとご子息からご連絡を頂き、案じていましたが中頃に御逝去されました。その数日後には元同門会長の富田先生の奥様が御逝去され、お二方には生前色々とお世話になりましたので、今は大変寂しい思いをしています。
昨年から今年にかけてあちこち怪我をしてしまい、その影響でゴルフが全くダメになってしまい100を切れなくなってしまいました。前回ラウンドした時は北風が寒くスコアーも57,59と悪く、悲しくなってしまい、こちらもそろそろ辞め頃かと思っています。
先日散歩中に初夏のころまで楽しませてもらったキジ君に貸農園脇の空き地で会いました。それ以後は毎日ぐらいに同じところに行っていますが会いません。来年春までお預けのように思います。
皆様方に於かれましては佳き新年をお迎えくださるように祈念申し上げます。
名誉教授の独り言(220)令和2年11月場所
更新日 令和2年11月24日
令和2年11月場所は福岡ではなく両国で開催されました。地方場所となると力士を含め総勢1000人ぐらいの移動があるようで新型コロナを東京から持ち込まないようにするためこのようなことになったようです。
場所が始まる前から白鵬、鶴竜の2横綱の休場が発表されましたが,それはしょっちゅうなのであまり寂しく感じませんでした。ただ、期待の大関朝ノ山が4日目からもう一人期待の大関正代が6日目から休場となってしまい、その他にも何人か休場力士がいて、非常に寂しく、全く面白くない場所となってしまいました。病気や怪我で休むのは仕方が無いことですが、ただこのように横綱、大関などが多数休場してしまうのは稽古不足が根底にあるように思います。そのような中、小結に戻った照ノ富士と幕尻の志摩ノ海が頑張ったのはせめてもの救いでした。志摩ノ海はあまりに勝ち進んだので13日目に出場力士の1番上の貴景勝に当てられ、14日目は照ノ富士に当てられ見事に粉砕されてしまいました。相撲には番付けがあり、番付けは日本相撲協会がそれなりの責任の重さを持っているので、ただ勝っているからということで番付けの1番下の力士を1番上の力士に当てるのは可哀そうに思いました。
日本相撲協会は何としても貴景勝に優勝させたい、そして来年1月場所を貴景勝の綱取場所として人気を取ろうと考えているのかと邪推してしまいます。千秋楽に本割で照ノ富士が貴景勝を破り、優勝決定戦で貴景勝が照ノ富士を破った2番は今場所の面白くないと思っていた鬱憤を晴らす取り組みでした。
場所後の横審では世論に押された形で2人の横綱に対して「来場所は覚悟を決めて出場するように」との注意が下されたようです。どうなりますか。現在の横審は委員が8名です。私が委員の頃は定員が15名で常時12名ぐらい委員がいました、委員会にはほぼ全員が出席していましたが、最近は出席率が悪く、今回も8名中6名だけが出席だそうです。日本相撲協会としてしっかりした諮問機関を作りたいのなら委員を定員に近くまで増やし多くの意見を募るべきです。委員の指名は理事長の選任事項になっているので理事長には是非とも頑張ってほしいと思っています。
ところで、今場所向う正面の東寄りの前の方の席に姿勢の良い美女が毎日来ておられました。終始しゃきっとした素晴らしい姿勢で観戦されておられ、余りにも目立ったので、どうゆう素性の方か気になりました。どなたかお知り合いでしたら教えて下さい。
もう一つ気になったのは元稀勢の里の解説でした。皆様はどうでしたか。
名誉教授の独り言(219) 現況報告
更新日 令和2年11月3日
左足関節内果骨折と左アキレス腱断裂をして1年経ちました。大学病院に入院した時に主治医の山口先生から手術にするか、ギプス固定にするか尋ねられました。78歳(当時)だし、組織の再生能が悪くなっているだろうと思い手術を希望しました。術後のギプスは翌朝にモナカにして貰い、何とか拘束感をしのぐことが出来ました。術後は大したトラブルも無く4ヶ月で骨折部もアキレス腱も全治し今年3月にはゴルフにも復帰しました。そのまま復調したいと思っていたのですが4月に夜中トイレに行くために起きた時バランスを失いひだり手をついて転んでしまい左手関節骨折をしてしまいました。幸いに変位がほとんどなくギプスで治療してもらいました。全治まで5か月を要しました。
2回の骨折を経験し学んだことは年寄りは関節可動域の回復に若い時より長い期間が要すること、術後療養している間に筋力が著しく落ちることなどでした。特に左上肢の筋力低下はゴルフに際して右手優位でクラブを振るのでボールがフックしてしまいがちである、実際にゴルフ場に行かないのでパットが大変下手になる、などでした。先週のラウンドでは4ホールまでにOB2回、3パット1回、4パット1回で前半のハーフが59回でした。
80歳近くの老人が1年近くゴルフをしないで復帰すると、なかなかハーフ50を切ることが出来ませんがを、マーこんなものでしょう。もうゴルフを辞めようかとも思ったのですが、他にすることもないので続けることにしました。
骨折騒ぎは取り敢えず収まったのですが、ここ数年は腰部脊柱管狭窄症による腰痛と両下肢のしびれと痛みで苦しんでいます。そろそろ手術を受けた方が良いかと10日ほど前には考えていたのですが試しにプロスタグランジンE1(オパルモン)を服用してみたら、どうも効いているようで腰痛が軽減し間欠性跛行も消失しています。このまま軽快してくれたらば万々歳です。先週は新袖で45,52で回りましたし、少し真面目に練習すればゴルフ復活となるのかな、と思ったりしています。
名誉教授の独り言(218) 老医の嘆き
更新日 令和2年10月16日
私は来年5月の誕生日を迎えると80歳です。私にとって80歳というのは雲の上の数字です。まだ週1でお医者さんをやっています。病院にはやらされていると言っていますが本当は、やれてうれしいです。だって医学部の入学試験で1浪の後に千葉大学医学部に合格した時には千葉の親戚の家に行き嬉しさのあまり大泣きしたことを今でも良く覚えています。
80歳になろうとしている老人が週に1回とはいえ千葉から富津までお医者さんをする為に行っているのは中々大変です。コロナ騒ぎのせいで病院の事務の方に送り迎えしていただいていますが、申し訳なく思っています。お昼頃までに15人から20人を診察したリ注射をしたり体操を教えたりしています。年のせいで大変疲れやすくなり、帰りはへとへとです。もう少し若かった時はこんなに疲れやすくなるとは想像できませんでした。この仕事を何時まで続けられるか判りません。いつ辞めても良いのですが、こんな年寄り医者を頼りにしてくれている患者さんもいるので続けられるだけ続けようと思っています。でも年のせいで薬の名前が時々出てきません。そういう時は看護師さんに聞くと的確に答えてくれます。私はその薬を処方します.さらに私はお返しに何か医学小講義をしてやります。それでお相子です。
それにしても記憶力は大変低下しました。薬の名前を始めとして人の名前などはなかなか出てこないことがあります。そういう時はニコッと笑って誤魔化します。でも、内心は「頭悪くなったなー」と嘆いています。
名誉教授の独り言(217)令和2年9月場所
更新日 令和2年10月3日
私の左手関節骨折も大分良くなってきました。私は暢気にしていましたが、今場所はコロナ禍で力士にとっては大変だったと思います。力士は出稽古に出られず、部屋で四股、テッポウ、スリアシだけでは十分に本場所に臨める体調は整わないのではないでしょうか。結果として力士70名(全体の10%)がいろいろな理由で休場、この中にコロナ関連の力士もいました。十両以上でも13名が休場でした。コロナで2部屋が完全封鎖され休場となってしまいました。相撲観戦の楽しみの一つは横綱土俵入りですが、これも両横綱休場でありませんでした。前半は下半身の筋力が充実していないせいかはたき込みで負ける力士が目立ったものの、はたきこみで決まった勝負はそれほど多くはありませんでした。幕内の取り組みが普段なら前半10組、後半10組あるのですが、今場所の千秋楽は前半9組、後半8組で、呼び出しさんは土俵を掃いて時間稼ぎをしていました。
白鵬、鶴竜の2横綱の休場で、今場所の期待は朝乃山の優勝にかかっていました。ところが重責に負けたのか朝乃山は出だし3連敗してしまいました。その後に頑張って3敗のまま後半まで来ましたが、14日に正代に胸をどつかれて哀れな負け方をしてしまい4敗となり優勝戦線からは脱落していきました。徐々に優勝候補力士が減っていき千秋楽では翔猿と正代の決戦になりました。遅咲きの翔猿ですが1,2度正代を倒しそうになり拍手・喝采でした。結局、正代の優勝と大関昇進でめでたしめでたし、でした。でも、全体としてレベルの低い場所だったなー、というのが印象です。
名誉教授の独り言(204) 無給医局員
更新日 令和1年7月3日
私は医師免許証を頂いてから52年目です。従って私が無給医局員になったのは52年前です。そのころは学園紛争の真っただ中で、インターンは医局制度の諸悪の根源だと言われ、私の学年でインターン制度が終了しました。同時に医者になりたてとはいえ無給で働かせるのは問題ではないかとという考えもあり、その後暫くしてから額は忘れましたが相当安い日給をくれるようになりました。でも当初は無給でも当たり前のように思っていました。現在は安倍内閣の「働き方改革」で無給医が問題になっていますが、多くの研修医に安い日給は払っているのではないかと思います。今でも全く日給も貰っていない若い医師もいるかと思いますが、それはタダでも良いので勉強させて下さい、という医師のように思います。私が無給医局員だった頃には週1日は関連病院にアルバイトに行っており、生活に困ったという記憶はありません。
私が医師になって1年目に大学病院に残してもらい雑用係をしていた時は、手術日には術者の汗拭き(当時は現在ほどエアコンが良くなく、術者は汗だくで手術していた)、出血量の測定(血でぬれたガーゼの重さを測定し、その値からガーゼ1枚3g×枚数を引いて麻酔医に報告する)、昼食の用意(お昼近くなると4人の術者に出前を何をするか聞いて手術が終わる頃に出前が来ているように電話で注文しておく)、手術が終わると手術室の床をモップ拭き、手術器具の湯洗、油引き、器具棚への返納、などなどでした。手術の無い時は勤務室に張り付き、回診、処置、処方などを行いました。自分が責任者となってやることは無く、先輩医師のやることを見たり、そのお手伝いをしていました。手術室や病棟での下働きのような仕事で一番勉強になったのは先輩の失敗を見る事でした。「なるほど。こんなことはしてはいけないのだ」と多くの勉強をさせてもらいました。教科書には上手くいった話しか書いてありませんが。日常勤務では上手くいかないことを日々学ぶ事が出来ました。
入局して数ヶ月した頃に医局で暇そうにしていたら、教授から「○○病院へ××君の代わりに当直に行くように」と命じられました。××先生はスライドつくりの名人だそうで、教授が電話したら「当直なので行けない」との返事だったようです。教授命令なので○○病院に行ったら××先生が待っていてくれて「君、僕の代わりに当直をしても当直料は出ないよ」と言われました。××先生は3年先輩でしたので「もちろん、貰いません」と返事しました。その晩は輸血の必要な患者さんが発生し、血液型のクロスマッチングをした記憶もあります。それから19年後に人生の巡り合わせで私は教授になってしまいました。その後に××先生に会った時に「君が入局1年目に○○病院で私の代わりに当直に来てくれた時に当直料を払わなかったことを覚えていますか?」と聞かれました。「もちろん良く覚えています」と答えました。「今日は寿司をご馳走するから食べられるだけ食べて下さい」と言ってお寿司を腹一杯ご馳走になりました。
正しい表現かどうか判りませんが、その時には「殴った方は忘れるが、殴られた方は忘れない」という言葉を思い出しました。
今、問題なのは(無給医がいることも問題ですが)、それ以上に無給医の数そのものでは無くて、有給でもその日給が安すぎ、超過勤務量も出ない事ではないでしょうか。
名誉教授の独り言(193) 関節鏡
更新日 平成30年11月9日
最近、横綱白鵬が関節鏡で関節ネズミの除去手術を受けたという報道を目にしました。力士が必要に応じ関節鏡視下手術を受ける時代になったことを感慨深く受け止めています。
私は昭和42年(1967年)3月に千葉大学医学部を卒業しインターン生活に入りましたが、その頃は学園紛争真っ盛りで、突然規則が変わり、最後のインターン生となってしまいました。翌年1月に、鈴木次郎教授が東京駅で心筋梗塞で急逝しており、千葉大学医学部整形外科は教授不在でした。当時、国立千葉病院の病院長だった鈴木五郎先生のところへ相談に上ったら「君は整形外科をやりたいんだろう。教授なんて誰だって同じだよ」と言って下さり、そのまま千葉大学医学部整形外科教室に入局しました。
翌年4月に川鉄病院に出張に出て、8か月後に上都賀病院に転勤になった時に当時の上都賀病院整形外科部長の大井利夫先生から「何か特別に用意してもらいたいものはあるか?」と聞かれたので「関節鏡を買ってください」とお願いしました。それから1年半、主に関節鏡をやっていました。帰局し主に膝の研究、勉強をしていたら井上教授から東京逓信病院へ行くように命じられました。当時、関節の内視鏡検査は膝がほとんどでした。関節の内視鏡器具は日本で初めて作られていましたが、その後は外国製の方が使い良い関節鏡になっしまいました。関節鏡の対象関節はほとんど膝だけであり、それも検査だけがほとんどでした。ごく稀に足関節などにも行われていました。鏡視下手術は盲目的な滑膜切除術ぐらいで現在のように半月板切除術や前十字靱帯再建術などは一般的には行われていませんでした。関節鏡を開発した渡辺正毅先生に1年半ご指導を頂き、自分の我儘で帰局しました。その後、LondonのRoyal National Orthopaedic Hospitalに留学しました。そこでは私の指導医であったMr.Lordon Tricky先生から親切にして頂き、特に関節鏡の時には「私は更衣室でコーヒーを飲んでるから関節鏡をして結果を教えてくれ」と言ってくれており、大変嬉しかったことを覚えています。イギリス留学中は整形外科はあまり学ばず、英会話だけ学んだような気がしています。留学から帰ってからは英語は全く不自由なくなり、井上教授から「自分も留学していれば君ぐらいになったのに」と言われてしまったことを覚えています。帰国後間も無くに開催されたSICOT KYOTOでは渡辺先生から共同座長にご指名頂き、無事勤めました。その後、関節鏡は益々進歩し、多くの関節で鏡視下手術が当たり前になり、私も教授にさせていただいた事もあり、関節鏡部門で国内だけではなく国際的にも色々と活躍させて頂きました。72歳の時にゴルフが大変下手になったので、関節鏡を含め一切の手術も下手になったと思い、辞めました。力士が躊躇なく受けてくれるようになった関節鏡視下手術が更に多くの患者さんが受けてくれるようになることを願っています。
名誉教授の独り言(180) 日馬富士殴打事件
更新日 平成29年12月29日
日本相撲協会はここ10年ぐらい暴力追放を掲げてきて、各部屋の稽古場には竹刀を含め棒状の物は一切置いてないとある親方が言っていたのを思い出していますが、残念ながらまた起こってしまいました。最初に日馬富士が貴ノ岩の頭をビール瓶で殴った、診断書に「頭蓋低骨折、髄液漏の疑い」と書いてあったというので、大変驚きました。確かにビール瓶の底の部分で殴ったら頭蓋亭骨折も髄液漏も起こるだろうと思い、大変驚き、真相を知りたいこともあり。TV局に行きました。その診断書は慎重を期して、もしかしたら…、と言おうとして書いたものであることが判りホッとしました。その後は貴乃花親方は一切しゃべらず、貴ノ岩の日本相撲協会による事情聴取にも応じさせず、ただ混乱していっただけでした。貴乃花親方が日本相撲協会を良くしたいと思っていることは分かっていますが、今回の事件に対する一連の対応はおかしいと思わざるを得ません。貴ノ岩を殴って負傷を負わせた日馬富士は自主的に引退することとなり、12月20日に開催された臨時横綱審議委員会、臨時理事会の決定で、彼の師匠の伊勢ケ浜親方は、自分で申し出て2階級降格となり、今日の臨時理事会で貴乃花親方の2階級降格が評議員会に答申されました。
確かに貴乃花親方の弟子の貴ノ岩は被害者ですが、貴乃花親方は貴ノ岩への日本相撲協会の事情聴取を許可しないで事件の解決を、ただ後回しにしているのは幹部理事として取るべき態度だとは思えません。今日の臨時理事会の決定は正しいと思います。
大学で教授をしていた時に出張病院で何かと問題を起こし部長あるいは病院長と上手くいかない教室員が何人かいました。その医師を他の病院に移動させてもまた、同じような問題が起こったりしましたので、そういう教室員の処遇には大変困りました。貴乃花の今回の対応でこんなことを思い出しました。
何はともあれ、事件が解決し、来年が日本相撲協会にとり、全国の、全世界の大相撲ファンにとり良い年になることを願っています。
名誉教授の独り言(179) 元若嶋津
更新日 平成29年10月27日
二所ノ関親方(元大関若嶋津)が緊急で病院に運ばれ重傷のようです。折角、審判委員長として活躍なさっていたのに、と思うと大変心配です。もともと糖尿病があったようですが1日も早い回復をお祈りしています。それにしても力士、元力士は色々と病気、怪我になりやすいように感じています。少しでも大きくなるために大飯を食らい、巨体同士で怪我をさせあっているのですから仕方ないかなとも思います。
最近は力士の怪我が多くなった主な原因として力士の大型化と稽古不足などが挙げられています。幕内力士の平均体重は1953年には114.5Kgだったのが、2017年には164.3Kgになったようで約60年の間に 50Kgも増えたようです。私が横綱審議委員を務めていた10年間でも平均体重が増えた印象があります。稽古不足は明らかです。稽古総見の時でも、理事長にハッパをかけられてやっと土俵に上がる力士がいたり、段々と稽古時間は短くなり、早い時には朝青龍関が横綱だった時と比べると30分ぐらい早くお仕舞になってしまうこともあり、折角朝早くから稽古を見に行ったのに「もうおしまい?」と感じたことも度々ありました。
その様なことで力士の怪我は確実に増えています。膝が最も多く、肘、足関節、手関節などが続くように思います。膝で最も重症な怪我は前十字靭帯損傷です。体重が重くなり、筋力が付いていかないと態勢次第では膝が内側に入ってしまい、前十字靭帯が断裂してしまいます。そしてそのまま相撲を取っていると半月板損傷を続発してしまいます。怪我の予防として親方たちはテッポウ、シコ、すり足などを沢山することだと教えているようですが、もちろんそのような基礎訓練は必要だと思いますが、それだけで十分とは言えないように思います。
でも、力士はスーパーマンのように思います。どこも痛くない状態で相撲を取る力士は居ないのではないでしょうか。どんなに痛みがあっても、痛みが軽くなればまた稽古を再開します。そして勝ちが続くと白星が最高の薬とか言って好成績を残したりします。でも、結果としては力士寿命を短くしているように思います。
両国国技館の地下2階には「相撲診療所」が開設されています。でもそこには単純レントゲン撮影装置はありますが、CT,MRIはありません。力士は地方場所では体が大きすぎてMRIのガントリーに入れないこともあるようです。内科的疾患も含め、診断まではしっかりできる態勢にした方が良いように思っています。さらに入院施設もしかるべき医療関係者の意見を聞き、ちゃんとした病院を指定すべきと感じています。ただ「優しい医師だから」とか、「こちらの希望を優先してくれるから」という理由で選んではいけないと感じています。さらに保存的治療をするにしろ、手術後にしろ、相撲診療所で、ある程度の療養指導、リハビリテ―ションなどの出来るようにした方が良いと思います。八角理事長は最初の理事長選挙の時の公約として、相撲診療所の充実も挙げていました。今年の9月場所前に短期間幕下以下の力士がリハビリテーションを出来るようにしたようですが、常設にして頂ければと願っています。
相撲は日本の国技だと言われています。一人でも多くの力士が内科的疾患や不本意な怪我を予防し、運悪く怪我をした場合は正しく診断され、早期復帰できるような治療を受けてくれることを願っています。
名誉教授の独り言(178) 目標。
更新日 平成29年10月18日
9月まで行っていた診療所を辞めさせて貰い、精神的に大変楽になり、よく眠れるようになりました。医療に対する考え方が経営者と異なり改める気もなさそうだったので、もうこの年では不本意な仕事はやるべきではないと思い、今回の決定となりました。横審委員長をさせてもらったお蔭でしょうか、幸いにして講演依頼や原稿依頼が幾つか来ており、今は売れないタレントより忙しいのではないかと思っています。でも、このバブルはそう長くは続かないと自覚しています。自分の年齢を考えるとそれも良いのではないでしょうか。講演と言っても最近は素人相手であり、最近は以前のPCが壊れてしまい、新しいPCにしたらpower pointが作れなくなってしまい、講演には腰と膝の模型を持って行き、必要な時はその模型を使って説明し、white boardを用意して頂き、時々はケーシー高峰風に書いて説明をしたりしています。最近は原稿を用意し、特に固有名詞は見ながら、やっと話している状況です。相撲の話と整形外科の話を冗談を交えながら話しており、割と反応は良いように感じています。
そのような中、最近の私のゴルフはスポーツクラブでの3年を超す筋力訓練のお蔭か飛距離がupしてきました。先日もグリーンオーバーが3回ほどあり、遂にはキャディーさんから私がクラブを選ぶと「大きいのでは?」と言われてしまいました。このまま頑張って、年末までに90を切ることを目標にやろうと思っています。早速、先日のラウンドでは、前半は45だったので、後半頑張ろうと思ったのですが、息切れがして出だしでパー5のところを2回木に当ててしまい10打となり、その後もメタメタで上がってみれば56と不本意な成績になってしまいました。次回に期待です。
27歳の時に医師国家試験に合格し、それからずっと医者をやっているのでもう50年です。医師免許証というのは一度合格すると死ぬまで有効です。でも、医療費は研修医がやっても大教授がやっても全く同じです。そういうシステムは良い点もあるでしょうが、何となく納得いかないこともあります。医師免許証を頂いてから、もちろん沢山勉強する人もいるでしょうし、あまり勉強しない人もいると思いますが、とにかく大変ありがたい資格です。でも、「そんなにお金の事ばかり考えていないで、少しは勉強しろ!」、と言いたくなる医者もいます。医者ぐらい実力に差のある職業は無いのではないかと感じています。そのような医師免許証を使って、10月からは千葉大学医学部の先輩がやっている病院で週に1日だけ整形外科医をやっています。その病院は田舎の老舗であり、患者さんは皆(ほとんど)素直な人達であり、整形外科医と言ってもメスは一切持ちませんので、ストレスはあまりなく心地よく診療にあたっています。
私は現在76歳ですし、現在は何時までこのような状態で仕事を続けて良いか悩んでいます。その病院の理事長は85歳ぐらいですので、事務長などはその位になるまで働いてほしいと言ってくれていますが、それは無理でしょう。自分で外来治療が出来る患者さんには出来るだけのことをしているつもりですが、ちょっと手の込んだ検査や治療は直ぐにかつての弟子や知り合いの医者に紹介させて頂いていますし、これからもそうしたいと思っています。
取り敢えず暇になった時間は目標に向かってゴルフの練習にでも行こうかと思っていますが、このところ毎日雨でおっくうになっています。
名誉教授の独り言(177) 老人の階段を1段上がりました。
更新日 平成29年10月3日
9月30日をもって土気にあるクリニックの仕事を辞めにさせてもらいました。6年前に長兄が終末医療で入院した時に色々とお世話になり、最後をみとってくれた病院の付属診療所であり、3年前に私が千葉市病院事業管理者を辞任した後に、懇願され(月)、(金)の午前中だけの外来をお手伝いしていました。サービス付き高齢者用住宅の1階にありました。最初の仕事が初日の朝に出勤したら何階かでお亡くなりになっている方が朝発見されたので死亡確認をしてくれ、死亡診断書を書いてくれ、警察の検視に立ち会ってくれという事で、すべてが始めて、あるいは久々であり、大変戸惑いました。その後私なりに頑張りましたが最近は色々とあり、今回の辞職決定となりました。3年間、患者さんに頼られる存在であったと思っています。この1か月間は紹介状作成で多忙でした。3年間クレーマーの患者さんを一人も作らず、一人も残さず、辞職出来てホッとしています。
10月からは大学の先輩がやっているJRで千葉駅から40分ぐらいのところにある病院で週に半日だけ整形外科のお手伝いをします。この病院の理事長は私より10歳ぐらい年上であり、千葉医学会では有名人です。私は現在76才であり、元整形外科医とはいえ最近はいつも使っている薬品の名前が出てこないこともあり、そろそろ終わりかなと思ったりもしています。手術は70歳ごろから一切やっていませんので、外来での患者さんの治療方針決定や、病気の説明(これは看護師さんも脇に来させて話すので、彼女たちには勉強になると好評です)、紹介状書きなどは何とかこなしています。私は医者になってもう50年ですが、現在の仕事なら5~6年研修すれば出来る仕事のように思います。
それにしても9月場所は散々でした。3横綱2大関の休場で前半は全くの盛り上がり不足でした。連日大入り満員・札留でしたが、入り待ちのお客さんはどんどん減り、売店の横綱の名前入りの弁当が午後4時を過ぎても売れ残っている日もあり、客席も空席がいつもより多く感じました。中盤は若手の活躍で多少の盛り上がりはありましたが、後半に入り若手が次々にコケ、最後は豪栄道の無残な相撲で、日馬富士の根性のみが印象的な後味の悪い場所でした。
10月1日は気分一新をすべくゴルフをしました。1か月ぶりでしたが、懸案の診療所を辞任したという精神的な爽快感があり、この間、練習もしなかったのに48,47でした。ドライバーは距離は出ないものの満足すべきものでしたが、寄せに難点があり、これを改善すべく、これから少し練習をしようかと思っています。これからの仕事は週に1日ですが、売れないタレント並みの講演依頼もぽつぽつあり、それらをこなせば、このくらいの仕事量が丁度良いと思っています。新しい病院では大変大事に扱ってくれていますので、心地よく仕事をさせていただいていますので、続けられるだけ続けようと思っています。でも、今は何となく老人として新しいstepを一段登ったような感じです。
名誉教授の独り言(176) 稀勢の里が危ない。
更新日 平成29年9月12日
今日から9月場所です。残念ながら3横綱、鶴竜、稀勢の里、白鵬が休場です。
鶴竜は横綱になった時だけ強かったですが、大関時代はいつ陥落するか、という相撲を取っていたので、準優勝、優勝した時に、当然のように協会から横綱に推薦されましたが、私的意見としては1場所様子を見るのはどうかと思っていました。でも、横綱昇進内規に2場所連続優勝かそれに準ずる成績というのがあり、そのような意見は言えずじまいで横綱に推挙しました。いまにして思うと鶴竜関自身が一番の被害者だったように思います.遠からず引退でしょうから、そうしたら楽になるでしょう。
稀勢の里はどうしてしまったのでしょうか。確かに3月場所で日馬富士に左肩辺りを痛めつけられて、その後、奇跡的に優勝をしてしまいましたが5月も7月もちょっとだけ出場しましたが、今場所は初めから休場です。左肩を受傷してから、もう5か月間以上経っています。筋肉での腱でももう治っているでしょうが、確かに筋力が戻っていないのかもしれません。でも、それ以上に精神的に参ってしまっているような気がします。今後どうなるのか心配です。
白鵬は私が横審になった年に横綱になり相撲界に色々と不祥事があった時も一人横綱として大活躍しまさにKingとして君臨していましたが、数年前から調子を落とし、張り手、ダメ押し、猫だましなどでさんざん叩かれ、私だけでなく、舞の海さんや多くのマスコミもそろそろ限界だろうとの評価でしたが見事に復活し最多勝、優勝39回を成し遂げました。大したものだと思っています。今回は左膝の痛みで相撲が取れないという事での休場のようですが、じっくり直して優勝40回を達成してください。
横綱として、ただ一人出場する日馬富士も横綱になる直前に2場所連続優勝しましたが、大関の頃もパッとした成績ではなく両足関節、両肘関節を痛めていて、土俵入りは白いものを付けずにしていますが、稽古の時はテーピング、サポーターだらけで、かわいそうな感じです。昨年の稽古総見で左肘に黒いサポーターを付けて八角理事長に注意され、その上に白いサポーターを付けて稽古していましたが、何かふてくされていたように感じました。
初日は3人の横綱の休場の影響で当日売り400枚に普段は午前6時には400人以上が並んでしまうのに、7時20分にやっと売り切れの人数になったという事でした。驚いたことに午後4時を過ぎても白鵬、稀勢の里、日馬富士のお弁当が売れ残っていました。でも、土俵は大変盛り上がっていました。特に若手の活躍が目に着きました。このままでいけば3横綱なしでも十分見応えのある場所になりそうです。結びの1番の後に2人の相撲記者さんと国技館近くのなじみの老舗の蕎麦屋で一杯やりながら、いろいろと楽しい相撲界の裏話などを話し合いました。お二人より一足早く〆のもりそばを頂き帰途に就きました。今場所も10日間、両国に通うことになっています。昔は相撲よりゴルフの方がやるのも見るのも好きだったのですがいつの間にか相撲を見るの方が好きになってしまったようです。今場所も腰痛と闘いながら頑張って観戦したいと思っています。
名誉教授の独り言(175) これからの高齢者医療
更新日 平成29年8月13日
このところ体調をくずしていましたが、最近やっと回復してきました。昨年3月の慢性硬膜下血腫に対する緊急手術、12月の再発胃癌に対する胃カメラによる粘膜切除などの影響で体力回復が遅れたように思っています。
先日、ご主人の整形外科学教室の先輩として若い時に大変お世話になり、奥様にも色々お世話になった80台半ばになられた奥様が急逝し、お知らせを頂いたのでお通夜に行ってきました。生前に何かにつけお声をかけて下さり、彼女に褒められるのが嬉しくていろいろしたように思います。お清めの席で喪主であるご長男の次に、何か喋れと言われたので、「ご子息とお嬢様は先生ご夫妻のなれそめを知っていますか?」と切り出したら「知らない!ぜひ話して!」とのことだったので、多少粉飾して話をしてから、「故人は現役力士の名前を一人も知らないのにTV中継を守屋を探すために見てくれていました。その期待に応えて横綱審議委員会委員長として稀勢の里を横綱にしました」と話しました。娘さんと息子さんが嬉しそうにうなずいてくれました。言い方が適切ではないかもしれませんが、たいへん素晴らしお通夜でした。
この10年で75歳以上の高齢者は1.3倍に増えているそうで、その分、高齢者医療費も増えているようです。高齢者の多くは大変つましい生活をして自身の医療費も出来るだけかからないように努力をされているように思います。サプリメントのお金は大変なので医療費で何か貰えないかと言ってきた患者さんもいました。
8月1日から高齢者医療の外来・入院負担金や月々の自己負担限度額がまた値上がりしました。詳細は判りずらく、私も十分には把握していませんが、入院食事代などは来年また値上げされるようです。高齢者介護の月々の負担額も値上がりするようです。高齢者には益々住みにくくなってくるようです。
口から食べられなくなった患者さんに胃ろうという方法がありますが、現在、大きな問題になっており、だんだんに胃ろうを造設しないようになっているようです。中には口から食べられるのに胃ろうを造設している病院もあるようです。先日知りましたが最近は胃ろうの代わりに診療報酬費が高くなった中心静脈栄養(IVH)をする老人病院が増えているという事です。お金儲けの医療ではなく、患者さんの尊厳を重んじた医療をしていただきたいと切に望んでいます。日野原重明先生の凄かった事の一つは最後に点滴、胃ろうなどの延命治療を一切受けず、なすがままに天寿を全うなされたことのように思います。
私ももう76歳です。回復の見込みのない病状になった時には一切の延命治療はしてほしくないと思っています。
名誉教授の独り言(174) 大相撲、終わってみれば又白鵬
更新日 平成29年7月24日
私は5年ぐらい前にもう白鵬は引退ではないかと勝手に思っていました。その後も、かち上げはする、ダメ押しはする、相撲記者と口を利かない、などなどで白鵬はもうダメなのかと思っていました。何をきっかけに立ち直ったのでしょうか。7月場所で白鵬は完全に復活し優勝回数を39回にし、勝利数を1050の新記録まで成し遂げました。大したものです。今では白鵬が強すぎて、かえって相撲人気が盛り上がらないのではないかと思ってしまうほどです。でも、今場所白鵬がこれだけ活躍しなかったら、これほど終盤までファンを繋ぎとめることはできなかったのではないかとも思っています。白鵬のこの記録は大したものですが、今場所の白鵬は立ち合いで右手を相手の顔面に出し、少し左にずれながら左上手を取り、後は上手な相撲で勝った取り組みが何番かあり、そろそろかなと感じています。それにしても、朝青龍のあの西麻布事件さえ無ければ、白鵬のライバルとしてこんなに長く白鵬に天下を取らせる状態は続かなかったのではないか思っています。
連日、暑い日が続きました。7月の名古屋場所ではお相撲さん達の熱戦が繰り広げられました。今場所は若手の台頭が著しく2,3の力士を除いてベテランの苦戦が続いていました。鶴竜は来場所の成績次第では引退でしょうし、豪栄道と照の富士はカド番です。幕内から十両に落ちそうな力士に琴勇輝、臥牙丸などがいますし、十両から幕下に陥落しそうな力士の中には北太樹、里山のベテラン力士もいます。若手は御嶽海、正代、貴景勝、北海富士、宇良などなど盛りだくさんです。勝負事は盛り上がるのも早いですが、熱が冷めるのも早いと感じています。ベテラン・若手がなんとか頑張ってこれからの土俵を盛り上げて欲しいと願っています。
それにしても稀勢の里はどうしてしまったんでしょうか。5日目の相撲では左足関節の靱帯を損傷するような感じは無かったように思いましたが、翌日から左足関節外側靱帯損傷という事で休場となってしまいました。5日目までで2勝3敗ですから何処か痛いところがあれば、それを理由に休みたくなってしまったのかと邪推しています。3月に怪我をした左肩のあたりはもう治っていると思いますが、まだ十分な稽古が出来ず、以前のような相撲を取れるまでには、筋力、俊敏性が回復していないのではないかと思います。そういう不安があったのでしょうか、控えに入ってから立ち上がるまで、眼瞼の動きがかつての、どうしても横綱になれない大関稀勢の里の頃と同じようになってしまったのが気になります。もう横綱になってしまったのですから、9月場所は休んで筋力、俊敏性の回復に努め、総合して相撲力を上げ、11月場所では稀勢の里本来の力を見せてもらいたいと願っています。でも、日馬富士には勝てないかもしれません。昨年9月の稽古総見で日馬富士に徹底的に可愛がられ、それがトラウマになっていたのではないかと思っていました。1月場所は日馬富士は途中休場でいませんしたが、今年の3月場所での取り組みで立ち会い一瞬遅れ左肩の辺りを日馬富士に負傷させられたように思いました。多分それはトラウマの上塗りになったように見えました。現在の日馬富士は満身創痍です。稀勢の里には頑張れば勝てると考えて取ってほしいと願っています。
大相撲TV放映ををやっていると、ついTV桟敷で見たいと思い、見てしまい、スポーツクラブを休みがちになってしまいました。明日からは復活します。
名誉教授の独り言 (173) 年を取りました。
更新日 平成29年7月10日
76歳になり、もう私のゴルフは、飛ばない、寄らない、入らない、となってしまい、結果として100をかろうじて切るか、切れないかになってしまいました。練習をしても現在よりは上手くなるとは思えず、精々周りに迷惑をかけないようにするだけだと思っています。
かつての教室員だった人が静岡で立派な整形外科病院をやっていて、先日、コンペをやるというので行きました。そこにはかつての教室員たちが前夜祭と称して大勢参加していました。その日は午前中に都賀で年寄りが集まる講演会に謝礼なしの講演を1時間半、口から出まかせの大相撲の話をして、乗り込んだ後でした。50歳前後の人達がゴルフにはまっており、3~4年熱心に練習しているものの未だに100を切れないと言っていました。彼らは18歳ごろに難関と言われた医学部入試に合格し、後は言われるままに勉強し、ここまで来ちゃった人達なので努力すれば人生は何とかなるのではないかと思っているようです。single playerになる人の8割はゴルフを始めて1年以内だそうで、私はゴルフが上手くなるかどうかは遺伝子の問題だと思っています。彼らが運よくゴルフが上達することを願っています。私はこのコンペでは同伴プレイヤーの80過ぎのジーさんの強い要望でゴールドティーから打ちましたが、やっと100を切りました。プレー後の成績発表会ではいろいろと楽しいコメントがあり遂に最後迄いてしまいました。楽しかったです。でもその後の2週間は疲れでボロボロでした・・・。
先日は自分のメンバーコースで熱中症にならないようにスポーツドリンク2本と芍薬甘草湯を持ってラウンドしました。朝からスポーツドリンクをガンガン飲み、午後は最高気温34度だったようで、後半4ホール目あたりで左手第4指が一寸攣ってきたので慌てて芍薬甘草湯をスポーツドリンクで飲み、何とか18ホール廻ることが出来ました。53,50でした。帰ってから喉の渇きに耐え兼ねてビールを飲んだらクタクタになってしまいました。もう年です。改めて、この夏、ゴルフをするかどうか迷っています。
それよりゴルフは絶滅危惧スポーツではないかと思っています。あれだけの広いスペースをあんな少人数の人達が独占し、贅沢な時は若いキャディーさんに1日お付き合いをお願いし、1日で100回ぐらいクラブを振り、後は休みながら歩くだけです。最近の若い人達はゴルフをしない人が多いように感じています。若いカミさんが許さないのでしょう。地球上の人口は爆発的に増えています。色々な考え方があるでしょうが、あの広大なゴルフ場は他の利用法を考えなければならない時がやがて来るように思います。
今日も最高気温が30度を超すという予報だったので、予定していたゴルフは辞めにして、午前中にスポーツクラブのプールで歩いたり、泳いだりして、お風呂に入ってきました。午後はTV桟敷でウトウトしながら過ごしました。お陰様で熱中症にはなりませんでした。
名誉教授の独り言 (172) ご無沙汰しました。
更新日 平成29年6月13日
前回は再発胃癌でご心配をおかけしました。残胃に出来た直径5mmぐらいの胃癌は胃カメラでの粘膜切除で治ったようですが、術後は、お酒を1ヶ月止め、消炎鎮痛剤は2ヵ月止めました。最近やってもらった胃カメラでの再検査で胃癌だったところは治っていました。その後の問題はピロリ菌でした。3年前に血液検査でやってもらった時は陰性でしたが、今回の呼気テストでは弱陽性とのことで薬を飲むことになりました。この薬は相当に強い抗生物質のようで、服用していた1週間とその後の数日間は常にトイレのことが気になり大変でした。その間のゴルフは6月1日45,53、と㋅11日53,50でした。体力もゴルフ力もどうやら回復したようですが、何となく体がふらつきます。そのような中、どういう訳か分かりませんが、講演依頼が相次いでいます。千葉大学名誉教授であり、日本相撲協会横綱審議委員会第14代委員長という肩書が良いのかもしれませんが、多くは町内会やスポーツクラブの人から依頼で、労多くして益少なしです。特に安い講演料の予定は忘れそうになっているので、家内にマネージャーをお願いしようかとも思いましたが、こんな売れないタレントのような仕事はそう長くは続かないと思うので、家内も真面目に聞いてはくれません。でも、秋までの講演依頼は8件あります。もう来年に、というのもあるようです。
昨年パソコンが壊れてしまい、新しいパソコンでの色々な操作が判らず、最近はスライドなしで講演をしています。一応絵を描いた方が良い場合は「ケーシー高峰」風にホワイトボードだけは用意してもらっています。考えてみると落語家や講談師はスライドなど使わずにしゃべっているので私もそれでも良いかと思っています。でも、今までスライドに沿って話を進めていたので、スライドがないと話があちこち飛んでしまい、どうやって元に戻すかが問題になってしまうこともあります。どちらにしても、そんなに大事な話をしている訳でもないので、何とかなっているようです。
本業の医者は中々辞められません。多くの人の意見では健康の面からも無理のない程度なら続けた方が良いと言われ、取り敢えずは少しだけ続けています。現在のような医者なら30歳前からでも出来ただろうなー、と思うような楽な仕事です。でも、これを若くして本業にしていたら人生に飽きてしまっただろうと思います。やれることは、レントゲンを撮り病気の説明をし、痛いという人に痛み止めを処方し、膝や肩に関節内注射をし、足底版や腰仙ベルトを発注するぐらいで、それより重症の人はしかるべき後輩に紹介状を書きお願いするだけです。こうして考えると手術をしたり、難しい研究をしたりなどは今更ながら大変だったと思います。
それにしても疲れやすくなりました。半日外来をすると昼寝したくなりますし、1日歩いて18ホール廻るとくたくたです。でも、今週は(月)、(金)に午前中だけ外来、(水)、(土)に講演とその後の宴会、(木)午後にある奨学会の選考委員会、日曜日には静岡でゴルフです。来週は使い者にならないのではないかと心配しています。稀勢の里の怪我も予想通り治ったようですし、7月場所に高安と共に大活躍してくれることを願っています。
名誉教授の独り言 (171) 再発胃癌
更新日 平成29年4月25日
昨年11月始めに、年に一度の胃カメラを受けました。胃癌術後10年目でした。胃カメラ後に主治医が変な顔をして「生検をしましたので1週後に来院して下さい」と言われ、行ったら「異型細胞が出ているので癌になる前に取ってしまいましょう」との診断でした。胃に異型細胞があると言われたら、ほとんどは癌なので覚悟して胃カメラでの粘膜切除を受けました。結果は胃癌の再発でした。実は術後7年目ごろに「異常なし」の診断だったので、親友である名医の鈴木一郎君に「もう良いかな?」と相談したら「正常だった胃に癌が出来たので、残っている胃にまた癌が出来る確率はあるので定期的に胃カメラはやってもらった方が良い」との言葉に従った結果でした。一般的に術後5年もするとなんとなく胃カメラをしなくなるようですが、私がそうしたら今回のように再発胃癌を見つけることはできなかったと思います。もし胃癌体験者の方がこのブログを読んでいるようでしたら、人生を諦めるまで年に1度の胃カメラをお勧めします。
入院は7日でした。3日目ぐらいにはすっかり元気になりましたので、退院を申し出たのですが、術後クリニカルパスは入院9日になっているのでおまけしても7日はいてもらわないと困る、ということで退院させてもらえませんでした。私自身は約30年間、教授をしたり、病院長をしたり、病院事業管理者をしたりで我儘でしょうがないと自覚していますが、何より不満だったのは流動食、お粥が不味かったことです。もう少し塩気をつけるとか、だしを入れるとかしたほうが良いと思いました。こんなに不味い食事を出して7日間も元気になった老人を入院させておくのは不合理であり、食事指導をして、もっと早く、患者の責任で退院させるべきと思いました。
術後の主治医の説明では粘膜を切除したところはクリップで縫縮したが少し出来なかったところがあり、胃潰瘍状態になっているので、術後1ヶ月は禁酒、2ヵ月はNSAIDS禁止とのことでした。お酒は守れましたが、NSAIDS禁止は守りましたが辛かったです。以前から腰痛があり特にゴルフの時にはNSAIDSが必要でしたが、今回は温湿布などで頑張りました。2ヵ月近くなった時に、「そうだ、座薬を使えばよいのだ!」と思いつきました。整形外科医としてはお粗末な話でした。でも、これは主治医が言ってくれてもよかったかな、とも思いました。
術後2ヶ月ごろ、腰は痛いし、食欲は進まないし、体重が2Kgぐらい減少し、それがなかなか回復しませんでした。消化器の病気は整形外科とは違うなー、と思いました。さらに1月は稀勢の里が横綱になれるかもしれないという毎日でほぼ毎日両国に通い、砂被りに3~4時間座っていましたので、腰痛はさらにひどくなり、体調回復には悪影響がありました。
最終的に術後2ヶ月での胃カメラで粘膜は回復しており、体調も術後3ヶ月ごろから回復してきました。
稀勢の里は1月場所優勝し横綱になりましたし、さらに3月場所でも、左肩周辺を負傷しましたが連続優勝し、万々歳でした。これでゴルフが復調すれば文句ありません。
名誉教授の独り言 (170) 講話
更新日 平成29年4月7日
本日は千葉大学大学院修了、誠におめでとうございます。ご父兄の方々にも、心よりお祝いを申し上げます。大学院修了生は、晴れて今日の日を迎えることとなりましたが、今後、社会に出る人、研究を続ける人と色々な道があると思います。皆さんが世の為、人の為に役立つような人生を歩んでくれることを願っております。
私は、大学院修了生の皆様を非常に羨ましく思っています。と言いますのも、私は千葉大学医学部を昭和42年3月に卒業しましたが、1年間のインターン終了後、大学院を受験出来ませんでした。当時は安田講堂事件など、学園紛争の真っただ中で医学部クラス会決議は「大学院ボイコット」でした。クラスメートのうち何人かは大学院に進みましたが、私は大学院には進みませんでした。でも、私は小学生の時から、世の為、人の為に役立つ医師になるということを決め、医学部に進み、整形外科医になり、主に関節外科、スポーツ医学の研究、臨床を続けました。毎日、必死に勉強しました。その結果、多くのスポーツ選手、プロゴルファーの中嶋常幸プロ、丸山茂樹プロ、岡本綾子プロや何人かの力士も診療しました。その結果でしょうか、後に日本ゴルフツアー機構医事委員長をご指名頂きました。そうこうしているうちに横綱審議委員で人間国宝の歌舞伎役者澤村田之助氏が千葉大学医学部整形外科教授であるということで、私の所を受診してくださり、結局は手術をさせて頂きました。治療をしている間に相撲の話をしていたら、ある日、突然「横綱審議委員になりませんか?無報酬ですが・・・。」という話になり、その後、北の湖理事長から横審のご指名を頂きました。学生時代やその後の医者になって若かった頃、酒を飲みに行ったり、マージャンをしたり、と人生を謳歌しました。それはそれで楽しかったですが、でも私にとり人生で一番楽しかったのは学生時代、その後医師として、「勉強をする事」でした。今日の大学院修了生はまだ若いです。まだまだ勉強をしなければなりません。頑張って勉強して人生を楽しんでください。
私が人生で大事にしている事の一つに「やるべきことをやるべき時にやる」があります。研究であれ、論文作成であれ、やるべき事を素早く認識し、やるべき期限までにやり終える、ということです。相手が偉い、あるいは重要人物であればあるほど多忙であり、待っていてくれることはありませんし、重要な学会であればあるほど期限を守ることは重要です。仕事の遅い人は、結果として、それなりの評価しか頂けません。
私は医師として教育者として一生を過ごしてきましたが、お金儲けのために仕事をしたことは一度もありません。これは大変幸せなことでした。お金を稼ぐことを第1に考えて医師をやっていると人間が卑しくなり、品格が落ちるように感じています。常に医師としてのprideを持って人生を過ごす為にはお金儲けを第1と考えてはいけないと思っています。これは医師以外の仕事でも同じだと思っています。本日の大学院修了生の皆様には、事情が許せば、「お金の為にではなく、真理の追及の為や、世の為、人の為になる仕事」をしてほしいと願っています。
世の中で偉くなるかについて「人生は巡りあわせ」だと思っていますが、良い巡りあわせの流れを作るのも一つの努力のように思います。横綱審議委員長最後の場所に、それまで勝って欲しい、負けないでほしいという期待を何度も裏切ってきた稀勢の里が優勝し、横綱に推薦できたことは私の引退の花道を飾ってくれて、本当に幸運でした。